第122話 深海のほたる火と、脈打つ白片。
内陸の『カルデラの涸れ谷』で、誰かさんが間欠泉と一緒に空の彼方へ打ち上げられていた頃。
水深五千メートル、海溝『海神の喉笛』の底では、塞がれていた熱水噴出孔の火口から、摂氏四百度の黒煙と黄金色の自然魔素が勢いよく噴き上がっていた。
温かい上昇流が、冷たい海溝の底へとぶわっと広がっていく。
すると――。
ぽわっ、ぽわぽわっ……。
「わぁ……っ。アノマロちゃん、見て……!」
背中のクロエが、キャノピーの中で小さく息を呑んだ。
熱と栄養を浴びた瞬間、岩陰でじっと休眠していた無数の発光バクテリアや深海のクラゲたちが、一斉に目を覚ましたのだ。
青、緑、淡いピンク。
一寸先も見えない漆黒の海底に、幾千もの小さな命の灯がぽつり、ぽつりと灯っていく。
「これが本来の熱水噴出孔よ。太陽の光なんか届かなくても、星の熱と化学反応だけで、命はこんなにキラキラ輝けるの☆」
私が指先で青い光の粒をそっと撫でると、頭上の本尊も静かに側葉を揺らした。
「すごいね……。お海の底に、ほたる火がいっぱい咲いたみたい……」
うっとりと見惚れるクロエ。
私は満足して頷き、ちぎれ飛んで岩盤の裂け目へとズルズル引っ込んでいく『白い根っこ』の残骸へ視線を戻した。
プツン、と。
引きちぎられた白い断面から、赤い火花のようなものが一度だけ弾け、そのまま岩の奥へと消えていく。
(……ふぅん。随分とまあ、しぶとい根っこね。一応、破片をひとつ拾っておきましょ)
私は海底の砂に落ちていた、小指ほどの『白い根っこの切れ端』をひょいと拾い上げ、スーツのポケットにしまい込んだ。
「よし、お掃除完了! 浮上するわよ、クロエ――って、あれ?」
振り返った私は、ピタリと動きを止めた。
背中に掴まっていたクロエが、まだ暗い岩盤の裂け目――白い根っこが引っ込んで消えた方角を、じっと見つめたまま固まっていたのだ。
その大きな琥珀色の瞳から、ツーッと一筋の涙がこぼれ落ちる。
「クロエ……? どうしたの、どこか痛む!?」
「……えっ? あ……う、ううん。痛くないよ」
クロエはハッと我に返り、自分の頬が濡れていることに驚いたように指先で涙を拭った。
「なんだろう……。急に、胸の奥がギュッて苦しくなって……。すごく暗くて冷たいところで、誰かが『痛いよ』って泣いた気がしたの……」
私の高性能な複眼ソナーにも、頭上の本尊の感覚毛にも、そんな音や振動はなにひとつ引っかかっていなかった。
ただ、静まり返った五千メートルの海底で、クロエの小さな心臓だけがトクン、トクンと速いリズムを刻んでいる。
「……気のせい、かな。ごめんね、アノマロちゃん。上へ帰ろう」
クロエは無理に笑ってみせたけれど、その小さな指先は、かすかに震えていた。
私は何も聞かず、耐圧スーツ越しにその冷えた手をそっと自分の両手で包み込んだ。
「ええ。帰ろっか、クロエ」
足元の玄武岩を静かに蹴る。
深海に咲いた無数のほたる火が、遠ざかる私たちの足元で、いつまでも優しく揺れていた。
***
浮上するにつれて、すべてを押し潰すようだった五百気圧の重みが少しずつ解けていく。
何も見えなかった漆黒の闇に、やがて深い群青色が混じり始めた。
水深八百メートル、五百メートル、二百メートル……。
頭上から、懐かしい太陽の光が幾筋ものカーテンのように差し込んでくる。私たちが海底を掃除したおかげか、潜るときには空っぽだった海中に、キラキラと銀色の鱗を光らせる小魚の群れがいくつもすれ違っていった。
そして――ザパァッ、と海面を割って顔を出した瞬間。
生体キャノピーがぷしゅっと弾けて消え、潮の香りとともに、燃えるような夕焼けの風が私たちの頬を撫でた。
「――あっ、いたぞぉぉっ! アノマロ様とクロエ様が戻られたぞぉぉッ!!」
少し離れた『白貝の防波堤広場』から、トム親方や漁師たちの歓声が波音を越えて響いてくる。岸壁には、私たちが中層から浮き袋バルーンで送り返しておいた巨大なチョウチンアンコウたちが引き揚げられ、街中から集まった人々で黒山の人だかりができていた。
「アノマロちゃん、みんなすごく喜んでるね……」
「ええ。でも、広場の大騒ぎはトム親方たちに任せておきましょ。……今日の私たちは、ちょっと潜りすぎてお腹ペコペコだもの」
まだどこか胸の奥に小さな影を残しているクロエの横顔を見て、私は一番大きなアンコウの肝と切り身だけを素早く切り出すと、賑わう防波堤から少し離れた海辺の宿へとクロエの手を引いた。
***
遠くから祭りのような港のざわめきと、寄せては返す穏やかな波の音が聞こえてくる。
宿の小さな海辺のテラスでは、ランプの灯りの下で、一つの土鍋がコトコトと優しい湯気を立てていた。
「へぇ、本当に水を一滴も入れないのね。アンコウの肝を鍋で炒って、味噌と練り合わせたところに、身と野菜を放り込んだだけじゃない」
大剣を壁に立てかけたエルザが、興味深そうに土鍋を覗き込む。
隣ではアイリスが、「深海魔物の高密度コラーゲンと肝臓脂質の熱乳化現象……っ」と小声で呟きながら羽ペンを走らせ、隅ではピンクエプロンのリックスが静かに取り皿を並べていた。
「これが本場の漁師料理【どぶ汁】よ☆ 水を入れない分、アンコウ自身の水分と濃厚な肝の脂だけで煮上がるの。ほらクロエ、一番いいところよ」
私が小鉢にドロリと黄金色のスープと白い身をよそって渡すと、少し張り詰めていたクロエの頬が、白い湯気の向こうでふわりと緩んだ。
「わぁ……いい匂い。いただきます……っ」
小さな両手で小鉢を包み、ふーふーと息を吹きかけてから、ぷるぷるの身とオレンジ色のあん肝を口へ運ぶ。
「――んんっ……! おいしい……。お汁がポタージュみたいに濃厚で、お口の中でとろけちゃう……」
濃厚なあん肝のコクと甘い焦がし味噌が、深海の冷気を残していた身体の芯までじんわりと染み渡っていく。
一杯、また一杯と小鉢を重ねるうちに、クロエの琥珀色の瞳にいつもの温かい光が戻ってきた。
そして、鍋が空になる頃には。
ポカポカに温まったクロエは、椅子の背もたれに頭を預け、安心しきったようにスースーと規則正しい寝息を立て始めていた。
「ふふ、深い海まで潜って疲れちゃったのね。ほらクロエ、ベッドに運んであげるわよ」
エルザが眠ってしまったクロエを壊れ物のように優しく抱き上げる。クロエの足元で、【ガラスの靴】が月明かりを反射して小さくシャラリと鳴った。
アイリスとリックスも片付けを手伝いながら部屋の中へと戻っていき、パタン、とガラス戸が閉まる。
話し声と温かい湯気が消え、夜のテラスに、私ひとりだけが残された。
ザザァ……、と。
暗い海から寄せる波の音だけが、やけに大きく耳に残る。
「…………」
潮風が、冷たく頬を撫でた。
私はランプの火が揺れるテーブルに頬杖をつき、脱いでおいたダイビングスーツのポケットから、さっき海底で拾ってきた『白い根っこの切れ端』をコロンと小皿の上に出した。
五千メートルの海底で拾ったときは、間違いなくただの硬い『白い木の根っこ』だったはずだ。
なのに。
――ドクンッ。
月明かりに照らされた白い小皿の上で、それは『白』ですらなかった。
乾燥した白い外皮がカサブタのようにドロリと剥がれ落ち、中からむき出しになっていたのは――生々しい毛細血管が網の目のように絡み合い、規則正しく収縮を繰り返す『真っ赤な肉塊』だったのだ。
(……なによ、これ。植物のフリをした……内臓?)
私が頭上の本尊の複眼を細め、前部付属肢の爪先でその赤い肉塊をツン、と突いた、その瞬間。
ジワァッ……。
肉塊の裂け目から、見覚えのある『黄金色の光――神聖魔力』が滲み出し、まるで小さな目玉のようにギョロリと私の指先を見上げた。




