第125話 六十五度の残り香と、すれ違いの白亜城壁。
『―― 100ml / 150ml / 200ml 』
指先でつまんだ透明なガラス片に、白い耐熱インクの目盛りがくっきりと並んでいた。
鼻を近づけると、焦げたイカの匂いの奥から、ふわっと甘くてほろ苦い香り――乳タンパク質が変性しないギリギリの『六十五度』で温められた、コーヒー牛乳の匂いがする。
「…………」
風が止まった『カルデラの涸れ谷』で、私は石像みたいに固まっていた。
頭上の本尊の複眼も、ピントが合ったままピクリとも動かない。
「アノマロちゃん……? どうしたの、そのガラス、なにか危ないものだった?」
クロエが心配そうに私の顔を覗き込む。
その後ろでは、エルザとアイリスが、地面にめり込んだ『人型の魚拓』を囲んで首をひねっていた。
「うーん、見事な刺さりっぷりね。間欠泉で空まで打ち上げられて、頭から真っ逆さまに落ちたってところかしら」
「ですがエルザ姉様、これほどの高圧熱水を浴びて、頭から岩盤に激突したのですよ? 普通なら即死のはずですが……見てください、この無様なのたうち回り方。無傷で立ち上がって、そのまま歩いて立ち去っています」
二人の会話を聞きながら、私の脳内のシナプスが、バチバチッと音を立てて繋がった。
(……ホウケイ酸ガラスのビーカー。六十五度のコーヒー牛乳。そして、四百度の海底熱水と水撃をモロに食らって、頭から地面に刺さっても死なない異常な耐久力……)
ひとりしかいない。
私の前世の生物部の部長にして、あのカンブリア・ダンジョン(ガラパゴス)を造り上げた張本人。
(創先輩……っ!? あんた、天界に引きこもってたんじゃなかったの!? なんで生身でこんなとこウロウロしてんのよ!?)
胸の奥が、ぶわっと熱くなった。
あの交通事故の日、燃え盛る炎の向こうから白衣を翻して走ってきた先輩。迷宮の夢の中で、私の頭を撫でて送り出してくれた先輩が、すぐ近くにいる!
……いや、ちょっと待って。
私は手の中のビーカーの破片と、地面に残された『犬神家みたいな人型の穴』を交互に見比べた。
(つまりあの人、私が昨日パールの海底でぶっ放したウォーターハンマーの逆流を、この何もない荒野でピンポイントに顔面から食らって、イカ臭い塩水と一緒に空へ打ち上げられたってこと……?)
さっきまでの感動が、三秒でスンッと冷めた。
相変わらず、カッコいいのかポンコツなのか分からない人だ!
「でも、この足跡……なんだか不思議ですね」
地面を調べていたアイリスが、銀縁メガネを押し上げて首を傾げた。
「アノマロ様の『赤い瓶』が指している親株の方角は【北北東】です。なのに、この穴から這い出た人物の足跡は……なぜか真逆の【南東】の崖へ向かって、ヨロヨロと遠ざかっていますよ?」
「…………は?」
私はガバッと地面の足跡に駆け寄った。
ほんとだ。泥の上に残されたスニーカーっぽい足跡が、見るからに生まれたての子鹿みたいな千鳥足で、見当違いの南東へ向かってトボトボと続いている。
しかも、一歩のストライド(歩幅)が信じられないほど狭い。筋肉が限界まで落ちきった、時速四キロ以下の頼りない足取りだ。
(あーっ!! あの極度の方向音痴先輩!! なんでせっかく同じ場所にいたのに、全力で逆方向に歩いていくかなァァァッ!!)
私はクレーターの縁で、両手で頭を抱えてしゃがみ込んだ。
「アノマロちゃん!? やっぱりお腹痛いの!?」
「……ううん、なんでもないわクロエ。ちょっと『とんでもない迷子』の生態に頭痛がしただけよ」
今から南東へ追いかける?
いや、あの神先輩のことだ、下手にあとを追ってもまた変なルートで入れ違うに決まっているし、そもそも四百度の熱水を浴びてピンピンしている人に命の心配はいらない。
それより今は、この地下で脈打つ『白い根っこ』の親玉と、クロエが涙を流したあの声の主を見つけるのが先決だ。
私は割れたビーカーの欠片を、宝物みたいにそっと自分のポケットへしまい込んだ。
「馬車に戻るわよ、みんな。……北北東へ、真っ直ぐ進むわ!」
***
――その頃。
『カルデラの涸れ谷』から南東へ数キロ外れた、何もない岩山のふもとにて。
「はぁ……はぁ……っ。お、おかしいね山”口ちゃん。あれだけ巨大なパイプラインの爆発があったんだ、この先に絶対なにかあるはずなのに……岩しか、ないよ……?」
干からびたイカの匂いが染み付いたヨレヨレの白衣を着て、上野創(神先輩)は岩陰にへたり込んでいた。
すると、天界のモニタールームから、氷のように冷ややかな山”口ちゃんの声が降ってきた。
『――告ぐ。創造神に悲報をお伝えします』
「ひ、悲報ってなんだい!?」
『つい十分前、貴方が頭から突き刺さっていたあのクレーターに、種田くんたちの馬車が到着しました』
ガタッ! と創が立ち上がる。
「な、なんだってぇ!? ほら見ろ、やっぱり僕の推論通りじゃないか! で、種田くんは!? 今どこに!?」
『貴方が「こっちが北だ!」と謎の自信で南東へ時速四キロで歩き去ったため、完全に入れ違いました。なお種田くんは、貴方の残した魚拓を見て「コントみたいな奴」と大爆笑したのち、割れたビーカーを拾って北北東の王都へと旅立ちました。お疲れ様でした』
「うそぉぉぉぉぉぉぉぉっ!?!? ちょっと山”口ちゃん、なんでその時に教えてくれなかったんだよぉぉっ!!」
『貴方が「僕の量子もつれの直感を信じろ、ナビは不要だ!」と通信をミュートにしていたからです。自業自得ですね。では、引き続き荒野の散歩をお楽しみください』
「待って、切らないで山”口ちゃぁぁぁん!! 僕のお気に入りのビーカー返してぇぇっ、待ってよ種田くぅぅぅん!!」
夕暮れの岩山に、引きこもり創造神のむなしい絶叫がこだました。
***
そんな迷子の叫びなど露知らず。
『カルデラの涸れ谷』を抜けた私たちの特注馬車は、急勾配の山道を駆け上がり、夕闇が迫る『アルビオン高地』の頂へと差し掛かっていた。
「――見えてきましたよ、クロエ様、アノマロ様」
アイリスの声に、私とクロエは馬車の窓から外を見上げた。
茜色の空を切り裂くようにそびえ立つ、見上げるほど巨大な白亜の三重城壁。
その中心、街のどこからでも見える一番高い丘の上に、天を突くような『純白の大聖堂』と、その屋根を突き破るようにして枝を広げる、不気味なほど巨大な【白い大樹】のシルエットが浮かび上がっていた。
神聖グランドリア王国の首都――王都『エル・サンクタス』。
「すごい……。お城も、壁も、ぜんぶ真っ白だね……」
クロエがぽつりと呟いた、その瞬間だった。
ガタガタガタガタッ!!
丸テーブルの上のスパイスの空き瓶が、まるで内側からハンマーで殴られたみたいに激しく跳ね上がった。
瓶の中の赤い毛細血管が、沸騰したようにブクブクと泡立ちながら膨張し、ミシリ、と分厚いガラス瓶に一筋の亀裂を走らせる。
「っ!? ちょ、この肉片、外に出ようとしてるわ!」
私が咄嗟に瓶を生体ポリマーでグルグル巻きにして押さえ込んだ、まさにその時。
――ドクンッ。
馬車の床板の下。
いいえ、白亜の城壁がそびえる大地のはるか深い底から、地鳴りのような『巨大な心音』がひとつ、重たく響き渡った。
シャラァンッ……!
隣に座っていたクロエの両足――私自身の組織で作った【ガラスの靴(生体義甲)】が、その地下の心音に呼応して、ひとりでに淡い黄金色の火花を散らした。
「……っ、あ……っ!」
「クロエ!?」
クロエが胸元を強く握りしめ、シートの上に前のめりに倒れ込む。
私が抱きとめた彼女の小さな身体は、まるで熱いお湯に浸かったみたいにカッと火照り、その琥珀色の瞳が、白亜の城壁の『足元の地下』だけを吸い寄せられるように見つめていた。
「アノマロ、ちゃん……。いるよ……っ」
荒い息を吐きながら、クロエが震える指先で、美しい白亜の都の地面を指差した。
「この下の、すごく深くて暗いところで……あの子が、鎖に繋がれて、泣いてる……っ!」




