第120話 五百気圧の死角なし!深海アンコウは鍋の具です☆
ザパァァァンッ!!
防波堤から飛び込んだ私たちを、パールの海がひんやりと包み込んだ。
昨日から食べまくったあの巨大イカの耐圧成分(TMAO)と高密度ポリマーを編み上げた、虹色の生体耐圧スーツ。そいつが海水の抵抗をツルンと滑らかに受け流していく。
私はクロエの小さな手をぎゅっと握り、沖合にぽっかりと口を開けた海溝『海神の喉笛』へと真っ直ぐに潜り始めた。
『わぁ……! アノマロちゃん、すごいよ! お水の中なのに耳がキーンってしないし、お部屋にいるみたいに息がしやすいよ!』
骨伝導スピーカーとパスを通じて、クロエの弾む声が脳内に直接響く。
透明な球体キャノピーの中で、琥珀色の瞳がキラキラと輝いていた。
「ふふん、当然よ☆ 外の重たい水圧はTMAOの分子構造が全部ブロックしてくれてるし、スーツの中は私の酵素リアクターで常に一気圧の優しい酸素を循環させてるからね!」
『てぃーえむ……こうそ……? えへへ、やっぱりアノマロちゃんの魔法の呪文はすごいなぁ!』
(魔法じゃなくてガチの生化学だってば! ……ま、可愛いからいいけど☆)
水深百メートル、二百メートル……。
深く潜るにつれて、頭上のエメラルドグリーンの光がみるみる色を失っていく。
「水っていうのはね、太陽の光の中でも波長の長い『赤』や『オレンジ』から順番に吸収しちゃうの。だから深い海は青い光だけになって……ほら、ここから先は植物プランクトンも光合成できない薄暗い世界、『トワイライト・ゾーン(漸深海帯)』よ」
『ほんとだ……。だんだんお空が遠くなって、夜の森みたいになってきたね……』
水深五百メートル、八百メートル。
そして水深千メートルを突破した瞬間――太陽の光は一粒たりとも届かない、完全なる漆黒の闇『無光層』へと突入した。
水温、摂氏二度。水圧、百気圧超え。
指先ひとつに百キロ以上の重さがのしかかる極限の世界だけど、私たちのスーツの中はポカポカと快適なままだ。
――でも。
暗闇へ複眼のソナーを広げた私は、ピタリと眉をひそめた。
(……おかしいわね。いくらなんでも、海の中が『空っぽ』すぎる)
地球の深海と同じなら、表層からプランクトンの死骸や有機物の粒――『マリンスノー(海の雪)』が絶えずしんしんと降り注いでいるはずなのだ。
なのに、わずかに漂う有機物も自然魔素も、重力に従って沈んでいるんじゃない。海溝の底から響く『ゴォォォ……ズズズ……ッ』という不気味な重低音に向かって、掃除機で吸われるみたいに猛スピードで引きずり込まれている。
「海溝の底の何かが、魔素だけじゃなくて深海生物のご飯になる『マリンスノー』まで根こそぎ奪ってるわ……。これじゃ海の底の生き物、みんな餓死しちゃう」
『まりん、すのー……? お海の中に、雪が降るの?』
「あ、えっとね、上から落ちてくる小さな生き物の欠片とか、栄養の粒のことよ! それが全部どこかに吸い込まれちゃってるの」
『ひどい……。お海の底のお魚さんたちのご飯まで、全部取っちゃうなんて……』
クロエが悲しそうに胸を押さえた、その時だった。
――ぽわぁっ……。
一寸先も見えない漆黒の闇に、淡く揺れる『青白い光の玉』が浮かび上がった。
ひとつじゃない。右にも、左にも、頭上にも。
まるで深海に咲くランタンみたいに、数十個の青い光がゆらゆらと弧を描いて私たちを取り囲んでいく。
『あっ! 見て、アノマロちゃん! 暗いお海に、綺麗なちょうちんのお魚さんがいるよ!』
「――ダメよクロエ、近づかないで! あれはただの『疑似餌』よ!」
私はクロエの華奢な肩をグッと引き寄せた。
頭上の私が、海水を伝わる生臭いアンモニア臭と殺意の微振動をキャッチして触角を逆立てる。
ゆらゆら揺れる青い光の、わずか一メートル後ろ。
光が届かない完全な暗闇の死角で、体長三メートルを超えるブヨブヨの巨体が、自分の身体よりデカい顎をガパァッ! と開いて待ち構えていたのだ。
(なによあのブサイクな巨大魔物、異世界の固有種!? ……いや、待てよ。背びれが変形した発光アンテナに、極端にデカい口、それにこのアンモニア臭……これ、ボディプランはどう見ても地球の『チョウチンアンコウ』そのものじゃん!)
『グ、グォォォォォッ!!』
先頭の一頭が、提灯を揺らしながら無音で突っ込んできた。
内側に反り返ったガラスみたいな無数の牙が、頭上の死角からクロエへ襲いかかる。
「暗闇に紛れて死角から奇襲したつもり!? 構造が地球の深海魚と同じなら、攻略法もまるっと同じなのよ!」
私はクロエを抱き寄せたまま、アバターの頭部と本尊の複眼をナノ秒単位で書き換えた。
「深海魚『デメニギス』の【透明頭部&管状眼】、プラス――『ワニトカゲギス』の【赤色生物発光レーザー】、ダブル起動よ☆」
パァァァッ……!!
私の両目と頭上の本尊から、漆黒の海を切り裂く『真紅のスポットライト』が扇状に照射された。
「いい? 太陽の赤い光が届かない深海の生き物はね、青い光しか見えないように網膜が特化しちゃってるの! つまり波長の長い『赤い光』は、あいつらにとって一ミリも認識できない『透明な光』! 一方的にこっちからだけ丸見えになる、深海スナイパーの暗視スコープってわけよ☆」
案の定、チョウチンアンコウモドキたちは、自分たちのドス黒い巨体が赤いライトで昼間みたいにクッキリ照らし出されていることにも気づいていない。「えっ、なんで暗闇でバレてんの!?」と言わんばかりの間の抜けた顔で、そのまま真っ直ぐ突っ込んでくる。
『すごい……! 赤い光で見たら、ちょうちんの後ろに大きなお口が見えるよ! アノマロちゃん、真上から三匹、右下から二匹が一緒にお口を開けて来てる!』
「ナイス索敵、クロエ☆ しかも今の私の頭は、頭頂部を透明化して真上の死角を丸見えにする『デメニギス仕様』! 全方位ロックオン済みよ!」
飢えた五頭のアンコウ魔物が、海水ごと私たちを丸呑みにしようと大口を開いた瞬間。
「それにね! こういう深海の待ち伏せ型は、基礎代謝をケチるために骨はスカスカ、筋肉は水分だらけの『水ぶくれ構造』に決まってるの! 一瞬の吸い込み以外の持久力はゼロ! ――なら、その開いた大口に高圧の海水を逆流させてあげるわ☆」
私は右腕のシャコ・ハンマーを構え、五頭の大口のど真ん中へ音速のキャビテーション打撃を叩き込んだ。
ボゥッ!! ズドドドドドッ!!
『グ、グギャアアアッ!?』
仮説は見事にビンゴ!
指向性の衝撃波が、開いた口から無防備な胃袋へダイレクトに逆流し、アンコウ魔物たちは水風船みたいにお腹をパンパンに膨らませて、五頭まとめて目を白黒させながらぷかぷかと裏返った。
「はい、一丁上がり☆ せっかくの高級食材だもの、外皮に傷をつけずに内側から気絶させないとね!」
『わぁぁ、プカプカ浮いちゃった! ねえアノマロちゃん、このブヨブヨした大きな魔物、お顔はすっごく怖いけど……食べられるの? 港の漁師さんたちも、深海の魔物は毒があるかもって怖がってたよ?』
「ふっふっふ、よくぞ聞いてくれました! 私の化学受容体スキャンによれば、毒どころか極上の栄養の塊よ! こういうアンコウ系の深海魚といえば、コラーゲンたっぷりの白身はもちろん、極寒の深海を生き抜くために極上の脂質を限界まで溜め込んだ『巨大な肝臓(あん肝)』! 捨てるところが骨しかない吊るし切りの王様にして、海のフォアグラよ! あとで港に戻って味噌仕立ての『どぶ汁鍋』にしたら、ほっぺたが海溝の底まで落ちるわよ☆」
『あ、あんきも……? ふぉあぐら……? どぶじる……!?』
クロエが透明キャノピーの中で、目を白黒させて固まった。
『ど、泥水のお汁なの!? アノマロちゃん、お腹こわしちゃうよぉ……!』
「泥水じゃないわよ! 水を一滴も使わずに、アンコウから出る水分と濃厚な肝の脂だけで煮込む、漁師料理の最高峰の名前よ! まあ見てなさい、一口食べたら昇天するから☆」
『そ、そうなんだ……! アノマロちゃんが言うなら、きっとすごく美味しいお鍋なんだね……っ! じゅるり……』
水深三千メートルの暗黒領域で、よく分からないままお腹を鳴らすクロエと私。
私は気絶したアンコウ魔物たちを生体ポリマーの網で手際よくまとめると、ワックスエステル(水より軽い脂)を詰めた浮き袋バルーンを取り付けて、海面で待つトム親方たちの元へと送り返した。
そこからさらに潜ること十数分。
水深四千メートルを過ぎ、五千メートルの大台へ迫ったその時――足元の暗闇が、不気味な『赤と白』に照らし出された。
――ゴォォォォ……ドクンッ、ドクンッ……!!
「……着いたわよ、クロエ。水深五千メートル、水圧『五百気圧』の海溝最深部よ」
私たちはゴツゴツとした黒い玄武岩の海底へ静かに降り立った。
目の前にそびえ立つのは、煙突みたいに隆起した岩石の塔から、摂氏四百度を超える黒い熱水を噴き上げる巨大な『深海熱水噴出孔』。
だけど、その生命誕生の聖地である火口には――北の大陸(王都の方角)の地底から岩盤をぶち抜いて伸びてきた、おぞましいほど巨大な『白い神樹の根』が幾重にも絡みつき、火口を完全に塞いでいたのだ。
白い根の表面には教会の幾何学紋様が脈打ち、ドクンドクンと音を立てながら、熱水噴出孔の熱エネルギーとミネラル、そして海の魔素を根こそぎ吸い上げ続けている。
『あれが……お海の元気を全部吸い取ってた、悪い根っこ……?』
「ええ。地球で最初の生命が生まれ、私自身もプランクトン時代に最初の進化を遂げた一番大切な聖地(熱水噴出孔)に……よくもまあ、こんな違法ストローを突き刺してカツアゲしてくれたわね」
私の複眼が、氷のように冷たく細められる。
だが、一歩踏み出そうとした瞬間。
――ガシャコンッ、ガシャガシャガシャッ!!
白い根の隙間や黒い岩陰から、鈍い金属光を放つ『無数の甲殻の群れ』が這い出し、私たちの前に立ち塞がった。




