第42話 なんでもない一日。
巨大なシダの倒木の中。
ふわりと鼻をくすぐるのは、甘い琥珀の香り。外の嵐が嘘のように、ここはひっそりと静まり返っていた。
二週間ぶりに覚醒した日の翌朝。
重たい一対の複眼のピントをゆっくりと合わせる。ぼやけた視界の先に、柔らかな銀色の光が揺れていた。
「……きゅいきゅーっ。おねえさま、あーん、ですよぉ……」
木葉が擦れるような、優しい、かすれ声。
んー? まだねかせて……。
ひんやりとした手作りの木製スプーンが、私の口元にちょんと触れる。
視界をクリアにして見上げると、そこにいたのは、透き通るような白磁の肌と、サラサラと流れる銀糸の髪を持つ美少女。その腰から下には、ツヤツヤと滑らかなパステルブルーの『蛇の尾』が、しなやかにとぐろを巻いている。
私をあの地獄から背負って逃げ延びた、ラミア形態のピカちゃんだ。
「おねえさま、おきてよぉ……」
んんっ!? お、おねえさま……!?
私の超優秀な理系脳が、その甘い響きを処理するのに数秒フリーズした。
待って待って待って!?
こんな絶世の美少女が、『お姉さま』って呼んで甲斐甲斐しく面倒みてくれるの!? もう、尊すぎてバグりそうなんですけど……。
いや、ちょっと待って。
そもそもウミサソリの外見で、どうして私が『メス(女性)』だって分かったの!?
そこまで論理を展開した瞬間、私はハッとして戦慄した。
……まさかね。パスから、私の記憶が流れ込んじゃってる!?
私の恥ずかしい黒歴史まで全部バレてるって可能性はっ!?
いや、落ち着け。ここは悟られないようにカマをかけて仮説を検証するべきだ。
……あー、コホン。ねえピカちゃん?
私を『おねえさま』って呼んでくれるの、すっごく嬉しいんだけど……その、どうして私が『お姉ちゃん』だって分かったのかな〜? ほら、たとえばだけどね、私の記憶とかが『見えちゃって』たり……?
私は前脚をもじもじさせながら、複眼をパチパタと焦らせてそれとなく聞いてみた。
するとピカちゃんは、小首を可愛らしく傾げて、無垢な笑顔でこう答えた。
「きゅい? 記憶? それはよく分かりませんけど……。おねえさま、出会った時からずっと『お姉ちゃんに任せなさい!』とか『お姉ちゃんが絶対守ってあげる!』って、いーっぱい言ってくれてたじゃないですか! だから、おねえさまはおねえさまです!」
言ってた!
私、可愛い魚相手にノリノリで『頼れるお姉ちゃんロールプレイ』を垂れ流してたァァッ!!
これ以上の深掘りは私の尊厳的に危険すぎる。私は小さなハサミ(鋏角)でスプーンを受け取り、腹側の口器へとスープを流し込んだ。
口器の奥に、糖蜜の味がゆっくりと溶けていく。胃の腑から熱が生まれ、細胞が急速に活動エネルギー(ATP)で満たされていく。
美味しい……。
恥ずかしさで死にそうだけど、ピカちゃん、十四日間もずっと私を待っててくれたんだよね……っ。
エネルギーもフルチャージされた。私も起き上がって、この可愛い妹分を力いっぱい抱きしめ返してあげよう。
……あれ? 動かない。
脚に力を込めるほどに、硬い甲殻の継ぎ目が「ギシッ……」と重たく鈍い音を立てる。
「おねえさま、大丈夫ですよ。長く眠りすぎちゃって、関節が固くなっているだけですから……」
ピカちゃんがすぐに気づいて、私を軽々とお姫様抱っこしてふかふかの苔のベッドへと優しく横たわらせた。そして、私の背後にふわりと回り込む。
「ゆっくり、温めてほぐしますからね……っ」
ピカちゃんの白くて柔らかい手が、私の硬い甲羅の隙間――強張った関節の継ぎ目へと、そっと添えられた。
きゅ、きゅっ、と。
人間のしなやかな指先が、節足動物の分厚い装甲の隙間を、丁寧に、そして力強く指圧していく。
あはぁっ……。な、にこれ……めちゃくちゃ、気持ちいい……。人間の手ってこんなに気持ちいいの!?
っていうか、的確すぎない!? プロなの!?
ただ優しく撫でるのではない。筋肉(というか甲殻の内側の組織)の構造を完全に理解し、癒着を的確に剥がすような完璧な『筋膜リリース』の指動き。
ね、ねえピカちゃん。そのプロ顔負けのマッサージ、どこで覚えたの……?
「きゅい? おねえさまの知識ですよ! おねえさまが、スマホ? で見ていた『ガチガチ肩こり解消! 究極のリンパマッサージ講座』の知識を参考にやってるんです!」
やっぱり、完全に筒抜けになってるじゃないですかァァッ!!
しかし――抗えない。
ピカちゃんの手から伝わる、ぽかぽかとした人間の体温。それがガチガチに固まっていた甲殻の奥にじんわりと染み込み、強張った関節をゆっくりと緩めていく。さらに、しなやかな蛇の尾が私の体を下から優しく包み込み、まるで全身をストレッチするように適度な圧をかけてくれた。
きゅっ、きゅっ、という甲殻を優しく揉みほぐす音。ピカちゃんの甘い吐息。
それが私の感覚器官の奥で心地よく反響し、羞恥心もろとも脳髄を直接とろけさせていく。
人間の手は素晴らしい!
あぁ、脊椎動物への未練がカンストしそう。恒温動物の特権が羨ましすぎる……。
どれほどその極上マッサージに身を委ねていただろうか。
私の四対の歩脚と遊泳脚は、まるで脱皮直後のように滑らかにフル可動を取り戻していた。
「きゅいきゅーっ! おねえさま、動けるようになったですね……!」
ピカちゃん、本当にありがとう……っ!
私は六十五センチの体躯から伸びる自慢の前脚をいっぱいに広げ、ピカちゃんを大切に優しく抱きしめ返した。銀糸の髪が、嬉しそうに私の脚にすりすりと押し付けられる。
カチカチ……コトコト……。
その傍らで、命を分けてくれた戦友の陸生サソリ『プルちゃん』も、嬉しそうにハサミを打ち鳴らしていた。
そして……私は、床の柔らかい土に、爪の先でカリカリと『簡単な地図』を描いた。
さて、二人とも、ここからが本番……『作戦会議』をしよっか。
私の静かな言葉に、ピカちゃんとプルちゃんがスッと表情を引き締める。私は、土に描いた地図の要所にバツ印をつけた。
私たちは今、この【第2断層:巨大シダの腐海】にいる。地上に出るためには、上にあるヤバい最上層を突破しないといけない。
でも、上の層へ続く崖を登るためには……どうしても、あの巨大サソリの群れの縄張りを突っ切る必要がある。私を瀕死に追い込み、プルちゃんを群れから追放した宿敵。前回は逃げるだけで精一杯だったけど……今は違う。
ピカちゃんは得意げに、チロチロと赤い舌を出した。
空気中の化学物質を嗅ぎ取る『ヤコブソン器官』と、温度差を視覚化する『ピット器官(赤外線センサー)』。腐海の深い霧の中でも、巨大サソリの匂いも熱源も、今のピカちゃんなら完全にトラッキングできる。
そして、ピカちゃんの強靭な下半身にあるその立派な蛇尾。物理的な質量と筋力において、ピカちゃんは今のパーティー最強の壁兼アタッカーだよ。
「きゅいっ! ぼくのしっぽで、サソリさんたちをグルグル巻きのバーン! にしちゃいます!」
その通り! だから、今回の戦闘ドクトリンはこう。
私は地図の上に、石ころを三つ並べて陣形を示した。
まずはピカちゃんが、匂いと熱源で敵を先制捕捉する。
戦闘が始まったら、ピカちゃんが圧倒的なフィジカルで突っ込んで、サソリのハサミや尾を『締め付け(コンストリクション)』で封じる。
「ぼくが、みんなの攻撃を引き受けます!」
そして、敵がピカちゃんに気を取られている間に……。
私は、鋭いハサミ(鋏角)を、シャキィィン! と打ち鳴らした。
私の仕事は、一撃必殺の装甲剪断。ピカちゃんが押さえ込んだ敵の関節に、テコの原理と剪断力を乗せたハサミを叩き込んで、確実に息の根を止める。
そしてプルちゃんには、ローカルガイドとして群れの習性を予測しつつ、死角をフォローしてもらう。
カチカチッ!
プルちゃんも、かつての同族へのリベンジに燃えるように、鋭くハサミを鳴らした。
……完璧だわ。控えめに言って、今の私たちはこの階層の食物連鎖の頂点ね。
いける。崖を制圧して、あいつらを全部『自然淘汰』て……私たちはさらに上の進化を目指すよ!
その、静かで熱い決意に満ちた瞬間のことだった。
私たちの地図を見つめていたプルちゃんの黒い瞳が。
ジーーッ……と、一瞬だけ、明滅した。
あれ……? 今、一瞬。誰かの笑い声がしたような……?
気のせいか。
お腹もいっぱい。関節も柔らか。
そして、次なる進化への完璧なロードマップも描けた。
次なる過酷な深淵へ。
私たちの最強の生存戦略、再開だ。




