第48話 ただ、繋がりを絶やさぬために。
カサッ……。カサカサカサッ……。
死臭と湿気が澱む腐葉土の底で、何百本もの硬質な歩脚が痙攣するように震える音が響いていた。
直径数メートルにも及ぶシダの巨木たちが、まるで巨大な肋骨のように太い根を絡み合わせ、空を完全に遮断した『樹林のドーム』。
青白い魔力ガスだけが幽鬼のように漂う薄暗がりの中で、異形の巨大蟲たちが息を潜め、腐葉土に沈み込んでいた。
体長二十メートルに達する、重装甲の超巨大ヤスデ(アースロプレウラ)。
極彩色に輝く三メートル級のタマムシ(クロッソコリス)。
淡い青色の鱗粉を落とすオオミズアオに、蘭の花に精巧に擬態した巨大なハナカマキリ。
――それだけではない。
暗がりには、シダの裏にへばりつく奇妙な甲虫や、泥と同化した巨大なハサミムシのような影など、名も知れぬ無数の蟲たちが折り重なるようにひしめき合っている。
本来ならば生活圏も食性も全く異なるはずの彼らが、なぜ一つの場所に集い、極限の恐怖に震えているのか。
彼らの焦点の合わない複眼は、一様に『同じもの』を見つめていた。
分厚い腐葉土の中央。
頭部と胸部を無惨に噛み砕かれた、体長五メートルの巨大な羽アリ――かつてこの森で、種族の壁を越えた相利共生を束ねていた、絶対的な母(女王)の亡骸である。
空間には、いまだに強烈な警報フェロモンがこびりついている。
外をうろつく規格外のバケモノに、強固な防衛陣形を枯れ枝のように踏み荒らされた絶望の記憶。
この場には、本来群れの大部分を占めるはずの『働きアリ(ワーカー)』の姿が一切ない。
外のバケモノの蹂躙に対し、働きアリたちは自らが肉の盾となり、最前線で文字通り全滅したのだ。
頭部を噛み砕かれた直後、生き残った蟲たちは『女王と次代の姫を守る』という絶対の本能に従い、主の重い亡骸を必死に引きずりながら、バケモノが物理的に踏み込めないこの樹木のドームへと逃げ込んできた。
しかし、それは無意味な延命に過ぎなかった。
共生の要を失い、食物連鎖の頂点から「ただのエサ」へと転落した蟲たちは、過去の繁栄の記憶と、現在の圧倒的な恐怖の狭間で、ただ群れの自壊を待っていた。
『……チィィ……チィィィ……ッ』
だが、静まり返る死臭の中で、悲痛なほどに微弱な羽音が鳴っていた。
無惨に食い千切られた女王の冷たい亡骸。
そのすぐ傍らに、羽化直後の白く柔らかい産毛に包まれた、体長一メートルの小さな蟲がしがみついている。
次代の群れを担うはずだった未熟な落とし子――『姫アリ』だ。
彼女は、いまだ発達しきっていない分泌腺を必死に駆動させていた。
小さな触角を懸命に擦り合わせ、全身の産毛を震わせる。
『私がここにいる。思い出して。落ち着いて』
そう働きかけるような微弱なフェロモンを放ち、パニックに陥りそうな巨大蟲たちを、たった一匹で必死になだめようとしているのだ。
しかし、幼い彼女の匂いはあまりにも心許ない。
外から響く地鳴りのような足音と、空間にへばりついた死の匂いを覆い隠すには到底至らず、彼女の放つ悲痛なフェロモンは、ただ虚しく腐葉土へと吸い込まれていく。
群れが瓦解するのは、目前に迫っていた。
――そこへ、ドームの入り口の空間が、陽炎のようにゆらゆらと解けた。
***
……ふぅっ! ここまで来れば絶対安全ね。光学迷彩、解除!
キィィン、という甲高い音と共に、虚空から二・五メートルの流線型の巨体が唐突に姿を現す。
なめらかなダークブルーと銀色に彩られた未知の捕食者――【アエギロカシス】の降臨だ。
「おつかれさまです、おねえさまっ!」
私の背中から、ラミアと漆黒のサソリが軽やかに飛び降り、腐葉土の上で大きく背伸びをした。
空中護衛を担っていた巨大トンボ(メガネウラ)の飛行部隊は、この狭いドーム内では満足な機動が取れない。そのため、ドーム外の樹冠上空にて、AWACS(早期警戒機)として哨戒待機させてある。
ここは私にとっては、地獄のような外の森からようやく見つけた、休息のための安全地帯。
だが、未知の捕食者が放つ『強者の気配』の唐突な出現によって、これまで姫アリがかろうじて繋ぎ止めていた薄氷の均衡が、ついに決壊してしまった。
『――ギシャァァァァァァッッ!!!』
極限の恐怖により、個としての防衛本能が暴走した大ヤスデが、完全な狂乱状態に陥った。
無数の歩脚で枯れ葉を激しく跳ね上げ、盲目的に巨体をのたうち回らせる。統制を失った数十トンの重装甲は、あろうことか、足元で必死に匂いを出していた『産毛の小虫(姫アリ)』へと容赦なく迫っていく!
『チィィィッ……!』
逃げる力もない姫アリが、迫り来る巨大な影を見上げ、身をすくませた。
だが姫アリは、逃げなかった。
無数の短い歩脚が波打ち、数十トンの重装甲が己の小さな身体を無惨に轢き潰す、その瞬間まで――群れを落ち着かせるためのフェロモンを出し続けようと、必死に触角を天へ伸ばしたのだ。
***
えっ……?
突如として沸き立った狂乱の空気に、私は複眼のピントを走らせた。
瞬間……視界の端で「一匹の小さな白虫」が大ヤスデに潰されそうになる。
ちょっと、まったぁぁぁ!
あんなモフモフの激レア虫を潰されてたまるかぁぁぁ!
バチィッ!
全身からエメラルドグリーンの魔力をスパークさせ、超高速ホバー移動でヤスデの死角へと回り込み、急降下した。
ズガァァァァァンッッ!!!
『ギチィィッ!?』
そのままの勢いで、大ヤスデの頭部を上から完璧に押さえ込んだ。
バシャバシャと、足元の腐葉土でヤスデが狂ったようにのたうち回り、やがて停止する。
体長二十メートルの数十トン。だが、そんなものはただ重いだけの肉だ。
……思い上がらないでよね。
私は完全に気絶してピクピクと痙攣するだけの巨体を見下ろし、冷たい複眼を細めた。
こいつ(アースロプレウラ)はデカいだけ。所詮は落ち葉を食べているだけの腐植食性だ。大自然の絶対法則において、ただバイオマス(生物量)がデカいだけの的が、私の急降下攻撃に耐えられるわけがないのだ。
ふぅ……。とりあえず、これで一番デカい物理的脅威は排除できたわね。
***
――圧倒的な、死の気配。
無数の脚が蠢く巨大な装甲質量に、全身を轢き潰されると察知した、その瞬間。
私(姫アリ)の感覚毛の上を、凄まじい風圧と未知の匂いが駆け抜けた。
触角が捉えたのは、理解の及ばない事象。
私を押し潰そうとしていた二十メートルの重装甲が、腐葉土の底へ完全に縫い留められていた。
暴走する仲間を押さえつけているのは、未知の異形。
なめらかなダークブルーと銀色に彩られた、流線型の巨体だった。私の遺伝子のどこを探しても、こんな生物の記憶は存在しない。
その絶対的な力と、冷たく無機質な複眼に見下ろされ、私の神経節を極限の防衛反射が駆け抜ける。
(逃避せよ。生存不可能。……だが、群れの繋がりだけは守らなければならない)
自我などではない。
ただ、私のDNAに深く刻み込まれた『次代の母』としての絶対の摂理が、群れの生存を諦めることだけを許さなかった。
私は未熟な分泌腺を限界まで酷使し、全身の産毛を震わせ、触角を天へ伸ばす。
――個体はどうなってもいい。共生の繋がりを、絶やさないで。
異種のバケモノに、この匂いが届くはずもない。それを本能で理解していながら。
私は目の前の恐ろしくも美しい『青いバケモノ』へ向けて、自らの生命力を削りながら、微弱な鎮静のフェロモンを放ち続けた。
***
足元で丸まっている『産毛の小虫』へと、私はゆっくりと視線を落とした。
『チィィ……、チィィィ……』
腐葉土に塗れ、震えながらも、そのモフモフとした白い蟲は私を見上げていた。
そして驚くべきことに、彼女は自分を潰しかけた大ヤスデに対しても、未知の捕食者である私に対しても、逃げようとせずに懸命に触角を擦り合わせ、何らかの『匂い』を放ち続けている。
……働きアリ(ワーカー)は一匹もいない。全滅したのね。
すぐ横に転がる、頭を食い千切られた巨大な羽アリの死骸。
狂乱する多種多様な古代蟲たち。
そして、この絶望の中心で、たった一匹で何かを訴えかけるように匂いを放ち続ける、産毛の小虫。
この『蟲たちの楽園』で、一体何が起きているのか。
私は新しく進化した高度な化学受容体で、空間に漂う不可解な情報の解析を開始した――。




