第31話 命を繋ぐプロト肺と、進化できなかった成れの果て。
ジリジリ、ジリジリと。
おうちの玄武岩を伝う、逃げ場のない不穏な地熱。
私たちを優しく包んでいたはずのゲルのプールから、水分が容赦なく蒸発していく。
大干潮によって外からの水流は完全に絶たれ、秘密基地の周りはボコボコと泡立つ灼熱の泥に包囲されている。
そしてついに、おうちの中の溶存酸素は、生物学的生存限界である『完全なゼロ(デッドゾーン)』へと突入してしまった。
『きゅ、きゅ、ぅ……ゲホッ、ゲホッ……っ!』
私のダークブルーのキチン質装甲のすぐ下。
熱気が渦巻くシェルターの中で、ピカちゃんが悶絶するように頭部のエラ蓋を激しく上下させ、泥にまみれながら苦しそうにもがいていた。
コッコステウス形態へと大進化したピカちゃんだが、彼女の呼吸システムは未だに「エラ呼吸」のままだ。
エラは、水の中のわずかな溶存酸素を濾し取るための、美しく、そして脆すぎる超精密デバイス。水が干上がり、酸素がゼロになったこの空間では、それは『最悪のデス・トラップ』へと変貌する。
ウミサソリ(節足動物)である私の呼吸器は、硬い外骨格と同じ成分で本のページのように物理補強された『書鰓』だ。だから空気に触れたからといって即座に潰れることはない。陸に上がったカニがしばらく生きられるのと同じで、表面が完全に乾ききるまでの「生存猶予」が残されている。
けれど、柔らかい魚類のエラは違う。
空気中に濡れたエラが露出した瞬間、エラを形成している何千、何万という極薄のエラ弁が、水分の「表面張力」のせいで――。
ピタッ。ピタッ……と。
まるで糊で固められるように、次々とくっついて癒着していくのだ。
エラ弁の癒着。それは、ガス交換のための表面積が一瞬にして「ゼロ」になることを意味する。
周りの空気にどれだけ酸素があろうとも、エラ呼吸の生き物は一分子の酸素すら血中に取り込めず、生きたまま窒息死していく。金魚を水から出した時の、あのビチビチと跳ね回る絶望。気合や根性ではどうにもならない、冷酷な物理限界だ。
ピカちゃん! しっかりして、目を開けて!!
ピカちゃんのパステルブルーの美しい皮膚が、みるみるうちに酸素を失い、どす黒く変色していく。背中の「脊索」の明滅が、チカッ、チカッと、今にも消えそうに弱まっていく。
私の書鰓だって、この熱気で乾ききればいずれ窒息する。でも、ピカちゃんの窒息は「今、この数秒」だ。自分の苦しさは後回しでいい。
どうする!? なにか、遺伝子の発現を強制改変するロジックは……!?
――脳のシナプスを、焼き切れるほどの爆速で繋ぎ合わせる。
そもそも、この世界に転生してからずっと、私は疑問に思っていたのだ。
『魔力』とは、一体何なのか? そして、この異世界の本質とは何なのか?
オカルトな『魔法』? ……ハッ、冗談じゃない。
私がこの身で体感し、解析してきた『魔力』の正体。それはファンタジーな奇跡なんかじゃない。細胞膜の電位差を極限まで励起させ、DNAの転写速度と酵素反応を数千倍に加速させる、この世界固有の『高密度な生体化学反応触媒エネルギー(触媒素)』だ。
そして、この世界の本質。
一見すると都合よくデザインされた箱庭かと思ったが、その根底を支配しているのは、どこまでも泥臭くて残酷な『熱力学法則』と『ダーウィニズム(自然淘汰)』なのだ。
崖の上に上がりたいから、一晩でいきなり完璧な肺呼吸を覚醒させまーす☆
……なんて、無から器官を生み出すご都合主義の創造論は、この世界には存在しない。『魔力』という万能に見える触媒エネルギーですら、物理法則と解剖学の制約からは絶対に逃れられないのだ。
無から魔法を作るんじゃない。
今、手元にある『既存のジャンクパーツ』を、魔力という生体触媒で強制的に突貫工事するしかないの!
デボン紀に陸上に上がった私たちの祖先(肉鰭類)だって、優に数千万年という途方もない時間をかけた。水域が干上がって窒息死する地獄を、泥濘で這いつくばり、泥を啜りながら、『食道』という既存の消化管を膨らませて血管を張り巡らせた不格好な袋(原始肺)を、屍を越えて必死に繋ぎ合わせた結果として、ようやく上陸したのだ。
崖の上へ行くために、肺を作るんじゃない。
この、窒息死して茹で上がる地獄の選択圧を、今、この瞬間を生き延びるために!
魔力というエネルギー触媒を使って、遺伝子の配列を直接書き換える!
不格好でも、痛くても、何でもいい。命を繋ぐための『肺のプロトタイプ』を強引に再構築するんだよォォォッッ!!!
私は、私の中に眠る遺伝子データベースの奥底から、デボン紀後期の肉鰭類『ティクターリク』のDNAデータを呼び覚ますため、ヒドラから得た不老不死の多能性幹細胞を強制起動した。
痙攣するピカちゃんと、私のパスを極限まで太く繋ぐ。
そして、『魔力』を高濃度キャリアとして機能させ、私の体内の再生因子と上陸進出のマスターキー設計図(DNA)を、ピカちゃんの「背骨(白紙の設計図)」へと一気に強制送電(水平伝播)した!
バチバチバチッ!!!
◇ ◇ ◇
(……あつい、くるしい、ですぅ)
ピカちゃんの意識は、ドロドロの熱い泥の中で、どんどん遠ざかっていた。
お水がない。いつも息をする、エラのふわふわが、ぴたってくっついて動かない。
空気を吸おうとしても、何も入ってこない。体が、中から焼けるみたいに痛い。
(おねえ、さま……)
ぼんやりとする視界の先。
だいすきな、おねえさまの青くてかっこいい体が、ゆらゆらと揺れている。おねえさまが、ぼくを抱きしめて、すごく悲しそうな顔をしている。
(だめ、ですぅ。おねえさま、そんな悲しい顔、しないで……)
ぼくは、おねえさまを守れるくらい、強いお魚になれたから。
だから、だいじょうぶ、です、ぅ……。
背中の光が、プツン、と真っ暗に消えそうになった。
その時だった。
『――生きるよ、ピカちゃん!!!』
心に直接響く『強い声』。
繋がった見えない糸から、雷みたいな、でもすごく温かい光が流れ込んできた。
ビクンッ!!
ぼくの背骨(脊索)が、その光を受け取って、熱く、熱く燃え上がる。
喉の奥が、お腹の壁が、勝手にグチャグチャって動いて、細胞がちぎれるみたいにすごく痛い。でも、おねえさまの「生きて」っていう強い気持ちが、ぼくの体を作り変えていくのがわかった。
『ピカちゃん、エラ呼吸はダメ! エラを閉じて!』
『口から空気をダイレクトに呑み込んで! 食道から膨らんだ袋へ空気を送り込んで、そこで直接酸素を吸収するのよ!』
おねえさまの言う通りにしなきゃ。
ぼくは、のたうち回りながら、喉に詰まったドロドロの泥を吐き出した。
そして、おくちを、痛みをこらえてカポッと大きく開けた。
ヒューーーッ……!
すーっとする微かな空気。それを、必死に、お腹の底へ。
ゴクンッ!!!
……と、無理やり呑み込んだ。
◇ ◇ ◇
ゴボッ……。シュゥゥゥ……。
ピカちゃんの喉の奥。食道から分岐・新設された、まだ血の滲むようなプロト肺(血管網の袋)に、生まれて初めて新鮮な「空気」という異物が直接満たされた。
痛覚を伴う初めての肺呼吸。だが、確実にガス交換が開始された。皮膚の色が戻り、血中の酸素飽和度が急激に上昇していくのを検知する。
『( ・ ▼ ・ )きゅ、きゅいぃぃーーーーっっ!!!☆』
パステルブルーの美しいネオンが、黒ずんでいたピカちゃんの脊索に、再び力強く、今まで以上に瑞々しく光り輝いた。荒い息を吐きながら、ピカちゃんが笑う。
エラ癒着による即死プロセス。その絶対的な物理限界の突破に、私たちはついに成功したのだ。
……しかし。この冷酷な大自然の試練は、これでは終わらない。
メキメキ……。バリバリバリッ!!!
突如、おうちの入り口を塞いでいたバイオセメントの鎧戸に、不気味な亀裂が走り始めた。
えっ……嘘でしょ!?
分厚いセメントが砕け散る。
その亀裂の奥から見えたのは、炭化してボロボロに崩れ落ちた肉体の隙間から、マグマのような異常な赤光を漏らす、完全に熱力学の法則から逸脱した巨大ミミズの姿だった。
生物としては、とうに死んでいる。
環境の急激な変化に適応する理を持たず、異常な地熱エネルギーと、この世界特有の『魔力』だけを、焦げた肉体に無理やり循環させている。体をドロドロに融かしながらも、死んだまま生態系のルールすら無視して動き続けるだけの、完全な『エラー生命体(暴走ゾンビ)』だった。
――ああ、そうか。
あいつは、進化できなかった。私たちがなったかもしれない「成れの果て」なんだ。
もし私が、あの極限状態の中で遺伝子を再構築できず、ただ都合のいい魔力だけにすがりついて暴走していたら……私たちも、あんな風に自我も形も失って、ただ狂い回るだけの肉塊に成り果てていたに違いない。
ドゴォォォンッ!!!
もはや知性も痛みも存在しない、ただの災厄と化した巨大ミミズ。狂える暴走状態のまま、おうちであるクレバスそのものを抉り崩そうと、外から何度も、何度も巨体を叩きつけてきている。
頭上の玄武岩から、パラパラと岩屑が落ちてくる。茹で釜となったおうちから脱出しなければ、壁ごと押し潰されてスクラップにされるのは時間の問題だった。
だが、水のない「陸上」に出た瞬間。
私たちには、さらなる最悪の物理法則――。
水の浮力を失った体を容赦なく大地へ押し潰す、絶対的な力『重力』が、その巨大な牙を剥いてのしかかることになるのだった。




