第123話 瓶の中の拍動。
ジワァッ……。
小皿の上で、赤い肉塊の裂け目から滲み出た『黄金色の光』が、ギョロリと私の指先を見上げた。
ドクン。
また、ひとつ跳ねる。
潮風に揺れるランプの炎を反射して、表面に浮き出た毛細血管が、生き物の心臓みたいに規則正しく縮んでは膨らんでいた。
「…………」
私は、伸ばしかけていた前部付属肢の爪先を、すっと引っ込めた。
普段の私なら、未知のサンプルを見たらとりあえず口に放り込んで、味と成分を確かめるところだ。
でも。
目の前のこれだけは、本能が「絶対に口に入れるな」と警鐘を鳴らしていた。
臭いがないのだ。
これだけ生々しい血の色をして、むき出しの粘膜を光らせているのに、鉄の匂いも、腐敗臭も、生き物なら必ず持っているはずの『匂い』がまるっきりしない。
まるで、精巧に作られたゴムの塊が、誰かのぜんまい仕掛けで無理やり動かされているみたいな。
「……気色悪っ」
ぽつりと呟いた声が、夜の波音に吸い込まれる。
私はテーブルの隅に転がっていた、スパイスの空き瓶をひょいと手に取った。
小皿を傾け、指先が触れないように赤い肉塊を瓶の中へと滑り落とす。
ポトリ。
金属の蓋を、ギュッときつく閉めた。
瓶の底で、そいつはまだ、ドクン、ドクン、とガラスの壁に赤い筋を押し当てて脈打っている。
私はその小瓶を掴むと、ランプの火をふっと吹き消し、暗いテラスから部屋の中へと戻った。
***
部屋の中は、昼間の騒ぎが嘘みたいに静かだった。
小瓶を窓際のテーブルの隅に置き、私は足音を消して大きなベッドへと歩み寄る。
「……すぅ……すぅ……」
月明かりが落ちる白いシーツの上で、クロエが小さく丸まって眠っていた。
さっきの土鍋の温かさがまだ残っているのか、頬がほんのりと桜色に染まっている。けれど、その小さな右手は、まだ自分の胸元の服をきゅっと握りしめたままだった。
五千メートルの海の底で、あの子がこぼした一粒の涙。
『誰かが、痛いよって泣いた気がしたの』
私はシーツの隙間へとそっと滑り込み、クロエの華奢な背中を後ろから抱きしめた。
ふわりと、甘いシャンプーと、ほんの少しの潮の匂いがする。
「……ん……アノマロ、ちゃん……?」
半分眠ったままの声で、クロエがくるりとこちらを向いた。
そのまま私の胸元にぺたりと額を押しつけ、安心したように深く息を吐き出す。
トクン、と。
クロエの心臓の音と、私の胸の奥――全能性幹細胞の深い場所で小さく固まった『あの温かい核』の拍動が、ぴたりと重なった。
窓際のテーブルの上。
冷たい月明かりの中で、ガラス瓶の中の赤い塊が、同じリズムで一度だけ小さく跳ねた気がしたけれど。
私はそれを無視して、腕の中の温かい身体をぎゅっと抱きしめ返し、目を閉じた。
***
「――ちゃん。……ねえ、アノマロちゃんってば」
ゆさゆさと肩を揺すられて、私は重い瞼をうっすらと開けた。
カーテンの隙間から、眩しい朝の光が差し込んでいる。
「んー……あと五分……。いま、ダーウィン先生とイカの解剖してるとこだから……」
「もう、寝言までお魚の話なんだから。……それより、ちょっとこれ見てよ」
クロエの少し困ったような声に、私はふわぁと欠伸をしながら身を起こした。
頭上の本尊も、寝ぼけ眼の複眼をパチパチと瞬かせる。
「なによ、朝っぱらから……」
ベッドを降り、窓際のテーブルの前でしゃがみ込んでいるクロエの隣へ顔を寄せた私は。
そのまま、ピタリと固まった。
「……ね? これ、昨日の夜より……おっきくなってない?」
朝の光を透かした、スパイスの空き瓶。
昨夜、私がそこに入れたときは、間違いなく小指の先ほどの『小さな肉片』だったはずだ。
なのに今、瓶の中は――真っ赤な毛細血管の網で、びっしりと埋め尽くされていた。
まるで粘菌か、クモの巣みたいに。
赤い繊維がガラスの内壁にベッタリと張り付き、しかもその繊維の先端が、すべて『同じ方向』――テーブルの上に少しだけこぼれていた、昨夜の料理の『岩塩の粒』と、北の窓の方角へと向かって、ウニョウニョと蠢いていたのだ。
「ひっ……!? な、なんですかこの不気味な瓶はぁぁっ!?」
朝食のトレイを持って入ってきたピンクエプロンのリックスが、瓶を見るなり裏返った悲鳴を上げて飛び退いた。
その声に、隣の部屋からエルザとアイリスも顔を覗かせる。
「朝から騒々しいわね……って、なによその赤いモジャモジャは。アノマロちゃん、また変な深海生物でも拾ってきたの?」
「昨日、海溝の底の熱水噴出孔に突き刺さってた『白い根っこ』の切れ端よ」
私は瓶を持ち上げ、光にかざした。
私が瓶の向きをくるりと回しても、中の赤い血管網は、磁石の針みたいにズルズルとガラスの壁を滑って、必ず『北北東』の窓側へと先端を向け直す。
「根、ですか……? し、しかしアノマロ様、その繊維の収縮運動……植物ではなく、まるで生きている動物の血管のような……」
アイリスが銀縁メガネの奥の目を丸くして、一歩あとずさった。
「ええ。ただの植物じゃないわね。空気も水もない密閉した瓶の中で、一晩でここまで勝手に伸びて、しかも正確に『北北東』へ帰ろうとしてる」
カチリ。
私の頭上の本尊が、硬い音を立ててハサミを鳴らした。
「アイリス。予定通り、今日これから王都『エル・サンクタス』へ出るわよ。あんたが持ってる『中央大図書館・禁書庫』の閲覧権、さっそく使わせてもらうわ」
「は、はいっ! 馬車の準備はすでに整っております!」
「クロエも、それでいいわよね?」
私が振り返ると、クロエは瓶の中で北北東へ背伸びを続ける赤い糸をじっと見つめたあと、こくりと小さく頷いた。
「うん。……なんだか分からないけど、あっちに、行かなきゃいけない気がするから」
足元の【ガラスの靴】が、朝の光を弾いて静かに鳴った。




