第38話 さあ、本当の自然淘汰の始まりだ。
ドクンッ!!!
私の体から流れ出した青い血と魔力が、あの変な形をした黒い石に触れた瞬間、その表面に神代文字が浮かび上がった。
繋がっているはずのエンパシーパスが、あり得ないほどの莫大な魔力の奔流となって弾け、停止しかけた私の脳髄を激しく揺らした。
『――生体魔力の流入を感知。古代の理、目覚めし刻』
直接、古の思念のような荘厳なる『声』が響く。
視界の端、白黒のノイズに染まりゆく網膜の奥に、淡く発光する魔法陣が展開される。
『神立迷宮【ガラパゴス】。第零域を部分解放』
直後、私たちの壊れたおうちの床――遺跡の石板から、パステルブルーの眩い光のラインが、神代の魔力回路のように走り抜けた。
『――おねえさまを。ぼくの、大好きな、おねえさまを――』
『――絶対に、死なせないですぅぅぅぅぅッッッ!!!!!!』
ピカちゃんの、魂の咆哮。
私を庇うように覆いかぶさったピカちゃんの全身からほとばしる涙と、相同関節を固く握りしめた傷だらけの拳から滲む『赤い血』。
それが、先ほどの爆風と私の倒れ込んだ衝撃で床下に露出していたあの黒い石……いや、『神立迷宮の要石』へと、激しいスパークとともにダイレクトに感応した。
エンパシーパスを通じ、ピカちゃんの強烈な思念が迷宮の深淵へと叩きつけられる。
ヴォォォォンッッッ!!!
その瞬間、沈黙していたはずのダンジョンの床が、まばゆい魔力の光芒を吹き上げ、冷徹な古の意志(声)が私たちの意識へと直接響き渡った。
『ジ、ジィィィーーーッ!!!』
突如として足元が発光したことに驚き、巨大サソリ(プルモノスコルピウス)が威嚇の鳴き声を上げる。
だが、奴は獲物を諦めない。硬い足爪をカサカサと鳴らし、完全に動けなくなった私の頭上へと、再び凶悪な毒針が振り上げられる。
ダメだ、ピカちゃん。逃げて……。
声にならない私の叫び。
しかし、ピカちゃんは逃げなかった。
『( ; ▼ ; )きゅ、きゅいぃぃぃーーーーっっ!!!』
泥だらけの小さな胸ビレ(おてて)をいっぱいに広げ、私と巨大サソリの群れの間に、その体を盾のように立ちはだからせたのだ。
『――告ぐ:迷宮の理に交わらぬ異端の命(特定外来生物)の、魂と器の崩壊を感知……』
『いや〜。久方ぶりですね〜。非常に興味深い! このまま殺してしまうのはヒジョーに、もったいないっ! 今回だけ、特別出血大サービス! 助けてあげましょうかね〜。でもな〜。ことわりの外ではな〜。そうだな〜。その隣のお魚と契約しちゃおっか!』
『――理、承認:魂の繋がりを介し、寄り添いし命へ、迷宮の【契約者】たる資格を授与す』
『――魂の刻印、成れり。汝は本迷宮における【二番目の契約者】なり。――第一の契約者との理の相克を感知。眷属守護の法により、此度の干渉は退けたり』
『なれど、対象は致命の猛毒により、死の淵へと沈みゆく最中なり。当聖域に残されし魔力のみでは、その命を繋ぐこと叶わず』
『だったら! ぼくが、おねえさまをあたためる!!』
『おねえさまをだきしめる、『手』がほしい!! おおきな『からだ』がほしいですぅぅっ!!!』
『……魂の祈り(ねがい)、聞き届けたり』
『――されど、魂を縛鎖する【契約】には、返らぬ【代償】を伴うと刻みつけよ』
ピカちゃんは、種の限界を完全に否定する。
お姉さまを、抱きしめたい。冷たくなっていくお姉さまの体を、ぼくの体で温めてあげたい。
その強烈な思念を受け、遺跡の理が、ピカちゃんの内に秘められた力を瞬く間に解析し始めた。
『――命の形、見極めたり。個体名:ピカ』
『その身に、再生の起源【ヒドラの多能性幹細胞】が宿るを感知。その腹の内に、進化の糧となる【莫大な命の輝き】を見出せり』
ピキリ、と。ピカちゃんの体が、青白い光に包まれる。
『魂の繋がりを遡り、異端の命の深き記憶の淵より、【ホモ・サピエンス】の魂の設計図(DNA構造式)を掬い上げたり。――理の条件、満たせり』
荘厳なる声が、宣告する。
『――契約者の資格を確認。神立迷宮の祝福【神代の奇跡】を授けん』
『――これより、種の限界を打ち破る『理外の飛躍』へと導かん』
キィィィィィンッッッッ!!!!
祝福。それは、通常進化の数億年という時間的・物理的階層を一瞬にして超越し、獲得したアミノ酸を瞬間過給燃焼させる、神代の奇跡。
ピカちゃんの中の【多能性幹細胞】と、私の記憶から漏れ出た【ホモ・サピエンスの設計図】が、祝福によって神秘的に融合される。
バチバチバチバチバチッッッ!!!
莫大なカロリー(巨大イモムシのアミノ酸)が燃料として一気に燃焼し、ピカちゃんの細胞が爆発的な細胞分裂と再構築を開始したのだ!
幹細胞がリミッターを外して暴走していく。まばゆい、今までに見たこともないほどのパステルブルーの『奇跡の光』が、暗闇のジャングルを真っ白に照らし出した。
『ギ、ギャアァァァッ!?』
進化に伴う強烈な衝撃波が吹き荒れ、巨大サソリがたまらず後方へと吹き飛ばされる。
光の奔流の中で、古代魚のシルエットが、みるみると大きくなり、形を変えていく。
そして。光が、静かに収束した時。
その光の奥から、姿を現したのは――。
硬く美しいケラチン質のウロコ(腹鱗)で覆われた、パステルブルーのしなやかな『蛇の尾』。
そこから滑らかに繋がるのは、透き通るような白い肌を持った、人間の少女の華奢な上半身。
そして、昏睡している私の巨体をしっかりと抱きしめるための――私の前世のDNA情報をベースに生み出された、柔らかく、温かい、真っ白な二つの『腕』。
――【幻獣・ラミア形態(全長およそ二メートル)】!!
私の愛した古代魚が、私を助けるためだけに辿り着いた姿だった。
『――第零域、部分解放、終了』
『さあ、自然淘汰の始まりだ。足掻け! 私に見せてくれ!』
***
『シャァァァァッ……!!』
光が収まると同時、吹き飛ばされた巨大サソリが体勢を立て直し、怒り狂って突進してくる。必殺の毒針突き。
だが。
「……もう、おねえさまを、いじめないで」
ピカちゃん――ラミアの少女が、静かに手を伸ばした。
『きゅ』という鳴き声ではなく、新たに形成された声帯から紡がれた、透き通るような、けれど強い意志を持った『言葉』。
ガシッ!!!
『ギ、ジィィッ!?』
サソリの渾身の毒針を、ピカちゃんは新しく手に入れた白い『手』で、いとも容易く、真正面から受け止めていた。皮骨兜の名残か、彼女の腕にはうっすらとパステルブルーの魔力の鱗が浮かび上がる。
「えいっ!」
ピカちゃんが白い腕を無造作に振るうと、一メートルの巨大サソリはまるで小石のように軽々と宙を舞い、ジャングルの彼方へと叩き落とされた。
だが、せっかく二人で建てた仮マイホームは、今や別働隊のサソリどもに完全包囲され、入り口も崩壊した逃げ場のない「死の罠」と化していた。このまま狭い部屋の中で立ち往生すれば、動けない私はバラバラに引き裂かれ、ピカちゃんもろとも喰い尽くされるのは時間の問題だ。
「いや……。おねえさまを、たべさせないです……っ!」
ピカちゃんの美しく透き通るような瞳に、かつてない烈火のような執念と魔力がスパークした。
お姉さまを死なせない。その巨大な感情が、彼女の新しく手に入れた人間の『喉(声帯)』へとダイレクトに接続される。
ピカちゃんは、大きく息を吸い込んだ。
高酸素環境(三十五パーセント)下の大気は気圧が高く、湿気を含んでおり、音波の伝導率が標準大気とは比べ物にならないほど極めて高い。彼女が喉の奥の声帯を、自身の生体魔力電位と同調させて限界まで振動させる。
放たれたのは、ただの悲鳴ではない。空気を物理的に圧縮し、超高周波の共鳴波として撃ち出す、最古の音響魔法(兵器)。
「――きゅいぃぃぃぃぃぃぃぃーーーーーーーっっっ!!!!!!」
キィィィィィンッッッッ!!!!
夜の暗闇を、鼓膜を直接引き裂くような凄まじい音響衝撃波が突き抜けた。
大気中を伝播する激しい音圧の壁。迫り来ていた巨大サソリたちの、全身にびっしりと生えた超高感度センサー『スリット感覚器』や、空気の微細な流れを捉える『聴毛』に、この物理的な高周波衝撃が直撃したのだ。
『ジ、ジギ、ジィィィッ!?!?』
サソリたちの高感度な神経系が一瞬にして過負荷を起こし、ホワイトアウト。方向感覚を完全に失った巨体どもが、悶絶するように泥の上をのたうち回り、カチカチと自身のハサミを虚しく振り回して気絶(強制スタン)した。
「おねえさま、今度は、ぼくが……おんぶ、するです……っ!」
ピカちゃんは昏倒したサソリたちの隙を突き、人間の細い白皙の腕で、私の六十五センチ・十五キロの重殻を優しく背中に背負い込んだ。
ズサァァッ……!
美しくツヤツヤとしたパステルブルーの蛇尾に、金属質で冷たく分厚い、十五キロの塊が容赦なくのしかかる。
硬いケラチン質の腹鱗が石板に擦れてチリチリと乾いた音を立てる。華奢な少女の腕の筋肉が重みで悲鳴を上げ、ピカちゃんは過負荷に細い腰をみしみしと軋ませながらも、泥を力強く掴んで崩れた家から這い出した。
「あ、ぅ……、うぅ……っ!!」
激痛が全身を走るはずだ。それでも、ピカちゃんは私のトゲトゲしたハサミの根元を、新しく生まれたにんげんのおててで『ぎゅっ』と固く握りしめた。
(これまではずっと、小さくて弱かったぼくを、おねえさまが背中に乗せて、守って、連れてきてくれた)
(だったら、今度は――ぼくが、おねえさまをおんぶして、絶対に、この地獄から連れて逃げるんだっ!)
ピカちゃんは、泣きじゃくりながら、ぬかるんだ暗黒の泥濘の上を必死に這い逃げた。
持ち手すらない十五キロの甲殻を必死に抱え、泥に沈まないよう持ち上げながら。慣れない人間の腕と強靭な蛇尾を狂ったようにくねらせ、泥まみれになりながらも、一歩、また一歩と、執念の這行で前へと進む。
どこに向かっているのか、そこが安全なのかも、もう分からない。
ただ、背中で冷たくなっていく大好きな存在の鼓動だけを、他者治癒の細い糸を通して必死にトラッキングしながら、がむしゃらに、がむしゃらに這い続けた。
どれほどの時間が経っただろう。
這いずり回るピカちゃんの息がゼーゼーと限界に達しようとしていたその時。巨大な腐ったシダ(鱗木)の根のさらに奥深く、ぽっかりと開いた、小さな小さなうつろ(地下空洞)を発見した。
ピカちゃんは、千切れそうになる腕で私の巨体をその狭い隙間へと必死に引きずり込み、入り口を自身のパステルブルーの蛇尾で完全に塞ぐようにして、私を抱きしめたまま泥だらけで倒れ込んだ。
サソリたちの這行音は、もう聞こえない。
這い逃げられた……。なんとか、おねえさまを、守り抜けた……。
静寂が、戻ってきた。
私の意識は、毒のせいでいよいよ途切れかけている。全身の感覚が失われ、冷たい泥の温度すら分からなくなっていく。
あぁ……よかった。ピカちゃん、無事だったんだね……。
安堵と共に、完全に機能停止を受け入れようとした、その時。
……ぽふっ。
私の冷たくて硬い殻が、信じられないほど柔らかくて、温かいものに、ふわりと包み込まれた。
「おねえ、さま……っ」
ピカちゃんの手だ。ピカちゃんの、人間の腕だ。
ピカちゃんは、私の冷たい体にぴったりとおでこを合わせ、人間の細い腕で、十五キロの命の塊となった私をぎゅっと抱きしめ直した。彼女は長い蛇尾で私の巨体を優しく巻き込むようにホールドし、泥だらけの私をぎゅぅぅっと強く、強く抱きしめてくれていた。
ぽた、ぽたり。私の複眼に、温かい雫が落ちてくる。
「おねえさま、おねえさまぁ……っ。お返事、してくださいぃ……っ」
「ぼくが、ずっと、おねえさまを、あたためてあげるから……っ」
泣きじゃくるピカちゃんの体温が、硬い装甲を透かして、冷え切った私の内臓へとじんわりと染み渡っていく。
……あったかい。なんだ、これ。
人間の体温って……こんなに、優しくて、温かかったっけ。
毒素で停止しかけていた私の心臓が、その温もり(生体熱)と、抱擁を通じて流れ込んでくるピカちゃんの魔力に反応して、トクン、と小さく脈打った。
言葉を返すことはできなかったけれど、ピカちゃんの最高に温かいハグに包まれながら、私は深い深い眠りの中へと落ちていった。
嵐の去った腐海のジャングル。
小さなシダのうつろの隙間から、石炭紀の、最初の静かな「夜明けの光」が、ゆっくりと差し込み始めていた。
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