第39話 おねえさま、まだ起きないの……?
おねえさま! おねえさま! おねえさま!
あらしのふきあれる、くらいどろのなかを、ひっしにはいぬけて。
おおきなシダのきの、せまいくぼみへと、にげのびたぼくは。
つめたく、かたくなってしまったおねえさまのからだを、あたらしくもらった『にんげんのうで』で、そっと、だきしめました。
いつもピカピカにひかって、ぼくをのせてくれていたあおいからだは、いまはまったくひかっていません。
「おねえ、さま……。おねがいです、いきを、してくださいぃ……っ」
ぼくはおねえさまのつめたいあたまに、じぶんのあついおでこを、ぴったりとあわせました。そして、じぶんたちのあいだにある『パス』を、ひっしにさがしました。
おねえさまのからだは、どくのせいで、ぜんぜんうごきません。いきをするための『エラ』も、とまっていました。
だけど。パスのいちばんふかい、いちばんくらいばしょで。かすかに――
――トクン……、…………トクン……。
と。いまにもきえそうな、ちいさなおとをたてているのを、みつけました。
「いきてる……っ! おねえさま、まだ、いきてるですぅ……っ!!」
そのときでした。
おねえさまのかすかな『でんき』が、パスをとおって、ぼくのなかに、ながれこんできたとき。あたらしくもらった『おおきなあたま』のなかで、つよいひかりが、はじけました。
『いい、ピカちゃん? 進化は「こうなりたい」じゃない。極限の地獄を死なずに生き延びるために、偶然をハックするのよ!』
『私のキチン質マルチ装甲は、スライムの酸なんて一億年は耐え抜く仕様だからね!』
『大丈夫、ピカちゃんは、お姉さまが絶対に守ってあげるからね……!』
「あ、ぁ……あ、あぁぁ……っ!!」
ぼくは自分の頭の中にあふれ出した『おねえさまの声』に、ぽろぽろと涙を流しました。
おねえさま。言葉なんて一ミリも分からなかったあの時も、おねえさまはいつも、自分自身の命を削って、ぼくを守り続けてくれていた。その愛を、ぼくは初めて、新しく手に入れた『知性』で理解してしまったのです。
だけど。
その知性が、おねえさまの今の状態を理解し、冷徹に『最悪の答え』を弾き出しました。
「こわい毒が、おねえさまの体を、食べてしまっている……っ」
「このまま何もしなければ、おねえさまは『死ぬ』。死ぬっていうのは……おねえさまのあったかい匂いが、一生、完全に消えてなくなっちゃうことなんだ……!!!」
いやです。絶対にいやですぅ……っ!!!
やっと、おねえさまとお話しできるようになったのに!
ぼくは、おねえさまの冷たい殻をぎゅっと抱きしめ、声を上げて泣きじゃくりました。
――でも、ただ泣いている時間は、ありませんでした。
「おねえさま、乾いちゃだめです……。ぼくが、ずっと、お水をお出ししますからね……っ」
それから、ぼくの『十四日間の不眠不休の看病』が、静かに、過酷に始まりました。
【一日目】
そとは、まだはげしいあらしでした。
ぼくは、おねえさまがめをさましたとき、また一緒に『かんぱーい』をするために、今日から一日一個ずつ、新しいリーフコップをつくることにしました。
はじめてもらった『て』をつかい、シダのはっぱをにぎります。ちからのかげんがわからなくて、さいしょは、ぐしゃっとつぶしてしまいました。「あっ……」と、なきそうになりました。
でも、あたらしくもらったあたまが、すぐに「ちょうどいいちから」をおぼえてくれました。ぼくは、ふるえるゆびで、いちにちめのコップを一個、そっとあみあげて、かべにおきました。
つめたいどろのなかをはいつくばり、みずたまりを、なんどもなんどもおうふくして。おねえさまの、かわいていく『エラ(書鰓)』に、あたらしいコップをつかって、やさしく、ぽたぽた、みずをたらしつづけました。
【二日目】
ふつかめのコップを一個、つくり、かべにならべます。
きのう、むりをしてはしったはんどうと、じめんのおもさが、ぼくを押しつぶします。たいせつなコップをまもるために片腕を高くあげ、バランスをくずしたおもいヘビのしっぽをひきずってすすむのは、きのうよりもずっと、いたかったです。
うではどろにこすれて、あかいちがでました。でも、いたくありません。いたくないです。
コップの水をこぼさないという意志が、ちぎれたぼくの筋肉を『りくじょう』の形へと、むりやりつくりかえていきます。
【三日目】
みっかめのコップを一個、あみあげました。
おねえさまのからだをなおすには、えいようがひつようです。ぼくは水辺の『魔力珪藻』をあつめました。
にんげんのやわらかい歯ではかみくだけませんが、ぼくののどの奥には、おさかな(板皮類)だった頃の『かたくて鋭い骨のアゴ(咽頭顎)』が、かくされたまま残っていました。にんげんのおくちの中で、その第二のアゴをうごかして、石のような珪藻をゴリゴリ、ドロドロにくだく技術をおぼえました。
ぼくはボロボロになりはじめた『一日目のコップ』の中にそれを吐き出し、アミノ酸のスープを作りました。解毒ができないなら、これで命をつなぐしかありません。
おねえさまの口元に自分の唇を重ね、『チュッ……、じゅぅぅ、ごくん……』と、そっと流し込みました。一番こぼれない角度は計算済みです。
【四日目】
よっかめのコップを一個作り、かべにならべます。
ぼくの大きなからだを維持し、おねえさまに『他者治癒』を送り続けるには、ぼく自身も膨大なカロリーを摂取する必要がありました。
巣穴に近づいてきた大きなムカデの幼体を、ぼくは蛇尾で素早く叩き潰しました。半分潰れ、まだピクピクと動くそれを口に入れると、新しい人間の味覚は『泥と酸のひどい悪臭』に激しい嘔吐を促します。しかし、知性はこれが『高タンパクで最適なカロリー源』だと冷徹に判断しました。
ぼくは吐き気をむりやり飲み込み、感情を殺して、のどの奥の骨のアゴでそれを噛み砕き、胃袋に流し込みます。
そして、おねえさまへの口移し(スープ)にひどい匂いを絶対にうつさないよう、たいせつなコップの綺麗な水で、口の中を何度も、何度も、完璧にすすぎました。
【五日目】
五日目のコップを一個、あみあげました。かべにならんだ新しいコップは、五つになりました。
おねえさまの体温(生体熱)が、急激に下がりました。ここでぼくは、自分がみずから熱を発する『恒温性』を獲得していることに気づきます。
パステルブルーの蛇尾でおねえさまの冷たい巨体をぐるぐると巻き込み、人間の腕で強く抱きしめ、接触面積を最大化して、自分の熱をすべて明け渡すように温め続けました。
同時に、居住空間の衛生を保つため、給水に使っている『最初のコップ』も毎日遠くの綺麗な水で丁寧に洗い流しました。細菌感染の確率はこれで〇・〇三パーセント低下します。
ですが、何度も洗い、使い続けてきた最初のコップの繊維は、ぼろぼろに解けかけ、ついに限界を迎えていました。
【六日目】
六日目のコップを一個、あみあげました。
世界からすべての音が消えてしまったような沈黙が怖くて。ぼくは限界を迎えて解けかけた『最初のコップ』を見つめながら、ずっとおねえさまに話しかけていました。声帯の筋肉を震わせ、舌を動かし、正確な発音で。
「おねえさま。最初にあみあげたコップが、もう、こわれそうです。でも、だいじょうぶです。ぼくが毎日一個ずつ、新しいコップを作っています。だから……起きて、また進化のお話し、してほしいです……っ」
そうやって言葉を声に出すことで、ぼくの脳内で散らかっていたおねえさまの知識が、まるで美しい数式のように、隙のないロジックとして整理されていくのを感じました。
【七日目】
七日目のコップを一個、あみあげました。
一週間。一ミリも、一グラムも、おねえさまの回復は進みません。
……絶望を塗り潰すように動くぼくの指先は、人間の職人以上の精密さで葉の繊維を捉え、幾何学的なリーフコップを編み上げていました。カレンダー代わりに、倒木の壁にコップを毎日一個ずつ並べていく行為は、もはや精神を崩壊させないための日課となっていました。
完全に限界を迎えた『最初のコップ』は、これ以上壊れないようにおねえさまの枕元へそっと安置し、今日からは新しく編んだコップを給水に使っていきます。
【八日目】
八日目のコップを一個、あみあげました。
うつろの入り口の小さな若葉が、石炭紀の異常な高酸素濃度(三十五パーセント)のブーストを受けているのでしょう、不気味なほどの速度で巨大化を始めています。
ぼくの腕は擦り切れ、蛇尾のウロコは痛々しく剥がれ落ちています。しかし、自身の組織再生へと向かう魔力ベクトルを、ぼくは完全に自意識で遮断し、全リソースを『他者治癒』へと強制バイパスさせました。自分の傷を癒やす魔力すら、今は一ミリも無駄にできなかったからです。
八日目のコップは、血の滲む指先で編まれました。それでも、おねえさまが口をつける神聖なものにぼくの血が一滴たりとも付着しないよう、末梢血管をコントロールして止血しながら、寸分の汚れもない状態で編み上げました。
【九日目】
九日目のコップを一個、無心で編んでいたときでした。
ガチッ。一瞬、おねえさまのハサミが動きました。
「おねえさまっ!?」
ぼくは希望に泣き叫び、手の中にあった完成間近の九日目のコップを、粉々に握り潰してしまいました。
――しかし、三秒後。冷徹な『知性』が、それがただの毒による末梢神経の痙攣反射に過ぎないという、残酷な演算結果を弾き出しました。
押し寄せる巨大な絶望。胸が張り裂けそうで、息が、吸えません。
ですが、ぼくはわずか十二秒で、乱高下する心拍数を正常値へと強制的に戻しました。潰れた葉を無感情に捨て、五秒で新しい九日目のコップを一個、編み直しました。絶望し、悲しむための時間すら、今のぼくの生存戦略においては致命的な無駄だからです。
【十日目】
十日目のコップを一個、あみあげました。
毎日おねえさまの十五キロの巨体を反転させ、水をかけ、食料を狩る。そのルーティンの反復により、ぼくの美しい蛇尾の腹鱗は岩や泥に耐えうる分厚いケラチン質へと生え変わり、人間の腕には、しなやかで強靭な筋繊維の超回復が完了していました。
超人的な指先で編まれた十日目のコップは、葉の繊維が受ける張力と応力を完全に分散させる、構造力学的な最適解に到達しており、今のぼくがどれほど強く握りしめても、決して壊れることはありませんでした。
【十一日目】
十一日目のコップを一個、あみあげました。
外界から嵐の環境ノイズが完全に消失し、耳鳴りがするほどの絶対的な静寂が訪れました。世界に二人だけ取り残されたような、恐ろしい孤独。かつてのぼくなら恐怖で発狂していたでしょう。
しかし、今のぼくの精神にブレは一切ありません。おねえさまの命を繋ぐ……ただ、それだけが、ぼくの心を冷徹に固定化させていました。
深い静寂の中、十一日目のコップを編む『カサ、カサ』という葉の擦れる音だけが、まるで止まってしまった時間を強引に進める時計の秒針のように、無機質にうつろの中に響いていました。
【十二日目】
十二日目のコップを一個、あみあげました。
急成長した巨大シダの葉が、ついにうつろの天井を完全に覆い隠しました。太陽の光が一切届きません。
しかし、ぼくの網膜は、わずかな魔力光を極限まで増幅させる『タペタム層(輝板)』の形成に成功しました。真の闇に沈んだ暗視空間であっても、ぼくの視界は、おねえさまの微細なバイタル変化を〇・一秒の遅延もなくトラッキングしています。
そしてぼくの指先は、視覚に一切頼ることなく、十二日目のコップ一個をノーミスのブラインドタッチで、正確無比に編み上げました。
【十三日目】
十三日目のコップを一個、あんでいたときでした。
ふいに、ずっと冷たかったおねえさまの体が、ピクリと動きました。
『ピカちゃん、おはよう。……よくがんばったね』
見上げると、おねえさまがあたたかく笑って、前脚をゆっくりと振ってくれていました。
「あ……あぁっ、おねえさま……!」
ぼくは手元の葉を放り出し、大粒の涙をこぼして、その青い殻にすがりつきました。ようやく、やっと、おねえさまが起きてくれた――。
しかし。すがりついたはずの『温もり』は、ノイズのようにすり抜けて、消え去りました。
……連続三百十二時間の不眠不休。本当は、おねえさまは一ミリも動いていませんでした。
絶望で精神が完全に崩壊する寸前、ぼくの脳は、水棲哺乳類や渡り鳥が持つ『半球睡眠』を強制起動しました。右脳と左脳を交互に休ませ、半分だけ眠りながら、ぼくの体は悲しむことすら放棄し、無意識のまま放り出した十三日目のコップを拾い上げ、自動で一個、狂いなく編み上げたのです。
【十四日目】
十四日目のコップを一個、あみあげました。
大樹となったシダの葉から、パステルグリーンの胞子が、まるで静かな『雪』のように降り積もっていきました。
壁に並んだ、合計十四個の新しいリーフコップ。一日一個ずつ、命を削るようにして作られたその器の中にも、淡い緑の雪が静かに積もっています。
「おねえさま……。もう、二週間、ですよ……?」
ぼくはおねえさまの傍らに寄り添い、パステルグリーンの雪の中で、そっとおねえさまの冷たい手(前脚)を、両手で包み込むように握りしめました。
ちいさなお魚だった頃の弱さは、今のぼくには、もうどこにもありません。そこには、極限の環境適応を完了し、愛する者を守るための最高の知性と圧倒的な暴力を備えた、一人の強靭な幻獣が座していました。
お姉さま、いつ起きてくれるの……?
おねえさま、まだ起きないの……?
今にも閉じそうになる重い瞼を必死にこらえながら。
冷徹に最適化されたはずの知性の奥底で、ちいさなお魚のままのぼくが、おねえさまの体をさすって泣きじゃくっていた、その時でした。
――カサ、カサカサ……。
絶対的な静寂に支配されていたはずの、シダのうつろの入り口から。
何かがゆっくりと這い寄ってくる、静かな『足音』が、ぼくの鋭い鼓膜を打ったのです。
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