第32話 さよなら浮力、こんにちは絶対重力(1G)。
ジリ……。パキッ、パキパキッ……。
嫌な音が、足元の岩盤から響いてくる。
さっきまでボコボコと不気味に沸騰を繰り返していた、おうちの周囲の泥濘は、今や完全に沈黙していた。
水分という水分が、頭上の結晶太陽の暴力的な熱線によって、文字通り「一滴残らず」空へ向かって蒸発されていく。ドロドロだった泥の表面が、干ばつの砂漠みたいに亀甲状にパキパキとひび割れていくのだ。
おうちのシェルターは完全にH2Oを失い、逃げ場のない「焼き粘土のオーブン」へと姿を変えつつあった。
絶対の自信を持っていたバイオセメントの鎧戸も、外で暴れる巨大ミミズの質量と熱風でひび割れ、ボロボロだ。隙間から吹き込んでくるのは、私たちの体表面から残された水分を削り取っていく、摂氏六十度を超える灼熱の死の風だけ。
控えめに言って、マジで地獄なんですけど。サウナどころの騒ぎじゃない。
このままだと、タンパク質の熱変性と完全乾燥のコンボで、数分後には完璧な「パリッと美味しい干物」が完成してしまう。
ピカちゃん、おうちから出るよ!
ここにいたら、干からびる前にこんがり焼き上がっちゃう!
私は、さっきプロト肺をハックしたばかりで荒い息を吐くピカちゃんを抱え、ひび割れたセメントドアを力任せに突き破った。
急速に乾燥し、ひび割れつつある灼熱の泥地の上へと、思い切って躍り出る。
――だが。
水という優しい揺り籠から完全に切り離され、陸の空気に全身を晒した瞬間。私たちには、自然が誇る最も冷徹にして絶対的な物理法則が、巨大な牙を剥いてのしかかってきた。
ドスンッ……!!
『( ・ ▼ ・ )きゅ、きゅ、ぅ……ゲホッ……っ!!』
乾いた泥の上に転がったピカちゃんが、必死に尾ビレを左右にしならせて前へ進もうと這いずる。だが、そのパステルブルーの美しい流線型の身体は、ただひび割れた泥を虚しく叩くだけで、一ミリも前方へと進まない。
当たり前だ。これまでは「アルキメデスの原理(水の浮力)」という、重力をほぼ百パーセント相殺してくれるチートバフに甘えきっていたのだ。
しかし、浮力を完全に失った陸上の泥の上では、三十センチに急成長したピカちゃんのヘビーな魚形ボディ――特に、コッコステウス特有の頑強な皮骨の兜の自重が、ダイレクトにその柔らかい身肉へと叩きつけられる。
『1G(標準重力加速度)』。
質量を持つすべての物体を、無慈悲に地の底へと引きずり込もうとする絶対的な暴力ベクトル。
自重を支える強固な内骨格(四肢)を持たない原始魚類は、陸の上に横たわっているだけで、己の重みによってデリケートな「内臓」が押し潰されてしまう。せっかく再構築したばかりのプロト肺が、自重による圧迫でペシャンコに潰れ、吸気が完全に止まってしまったのだ。
あ、あかん……!
浮力っていう物理バフを失った陸上じゃ、重力(1G)はただの『死刑判決』じゃんか!
自重を支える脚がなければ、いくら肺呼吸ができても、自重という物理的暴力で内臓が潰れてそのまま圧死だ。
それに、三十センチのウミサソリ(ユーリプテルス形態)である私自身も、乾燥してまとわりつくような重い空気の中、自分の体を支えて這い進むためだけに全脚を酷使して、すでに限界ギリギリだ。
このまま無理をすれば、私の関節もバラバラに千切れるだろう。同じ三十センチのヘビーなピカちゃんを、私が物理的に運び続けるなんて、質量比と生体力学的に百パーセント不可能だ。
絶望の中、重い複眼でゆっくりと周囲の泥地を見渡す。
そこは、目を背けたくなるような『自然淘汰の墓場』だった。
……なんだ、上層への入り口はおうちの真上にあったんだ。
沸騰する泥濘から逃げようと、おうちの真上にそびえ立つ「巨大シダの腐海」へと続く崖に向かって、無数の生き物たちが群がっていた。縄張りを争っていた節足動物も、貪欲な原始魚類たちも。
しかし彼らは、空気中で呼吸孔を癒着させ、あるいは自重で一歩も動けないまま、崖へと続く泥の斜面の途中でボトボトと大量の干物(骸)となって、こんがりと無残に焼き上がっている。
環境の変化に適応できなかった者は、ただ無残に死んでいく……。
これがダーウィン先生の示した、剥き出しの生存競争の真理。
あはは……今回ばかりは完全に詰んだわー。
『きゅ……っ!』
――ズクンッ。
泥に潰されながら、ピカちゃんの脈が大きく跳ねたのがわかった。
ピカちゃん……!?
ピカちゃんの白紙の設計図が、お姉さまと何としても一緒に生きるんだという強靭な生存本能によって――熱く、熱く、内側から青白い火花を散らし始めた。
メキッ……。
ピカちゃんの、柔らかい胸ビレの内部で、何かが軋む音がした。
ゴキッ……。ボキボキボキッ!!
それは、破壊の音ではない。
骨形成の、創造の産声だ。
それまではただのフニャフニャな軟骨の束(鰭条)に過ぎなかった骨格が、さっき私が送り込んだ『ティクターリクの設計図』と多能性幹細胞の異常な細胞分裂によって、強固に融着し、太く、硬く組み立てられていく。
泥にへばりついていた胸ビレが、意志を持ったようにブルブルと震え始めた。
内側に、硬いカルシウムの芯ができる。
前腕となる『橈骨』と『尺骨』が形成される。
さらにその根元が、自重を支えるための分厚い筋肉を伴って隆起し、『上腕骨』が力強く肉を押し上げる。
のちのすべての四肢動物――カエルも、トカゲも、鳥も、そしていつか出会う人間の「腕と手首」へと繋がる構造。
数千万年という途方もない時間をかけて、泥の中で無数の屍を積み上げて、ようやく進化がたどり着くはずだった奇跡のシステム。
生物学史上、最も偉大で、最も美しい、最初の【相同器官(プロト四肢:肉鰭脚)】の生体構築だ!!
『( ・ ▼ ・ )きゅ、きゅいぃぃーーーーっっ!!!☆』
ピカちゃんは、生まれたばかりの、まだ不格好な前肢(肉鰭脚)の関節を「く」の字に曲げた。
そして、ひび割れた泥の地面を、『ぐっ』と力強く押し下げた。
メリッ、と硬い泥が砕ける音がした。
1Gの重力に潰されていたピカちゃんの重い胸部が、泥の上から、数センチだけ――確かに「浮き上がった」。
シューゥゥゥ……。
自重による内臓の圧迫から完全に解放され、潰れていたプロト肺へ、新鮮な空気が一気に吸い込まれていく。
パタ……。ずるり。
初めて自分の力で手に入れた「おてて(肉鰭の腕)」で泥を交互に押し、私と並んで、ゆっくりと、でも力強く自立して這い進み始めるピカちゃん。
ええええええええええええッッ!?
ピカちゃんが脊椎動物の上陸インフラ(腕立て伏せできる胸ビレ)を秒速で組み立てて自立しちゃったんだけどォォォッッ!?
脊椎動物の環境適応能力(表現型可塑性)、まーじでバグレベルすぎない!? ダーウィンの進化時計を完全にぶっ壊してる!
尊みがカンストして、私のキチン質装甲が割れそう……!!
生命の神秘と、たった数秒で信じられない成長を遂げた相棒の姿に、私の重い複眼がじんわりと潤んだ。
――まさに、その瞬間だった。
ズドォォォォンッッッ!!!
背後で、私たちの愛おしいおうちだった玄武岩のクレバスが、凄まじい雷撃のプラズマと大質量によって、完全に「大崩落」した。
崩落した泥煙の奥から、バチバチと極太の放電を乱れ撃ちながら現れたのは――あの、全長三メートルの巨大放電ミミズの親玉だった!
『ギ、ギィィィィッッ!!』
干上がっていく泥濘の中で、あいつもまた『重力』という絶対に逃れられない物理法則に囚われていた。
異常な地熱でゾンビ化し、自重が重すぎるその巨体は、這い上がるための骨格を持たず、上層の崖を登ることすらできない。
ただ狂暴にのたうち回りながら、迫り来る自身の死(自然淘汰)をほんの数秒でも先延ばしにするために――目の前のあらゆる生命を喰い尽くそうと、ひび割れた泥を薙ぎ払いながら、私たちへ向かって猛突進してきたのだ!




