第124話 生体コンパスと、塩辛いクレーター。
ゴトゴト。
特注馬車は港塞都市パールを背に、北へと続く坂道を駆け上がっていた。
車内の丸テーブルの上。
スパイスの空き瓶に閉じ込められた『赤い毛細血管の塊』が、ウニョウニョと気色悪く蠢いている。
「……ほんとに、ずっとあっちばっかり向いてるね」
テーブルに顎を乗せたクロエが、瓶を覗き込んで目を丸くした。
馬車がカーブを曲がって向きが変わっても、赤い繊維はガラスの内壁をズルズルと滑って、必ず『北北東』へ先端を揃え直すのだ。
「ねえクロエ、その塩パンの端っこ、ちょっと貸して」
「うん? はい」
私は塩パンをちぎり、瓶の『南側』のガラスにピトッと押し当てた。
ビクンッ!
赤い繊維が一斉に跳ねた。
北北東を向いていた先端が猛スピードで反転し、塩パン側のガラスへ吸盤みたいにベタァッ! と張り付く。
「ひゃあっ!? パンにくっついた!」
「ひぃぃっ! ガラス越しに塩分を嗅ぎつけてるんですかぁ!?」
ピンクエプロンのリックスが青い顔で飛び退く。
パンをひょいと遠ざけると、赤い繊維はしばらくガラスをカリカリと引っ掻いたあと、チェッと舌打ちしそうな勢いでまた『北北東』へ向き直った。
(なによこいつ。目の前にエサがあると飛びつくくせに、取り上げたら親株のある『北北東』へ帰ろうとするわけ? 現金な寄生内臓ね!)
私は塩パンをパクッと自分の口に放り込み、地図を広げていたアイリスを見た。
「ねえアイリス。この赤いのが指してる『北北東』の直線上って、今の街道と重なってる?」
カチャリ。
アイリスが銀縁メガネを押し上げ、地図に定規を当てた。
「……いえ、本街道はここから真北へ迂回します。この北北東の直線上にあるのは、今は誰も通らない旧道――『カルデラの涸れ谷』ですね。十数年前から水脈がすべて枯れ果てた、死の盆地です」
「十数年前から、急に水が枯れた……ねぇ」
カチリ、と頭上の本尊がハサミを鳴らす。
パールの海とまったく同じ匂いがするじゃない。
「決まりね。本街道はパスして、その『カルデラの涸れ谷』を真っ直ぐ突っ切るわよ!」
「了解! 御者、次の分岐を右へ切りなさい!」
エルザの声で車輪が大きく軋み、馬車は石畳の本街道から荒れた旧道へと滑り込んだ。
***
旧道に入って、数時間。
馬車が『カルデラの涸れ谷』の盆地へと踏み込んだ頃には、車窓から「緑」という色が完全に消えていた。
静かだった。
車輪が乾いた土を踏む音以外、なにも聞こえない。
道の両側に並ぶ木々は、どれも皮が剥がれて白骨みたいに立ち枯れている。
鳥の声もしない。虫一匹飛ばない。
風すら死んだ灰色の谷で、地面だけが亀の甲羅みたいにバキバキにひび割れていた。
「……アノマロちゃん。ここ、なんだか息が詰まるよ……」
クロエが自分の胸元をきゅっと押さえる。
見ると、テーブルの上の空き瓶が、カタカタ、カタカタッ! とひとりでに震えていた。
中の赤い血管が、血走ったみたいに膨れ上がって、前方のガラス壁にガンガンと頭を打ち付けている。
このすぐ先に、何かがある。
私はゴクリと唾を飲み込み、外の気配を探ろうと馬車の窓を細く開けた。
ぶわっ。
乾ききった死の谷の奥から、生温かい風が吹き込んできた。
「…………ん?」
私のシリアスな顔が、ピタリと止まった。
頭上の本尊の触角が、ひくひくと動く。
「……ねえ。なんか今、すっごく香ばしい『イカの塩辛』みたいな匂いしなかった?」
「えっ? くんくん……あ、ほんとだ! 焼きイカみたいな匂いがするよ!」
「ちょっと、なんでこんな不気味な死の谷のど真ん中で、居酒屋みたいな匂いがするのよ!?」
大剣の柄に手をかけて警戒していたエルザが、ガクッと肩を落とす。
さっきまでのホラーな緊張感が、一瞬で塩辛い磯の香りに塗り潰された。
「あそこよ! 岩陰から白い湯気が上がってるわ!」
馬車を止め、私たちは湯気の上がる窪地へと駆け寄った。
岩陰から下を覗き込んだ瞬間――全員がポカンと口を開けた。
ドーン、と。
ひび割れた赤土のど真ん中に、直径二十メートル近い『大穴』がぽっかり開いていたのだ。
穴の底はまだビチャビチャに濡れていて、周囲には真っ白な塩と、見覚えのある『海底の黒い熱水泥』が派手にぶちまけられている。
しかも穴の底では、地下を走っていたらしき『極太の白い根っこ』が内側から見事に破裂して、ちぎれた断面からプシュウウウ……と情けない湯気を漏らしていた。
「……ぷっ。あはははははっ!」
私はクレーターの縁で、お腹を抱えて吹き出した。
「ちょ、なに笑ってんのよアノマロちゃん!」
「だってこれ、昨日私がパールの海底で叩き込んだ『ウォーターハンマー(水撃)』よ! 行き場を失った海底熱水とイカの匂いの海水が、地下の根っこを逆流して、ここまで来てドカンと破裂したんだわ☆」
通りでイカ臭いわけだ!
私がヒーヒー笑いながら涙を拭っていると、隣のエルザが「……ちょっと、アレ見なさいよ」と呆れた声でクレーターの脇を指差した。
見ると、泥が乾きかけた斜面に、どう見ても不自然な『穴』があった。
頭から真っ逆さまに地面へ突き刺さり、両足を空に向けて犬神家みたいにピーンと伸ばしたあと、しばらく泥の上でのたうち回ったような、くっきりとした『人型の魚拓』。
そこから北へ向かって、ヨロヨロと千鳥足の足跡が続いている。
「……誰よ。こんな何もない死の谷で、ピンポイントに海鮮間欠泉の直撃食らったコントみたいな奴は」
「アノマロちゃん、見て。この人が刺さってた穴の横に、なにか落ちてるよ」
しゃがみ込んだクロエが、泥の中から『透明な欠片』を拾い上げ、ハンカチで拭って私に差し出した。
ガラスの靴が、シャラリと鳴る。
「んー? どうせ安物のポーション瓶か何かでしょ☆」
まだ笑いを残したまま、私はひょいとそれを受け取った。
――瞬間。
私の顔から、スッと笑顔が消えた。
気泡ひとつない、均一で薄いホウケイ酸ガラスの曲面。
鼻腔をかすめる、六十五度に温められた甘い『コーヒー牛乳』の匂い。
そして、透明なガラスの表面には、白い耐熱インクでくっきりと――地球の生物部室で毎日見ていた『目盛りの線』が刻まれていた。
『―― 100ml / 150ml / 200ml 』
「…………え?」
乾いた風が、死の谷を吹き抜ける。
私の指先で、割れたビーカーの欠片が、カタリ、と小さく震えた。




