第40話 命の泡。
頬に感じる、硬くてひんやりとした机の感触。
鼻をくすぐる、アルコールランプとホルマリンの微かな匂い。
遠くのグラウンドから聞こえる野球部の声と、吹奏楽部のチューニングの音。
私は、よだれを制服の袖で拭いながら、ゆっくりと重い瞼を開けた。
「……うっわ、あっちゃ〜、マジ爆睡してた……?」
オレンジ色の、懐かしくて優しい夕暮れの西日が、窓ガラスを透かして床一面を朱色に染め上げている。
黒板に乱雑に書き殴られた、命の系統樹と熱力学の数式。蛇口が整然と並んだ実験机の上に並ぶ、ビーカーや顕微鏡。
ここは――私の通う高校の、生物部室だ。
「あーーー! 首痛っ……」
伸びをしながら、自分の両手を見つめる。
人間の、普通の女子高生の柔らかい手だった。休日に塗った透明なトップコートのネイルが、夕日に反射してキラキラ光っている。プリーツスカートの感触もある。
……そっか。なんだ、私、部活中に机で寝落ちしてたのか。
トラックに轢かれて、ノープリウス幼生に転生して、過酷なダンジョンでサバイバルするなんて……どんだけラノベの読みすぎだよ、私。
あ〜! だけど、あのポンコツ女神ぃぃぃ! 腹がたつぅ〜!!
「起きたかい、種田」
「ん? たねだ?」
「君の名前だよ、種田。まだ寝ぼけてるのかい?」
実験机の奥から、静かで、どこか凛とした声が降ってきた。
逆光の中に佇むその人は、アルコールランプの火を器用に調整しながら、三脚に乗せたビーカーで何かを温めている。少し大きめのヨレヨレの白衣を羽織り、長い前髪が少し目にかかっている。スタイルは良いのに万年白衣で色気ゼロの、筋金入りの虫オタク女子。
二人だけの生物部で、唯一の戦友――『先輩』だ。
「あ、サーセン先輩。私が種田でした! 私どんくらい寝てました?」
「一時間と四十二分。大方、副交感神経が優位になりすぎて顎の筋肉が弛緩したんだろうね。机の上にアミラーゼを含んだ分泌液を撒き散らさないでくれるかな」
「うっわ、よだれの言い方エグ! 拭けばいいっしょ、拭けば! てか先輩こそ、私がプラナリアの切断実験してる間に何やって……って、またビーカーとアルコールランプでコーヒー牛乳温めてるんですか!? マジ非効率の極み! 職員室の電子レンジ使えば秒じゃないですか」
「愚問だね。マイクロ波の誘電加熱は局所的な温度ムラができやすい。私は今、炎の距離をミリ単位で調整し、乳タンパク質の熱変性を防ぎつつ、メイラード反応が最も美しく進む六十五度を維持しているんだ。ビーカー内の熱対流を観察するのも立派なフィールドワークだよ」
「出た、無駄に高解像度の屁理屈! 山合宿の時にバーナーで淹れてくれたココアといい、それ絶対ただ美味しく飲みたいだけっしょ。ウケる!」
「プラナリアの頭部を三等分に切開した直後に爆睡する人間に言われたくはないね。観察はどうした」
「いやいや、切断後の細胞分裂には時間がかかるんですから! 放置も立派なPDCAサイクルの『Do』ですよ! むしろ私自身の睡眠という超回復をですね……」
私の悪ノリの言い訳に、先輩は静かに息を吐いて、呆れたように目を伏せた。
相変わらずの、平和で退屈な放課後の掛け合い。
「ふふっ……。で、よだれを垂らしながら『うー、スライムの酸がー』などと間抜けな譫言を抜かしていたけれど。種田こそ、どんな非生産的な夢を見ていたんだい?」
「あ、それですよ! マジでエグい夢見てて〜! 私、トラックに轢かれて! なんと、ノープリウス幼生になっちゃって。スライムの酸とか重力とかヤバくて、浸透圧バグりそうになりながら必死にPDCA回して……」
ヘラヘラと笑いながら夢の話をまくしたてる、私。
――カチャ……。
ふいに、ビーカーをかき混ぜていたガラス棒の音が止まった。
気がつけば、窓の外から聞こえていたはずの野球部の声も、吹奏楽部の音響も、いつの間にか完全に消え失せている。
不自然な静寂。
「……ノープリウス幼生、か」
先輩は、ビーカーからゆっくりと顔を上げた。
それまでの呆れたような、けれど心地よかった『高校生の先輩』の気配が、一瞬にして抜け落ちる。
「脳も未発達なまま浮遊するだけのプランクトン態。水流に逆らうことすらできない貧弱な三対の付属肢に、光を感じるだけの単眼。大自然の天秤においては不完全極まりない、ただのエサだな」
「……え? いや、まあ、確かに甲殻類の初期形態としてはクソゲー設定でしたけど……先輩?」
笑いかけていた私の顔が、徐々に引き攣っていく。
違う。何か、決定的な違和感がある。先輩は確かに超理系で変わり者だけど、こんな風に『世界を俯瞰して見下ろすような』言葉は使わない。
その時、夕暮れの西日が、先輩がかけている偏光ガラスの眼鏡に反射した。
息を呑んだ。
その瞳は人間のそれではなく、まるで整然と並んだ極小のレンズを幾重にも重ね合わせたような、美しい幾何学模様の『複眼』となっていた。
そして、その背後。
虚空に浮かび上がっているのは、ファンタジーのあざとい光の輪などではない。フィボナッチ数列が描く完璧な対数螺旋や、世界中のあらゆる生命の『系統樹』が、フラクタル状に無限に再帰しながら回転する、鈍色に光る幾何学の後光。
羽織っている白衣の裾からは実体がなく、まるで光の滝のように、すべての生命の根源を司る塩基の文字列や、この宇宙の不変の物理方程式が、サラサラと流れ落ちては明滅している。
――あぁ、逆だ。
――こっちが、夢の中なんだ。
直感で理解した。目の前にいるのは、ただの高校生だった頃の先輩じゃない。はるか高次の理に至った『超越者』。
「……悪いね、君の記憶にある懐かしい部室の姿を借りていて。僕は――いや、ここでは『私』と言っておきましょうか。私は、この世界こと、神立迷宮『ガラパゴス』の創造神です」
世界の法則そのものを司る、絶対秩序の権化。
白衣の少女の身体から発せられるそれは、相変わらずボーイッシュでクールな先輩の面影を残しながらも、どこか底知れない『神』の気配を纏っていた。
「……は? 創造神? てか、ガラパゴス……? ちょっ、待って!」
私は、無意識にバンッ! と机を叩き、声を張り上げていた。
「私をここに巻き込んで突き落とした、あの『てへぺろ』とか言ってたポンコツ女神! あいつ、この世界を『カンブリア・ダンジョン』って呼んでましたけど!?」
「あぁ〜。あの新人ちゃんね……」
自称・創造神の先輩は、やれやれといったボーイッシュな仕草で、おどけたように肩をすくめて嗤った。
「実は私、この箱庭に引きこもってから、早1、2、3、4……四十六億年ほどになっていましてね。昔馴染みの神々は、みーんな寿命で消滅しちゃいまして。いやぁ、独り身の引きこもり暮らしとしては少しばかり長すぎましたかねっ!」
「え、あんた、ヒッキーなの?」
「だからあの新人ちゃん、この完璧な世界がシステムから切り離された『未管理領域』だからって、勝手にカンブリアなんて名付けて悦に浸ってるんですよ。……まったく、若い女神は勝手で困る。真の名は『ガラパゴス』。私が手塩にかけて造り上げた、愛しき箱庭の総称です」
「ガラパゴス……って、海や山脈で外界から完全に隔絶されたことで、固有種が独自の進化を遂げた閉鎖生態系のことよね。でも……島でもないあの地下迷宮が、どうやって外の生態系と完全に交じり合わずに環境を維持しているの?」
「ふふっ、いい着眼点ですね〜。では種田くん、この異常に濃密な酸素と魔力に『過剰適応』してしまった巨大な魔物たちが、仮に迷宮の外……現代の薄い大気の中へ出たら、どうなると思います?」
神先輩が、試すように眼鏡の奥の複眼を細めた。
「……あっ。深海魚が陸上に引きずり出されるのと同じ……? 重度の酸欠と魔力欠乏を起こして、数分で自壊するわ。だから魔物たちは、物理的な壁がなくても、環境の濃度差という見えない檻のせいで外へ『出られない』んだ! ……って、待って。だとしたら、この環境に適応して進化してきた私たちも、『普通なら』外へは出られないってこと!?」
「ご名答ですっ☆ そして逆に外の人間にとっても、ここは肺や血管が破裂する『酸素・魔力中毒』の地獄。お互いの致死環境という『見えない壁』が、この隔離空間を完璧に成立させているんですよ」
神先輩は嬉しそうに頷いた。
でも、だとしたら不自然すぎる。まるで、巨大な実験箱じゃないか。
「ねえ神先輩。ここ、本当はただのダンジョンじゃないわね? 創造神であるアンタが、何か目的があって意図的に作った空間なんじゃないの?」
「さぁ〜、どうでしょうねぇ? 私のような可憐な創造神の気まぐれかもしれませんし、たまたまそういう地形だったのかもしれませんっ☆」
私が核心に迫ろうとした瞬間、神先輩はスッと目を逸らし、わざとらしく明るい声ではぐらかした。
怪しさ満点だが、今はこれ以上問い詰めても無駄だろう。私は小さくため息をつき、一番重要なことを聞いた。
「……で? ここから外へ出るにはどうすればいいわけ?」
「ええとですね、この『ガラパゴス』は全四断層からなる垂直の隔離空間になっていまして」
神先輩はホログラムのような指を立てて、レクチャーを始めた。
「最下層である【第4断層:原初の海】から始まり、【第3断層:古代の浅瀬】、そして今私たちがいる【第2断層:巨大シダの腐海】。最後に、最上層【第1断層:弱肉強食の楽園】へと続きます」
「まるで地質時代順ね……」
「そして、外の地上世界へ繋がる唯一の出口……『終わりの門』は、その最上層にしか存在しません。つまり、そこまで辿り着いて門のロックを解除しない限り、絶対に外へ出ることはできない仕組みになっています。まぁ、出たところで死んじゃいますけど」
「ってことは、今は第2断層(巨大シダの腐海)……そこを抜けて、そのヤバすぎる最上層を突破しないと地上には出られないってことね」
「しか〜し! 最上層には、最初の適合者――【暴虐竜ディアボロちゃん】が門を守っています! 私の『祝福(異次元の進化)』の恩恵を極限まで受けて巨大化し、絶対物理障壁と神罰のブレスを操る、完全無敵の最高傑作!」
「えっ! もしかしてだけど、そいつを倒さないと門が開かないわけ?」
「そのとぉ〜り! ……だってねぇ、四十六億年も引きこもってると、娯楽が少なくて退屈なんですよ〜。そこへ、あの新人ちゃんが『特定外来生物』を私のところへ速達で送ってきたじゃないですか! これには私も驚きましたね! こんなイレギュラーな存在が、私の世界(箱庭)に落ちてくるなんて! いやぁ、久々に……ワクワクしますね!」
自称・創造神の先輩は、眼鏡をクイッと押し上げ、最高に楽しそうな悪戯っぽい笑みを浮かべて嗤った。
「だからね〜、観察者としては最高にそそる余興なんですよっ! エラーだらけのバグが、私の予定調和をどこまでぶっ壊してくれるのか……。だから、足掻いて、足掻いて、足掻き続けてほしい! そんな君を見物したいのですよね〜!」
……その狂気じみた、けれど確かな『期待』を孕んだ言葉に。
私の中の、前世から何一つ変わらない『ダーウィン先生の狂信徒』たる魂が、バチィィィンと爆発的に点火した。
黒髪メガネの大人しそうな見た目とは裏腹に、私は立ち上がって胸ぐらを掴む勢いで熱弁をぶちかました。
「は? 余興ってマジ言ってます!? 私たちの命がけの生存競争を、安全圏から見下してんじゃねーですよッッ!!! 神先輩ッ!!」
「……いや〜?」
「完璧に設計された予定調和の生態系が退屈? そりゃそうですよ、そんなのただの退屈なお人形遊びなんだから! 泥に這いつくばって、千切れそうな筋繊維と未発達な関節で重力に抗って、ワンチャン狙いの突然変異をハックして次の世代へ命を繋ぐ……。あんたが『余興』と呼ぶその泥臭い『生きようとする揺らぎ』こそが、ダーウィン先生の示した【進化】の絶対的な美学なんですよォォッッ!!!」
私の、狂気とも言える生物オタクの咆哮。
夕暮れの生物部室に、私の熱い息遣いと、生命への絶対的な賛歌が響き渡る。
創造神である神先輩は、私の胸の熱を、眼鏡の奥の幾何学の多層複眼で静かに見つめていた。
そして。自分の世界に本気で噛みついてきたちっぽけな命を前に、ニヤリと、不敵で最高に面白そうな弧を口元に描いた。
「……揺らぎ、ねぇ。いや〜。流石ですね〜、種田くん」
「あったりまえです。自然淘汰なめんなですよ」
「いいでしょう! 君がその執念で、私の世界のルールをどのようにハックし、上書き(アップデート)していくか、ヒジョーに楽しみですっ! 我が後輩――いや、特定外来生物ちゃん! 万が一でもディアボロちゃんに勝ち、迷宮の外に出ることができたなら、外の世界の住人達に真の名は『ガラパゴス』だって宣伝してくださいね☆」
「……はぁっ!? なんで命がけで脱出してまで、アンタの迷宮の宣伝なんか……っ!」
――ちょいっ。
その時だった。私のプリーツスカートの裾を、誰かが弱々しく引っ張った。
「……種田、せんぱい……っ」
見下ろすと、そこには見慣れない、女の子の『新入部員』が立っていた。
パステルブルーの少し大きめのカーディガンを羽織り、ボロボロと大粒の涙をこぼしている。
そして何より――彼女のちいさな指先は泥と血にまみれ、痛々しい切り傷の上から無数の絆創膏が巻かれていた。
「あれ、君……うちの部員、だっけ……?」
「先輩、乾いちゃ、だめです……っ。私が、ずっと……お水、出しますから……っ」
泣きじゃくる後輩は、その手に持った葉っぱの形をしたコップを、震える両手で一生懸命に抱え上げ、私の前へと差し出してきた。
神様――いや、私の愛しい『先輩』は、ふっと優しく、けれど面白そうに目を細めた。
「ほら、受け取ってあげなさいな。……その子はね〜、この十四日間ずっと君のために泣き続けていたんですよ〜。飲んでやりなさいなっ」
「……十四日、間……? マジか。……ありがとね、後輩ちゃん。じゃあ、遠慮なく……」
私はゆっくりとしゃがみ込み、彼女が差し出したその手作りのコップを受け取ろうと両手を伸ばした。
――が。
「……えっ?」
後輩ちゃんは、私がコップに触れる直前にスッと手前に引き寄せると、自分でその縁に口をつけ、温かい液体をこくっと一口含んだのだ。
そして、涙で濡れた大きな瞳で私を真っ直ぐに見つめると。
泥だらけのちいさな両手で私の両頬をそっと、けれど絶対に逃がさないように引き寄せ――思い切り背伸びをして、自分の唇を、私の唇に重ねてきた。
「んっ……!?」
いきなりの口移し。
驚いて見開いた私の目の前には、ギュッと強く目を閉じた、涙まみれの後輩の顔があった。長いまつ毛が微かに震えている。
『……んっ……、っ……』
触れ合ったちいさな唇は、熱くて、ぷるぷると震えていた。驚きで少しだけ開いてしまった私の口を塞ぐように、柔らかい唇がそっと重なる。
そして、(こくっ……、こくっ……)と、まるで小鳥のような愛おしい音を立てて、ゆっくりと温かい雫が注ぎ込まれていく。
それは、親鳥が雛鳥に命を分け与えるような、無垢で必死な命の受け渡し。
女の子からの、不器用でひたむきなキス。その口付けには、痛いほど真っ直ぐで深い祈りがこもっていた。
口いっぱいに広がるのは――甘いコーヒー牛乳なんかじゃない。
泥臭くて、生臭くて……けれど、温かくて優しい、味だった。
なんで? 私、この子のことなんて何も知らないはずなのに。
まだ記憶が上手く回らない。頭がぐちゃぐちゃだ。
でも、この震える柔らかい唇の温もりを知っている。
――ドクンッ!!
その瞬間、夕暮れの生物部室の景色が、ふわりと水に溶けるように滲んで消えた。
あのポンコツ女神の真っ白な空間から突き落とされた時のことを思い出した。
あの時は、女神に「ええじゃないか♪」と強引に押し込まれ、絶叫系ジェットコースターに乗せられて重力10Gで真っ暗な冥き深淵へと急落下していった。内臓がフワッとなる、あの暴力的な絶望の急降下。
だけど、今は違う。
唇に触れていた柔らかな感触は、いつの間にかふわりと解けていた。
気がつけば、私は一人、あたたかくて透明な『ひとつの泡』の中にすっぽりと包まれていた。
ぽこんっ……。
心地よい水音とともに、その泡は、昏睡という冥き深淵の底から、光の差す水面へと向かって、ゆっくりと、ゆっくりと浮上していく。
両頬にはまだ、あの泥だらけのちいさな手のひらの温もりが確かに残っている。ただ、たまらなく愛おしい痛みが、私のウルトラポジティブな心臓をぎゅっと締め付けて、あたたかい命のバイブスで満たしていく。
あの子が誰かは、まだ上手く思い出せない。
でも、待ってる。光の向こう側で、私の大切な相棒が、私を呼んでいる。
私は、唇に残る熱と優しく揺れる命の泡に抱きしめられながら、深い水の底から、ゆっくりと浮かび上がっていくのだった。
リアクション頂きありがとうございます!
ここまでお読みいただき、本当にありがとうございます!
高校の生物部室での少し不思議な夢のお話でした。
現実世界で必死に看病してくれているピカちゃん。
果たしてアノマロちゃんは、無事に目を覚ますことができるのでしょうか?
「後輩ちゃん(ピカちゃん)健気すぎる!」「おねえさま、早く起きて!」と思っていただけましたら、ぜひページ下部の【ブックマークに追加】や評価の星【☆☆☆☆☆】をポチッと押して応援していただけますと、作者の執筆の大きな励みになります!
引き続き、よろしくお願いいたします。




