第36話 生物部の思い出……って、このおうち自体が巨大な「エサ」じゃん!?
はふぅ〜…………。
まーじで、極楽の極みなんですけどぉ……。
私は、ひんやりモチモチベッドの上に身体をだらんと投げ出していた。
ずっと背中におんぶされていた小さなお魚だったピカちゃんも、逞しく成長して、今やこうして横にぴったりと並べる。お姉ちゃん、感激です!
密閉された琥珀のドームには、巨大シダの森の濃密できれいな空気がたっぷり閉じ込められている。
深く息を吸い込むと、呼吸器(書鰓)の隅々まで新鮮な高濃度酸素が「しゅわぁぁっ……」と巡っていくのがわかった。天然の酸素カプセルに入ったみたいに、私の外骨格も、ピカちゃんのお肌も、ツヤツヤに潤っていく。
あぁ〜…………きっもちいぃ〜。
モチモチのベッドが、私たちの体重を柔らかく受け止めてくれる。ゆらゆらと、私たちはぴったりと並んで、だらしなく蕩けるように、至高のQOLの絶頂を漂っていた。
ことり、と小さな音がした。
見ると、ピカちゃんがお揃いの『オーガニック・リーフコップ』を、かわいいおてて(相同関節)でそっと私の前に置いてくれたところだった。中には、巨大シダの幹から汲んでおいた甘い糖蜜(樹液)が満たされている。
『きゅ……☆』
……んふふ。ピカちゃん、ありがと……。
私は前脚でコップをそっと支え、甘い香りのする液面に息を吹きかける。
ふーっ、ふーっ。
『( ‐ ▼ ‐ )きゅぅ……♪』
とろりとした糖蜜キャラメルラテが、ゆっくりと喉の奥へと滑り落ちていく。じんわりと、濃厚な糖分とアミノ酸が、胃袋から全身へと広がっていく。
あぁ、甘い。美味しいね。
…………。
……ねえ、ピカちゃん。
『( ・ ▼ ・ )きゅ?』
リーフコップを半分こしながら、私はぽつり、と口を開いた。ピカちゃんは不思議そうに小首を傾げて、私の複眼を見つめ返してくる。
私ね、前の世界で……人間の女の子だった頃、生物部の合宿でよく山にキャンプに行ってたんだ。
『きゅぅ?』
そう、お外でお泊まりするの。うちの部の部長だった先輩が、もう筋金入りの虫オタクでね。深夜の山奥に白い布とライトトラップ(集虫灯)を仕掛けて、徹夜で虫の観察させられるの。
夜はめちゃくちゃ寒くてさ。みんなでガタガタ震えながら、その先輩がバーナーで淹れてくれたホットココアを飲むんだよ。
『いいか、過酷な環境こそが生物を進化させる。すべてはダーウィン先生の言う自然淘汰だ!』なんて、星空の下で進化論や虫のうんちくばっかり語る変な人だったけど……ココアの淹れ方だけは無駄に上手くてさ。
私の拙いおしゃべりを、ピカちゃんは「きゅい、きゅい」と相槌を打ちながら、一生懸命に聞いてくれる。言葉は通じていなくても、声のトーンで「私が懐かしそうに話している」ことは伝わっているみたいだ。
あの時のホットココアも、すごく甘くて美味しかったんだけどね。
私は、コップを持つピカちゃんのおててに、自分の歩脚をそっと重ねた。
……ピカちゃんとここで飲む糖蜜ラテの方が、ずっと美味しいや。
私、この世界に来た時はポンコツ女神を恨んだけど、いや、今も恨んでいるけど、ピカちゃんがいてくれたおかげで最高に幸せだよ。
『( ‐ ▼ ‐ )きゅぅぅ……♪』
ピカちゃんは嬉しそうに目を細めると、私の頭胸部の付け根に、すりすりと甘えるように顔を埋めてきた。
あったかい。言葉なんかなくても、心と心がちゃんと繋がっている気がする。
時間をかけて、少しずつ、少しずつ、お揃いのリーフコップを半分こして啜る。この幸せで、甘い匂いに満ちた時間が、永遠に続けばいいのに。
…………。
………………。
極上のラテを飲み干す頃には、外で打ち据えていた熱帯スコールが、いつの間にか静かな雨だれへと変わっていた。
ポツ……、ポツリ……。
静かだ。ピカちゃんはすーっ、すーっと、規則正しい寝息を立て始めている。その温かい鼓動を間近に感じながら、私の意識も、泥のような深い微睡へと落ちかけていた。
……ん?
ふと、この静寂の中で、一つの『違和感』を感じた。
あれ?
おうちの中は、樹液の甘い匂いでいっぱいだ。琥珀の壁で覆われているから、当然だ。
……琥珀の、壁?
あれ? 私……匂いをマスキングするための『銅イオン粘土』って。
……採れずに、途中で倒れたんだよね?
……。
じゃあ、今、このおうちの『外壁』って。
超絶甘い匂いを放つ『琥珀(樹液)』が、むき出しのまま、なんじゃ……?
ツー……ッ、と一本の冷たい汗が、背甲を伝い落ちた。
ドクン、と心臓が重く跳ねる。極上のリラックスで弛緩しきっていた思考が、ひんやりとした恐怖によって、急速にクリアになっていく。
外の熱帯スコールは、もう上がっている。
雨で空気が洗われたことで、このおうちの外壁からダダ漏れになっている「特濃で激甘なフェロモンフレグランス(ごちそうの香り)」は、湿った夜風に乗って、周囲数キロのジャングルへと……じわじわと、拡散してしまっているはずだ。
まるで、あの虫オタクの先輩が山奥に仕掛けた『樹液トラップ』みたいに。
先輩が言っていた、ダーウィン先生の『自然淘汰』。
過酷な大自然の選択圧は、私たちが幸せを満喫して、想い出話に花を咲かせ、眠りに落ちかけているこの長い時間の間に――極めて論理的に、最悪の捕食者をこの場所へとゆっくり誘導していたのだ。
……ヤバいヤバいヤバいッ!!
気づくのが、あまりにも遅すぎた。極上の糖蜜ラテとリラックス空間で、完全に脳みそがトロけてバグっていたのだ。
私はベッドから弾かれたように跳ね起きた。
『( ・ ▼ ・ )きゅ、きゅわっ!?』
ごめんピカちゃん! ベッドの奥に下がってて!!
慌てている暇はない。今すぐ防衛戦(バリケード構築)だ!
外壁そのものが甘い匂いを放つ巨大な『エサ』になっている以上、もう匂いを消す手段はない。なら、せめて敵が中へ侵入してこないように、唯一の隙間である換気口を『パテ』で限界まで塞いで、物理的な防壁にするしかない!
私は強靭な装甲を軋ませ、残っていたゲルパテの塊を前脚で掴み取った。
急げ。一秒でも早く、このおうちを完全な密室にして――。
だが。
私が換気口へ向かって、一歩を踏み出した、その瞬間。
……カチ。
カチ、カチ、カチ、カチ。
すぐそこ。ほんの一枚向こう側から。
硬い足爪が、琥珀の壁を「ギギギ……ッ」と削りながら這い上がる音がした。
――間に合わなかった。
それは、一匹や二匹の音ではない。
カサ、カサカサカサッ!
ワサワサワサワサワサワサワサワサ……ッ!!
ドーム状のおうちの全方位から。
右の壁を。左の壁を。天井を。そして、正面の引き戸を。
無数の何かが群れを成して、隙間なくびっしりと這い回り、覆い尽くしていく音だった。
……ヤバいヤバいヤバいッ!!
やつじゃん!




