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第119話 五百気圧へのダイブ準備☆

「親方ァ! 第二陣の荷馬車五十台も積み込み完了だぜ!」


「よし、残ったイカゲソとエンペラは全部鉄板にぶち込め! 街のガキどもに腹いっぱい食わせてやれぇっ!」


 港塞都市パールの防波堤広場は、香ばしい焦がし醤油の匂いと、活気あふれる怒号に包まれていた。


 悪徳代官ボルドーたちがしょっ引かれていった市場では、差し押さえられた塩庫の塩と、鎧大烏賊(アーマード・スクイッド)の切り落としを使った『大イカ焼き祭り』が絶賛開催中である。


「はぁ、はぁ……っ! はい次の方、特上氷温熟成イカの卸売伝票はこちらです! 金貨の計量ヨシ、封印ヨシ! うわぁぁん!」


 木箱を積んだだけの仮設カウンターで涙目になりながら羽ペンを走らせているリックスを尻目に、私(アノマロちゃん)は防波堤の突端に立ち、ひとり沖合の海面を見つめていた。


 キラキラと朝の光を反射するエメラルドグリーンの海。

 だが、私の頭上に鎮座する本尊の『感覚毛』と『側線ソナー』には、港の歓声とはまったく別の、重苦しい低周波がビリビリと伝わってきていた。


 ――ゴォォォォ……ズズズズ……ッ。


 潮の満ち引きではない。

 沖合にぽっかりと口を開けた『深海海溝』の底、水深五千メートル付近から、海中の魔素(マナ)と栄養塩を北の内陸へ向けて根こそぎ吸い上げ続けている、巨大なストローのような吸引音だ。


(……昨日の夜光虫たちの悲鳴も、鎧大烏賊たちが浅瀬へパニックになって逃げてきたのも、全部あの海底の吸引源が原因ね)


 いくらスラリーアイスで物流革命を起こしても、海の基礎生産力そのものを吸い尽くされたら、数ヶ月でパールの海は完全な死の海になる。元凶の栓(バルブ)を物理的にぶっこ抜かない限り、本当の解決にはならない。


「アノマロちゃん?」


 トコトコと、後ろから軽やかな【ガラスの靴】の音が近づいてきた。

 振り返ると、両手に焼きたてのイカゲソ串を持ったクロエが、琥珀色の瞳を心配そうに揺らして私を見上げていた。


「さっきから、ずっとお海の遠くを見てるね。……もしかして、お海が泣いてるの、まだ止まってないの?」


「……うん。さすが私の名テイマー、よく気づいたわね☆」


 私は笑顔を作ってクロエからイカ串を受け取り、パクッと一口かじった。プリプリの弾力とタウリンの旨味が口いっぱいに広がる。

 ごくん、と飲み込んでから、私は努めて明るい声で言った。


「あの沖のずーっと深い海の底に、海の栄養をチューチュー盗んでる悪いやつがあるみたいなの。だから私、ちょっとひとっ飛びして、その装置をぶっ壊してこようと思って☆」


「そっか! じゃあ、私もすぐに準備するね!」


「――ううん。クロエはここで、エルザやアイリスと一緒に美味しいイカを食べて待ってて」


 私の言葉に、クロエが「えっ?」と瞬きをして足を止めた。


「……どうして? いつも、どこへ行くのも一緒だったのに」


「だって、今回潜るのは『水深五千メートル』の超深海よ? 光は一ミリも届かないし、水温は氷みたいに冷たい摂氏二度。しかも水圧は『五百気圧』――指先ひとつの面積に、大型の荷馬車がドカンと乗っかるのと同じだけの重さが、全方位から押し潰してくる極限の世界なの! だから、今回だけは私一人で――」


 まくし立てるように説明していた、その時だった。

 ぎゅっ、と。

 クロエの小さな両手が、私の右手をそっと包み込んだ。


「……あっ」


「アノマロちゃん。……指先、震えてるよ」


 指摘されて初めて、私は自分のアバターの指先が、小刻みにカタカタと震えていたことに気がついた。


(……あ、やば。自律神経のフィードバックがバグってる……)


 違う。深海の水圧が怖いんじゃない。カンブリア紀の海を生き抜いた私にとって、海はホームグラウンドだ。


 私が本当に怖かったのは――。


 脳裏に、一瞬だけ『真っ白な閃光』がフラッシュバックした。

 凍りついたギルドの石畳。私を庇って両手を広げ、ひび割れた頬から血を流しながら『逃げて』と微笑み、私のハサミの先からサラサラと砂のように崩れて消えてしまった、あの日のクロエの姿。


(また、私のせいでクロエを危険な場所に連れていって……もし五百気圧の海の底で、私の計算がコンマ一秒でも狂ったら。また、この温かい手が消えちゃったら……!)


 前の世界線での喪失のトラウマが、私の思考回路にブレーキをかけていたのだ。

 言葉に詰まって俯いた私を、クロエは責めなかった。ただ、私の震える指先を自分の胸元へと引き寄せ、トクン、トクンと規則正しく鳴る温かい鼓動に触れさせてくれた。


「ねえ、アノマロちゃん。私、ときどき怖い夢を見るの。白い光の中で、アノマロちゃんを一人ぼっちにして消えちゃう夢」


「……ッ、クロエ……」


「だからね、アノマロちゃんが私を心配して、守ろうとしてくれてるのはすっごく分かるよ。……でも、私を置いていかないで」


 クロエは一歩踏み出し、私と額が触れ合うほどの距離で、澄み切った琥珀色の瞳を真っ直ぐに向けてきた。


「だって、私が隣でいっぱい深呼吸してあげないと、冷たい海の底でアノマロちゃんのお腹が減っちゃうでしょ? アノマロちゃんが凍えちゃうのは、絶対イヤだよ」


「それは……」


 そう、クロエの呼吸と鼓動は、私の生命活動(ATP)を回す無尽蔵のエネルギー源そのものだ。距離が五千メートルも離れたら、エンパシーパスの供給効率はガタ落ちになる。


「怖い時は、二人で半分こしようよ。……私たちは、いつだって『騎士様とお姫様』なんでしょ?」


 ――ああ、もう。ほんっと、敵わないな、この子には。

 前の世界線で私を庇ってくれたあの日の勇気は、今のクロエの魂にも、ちゃんと変わらずに息づいている。

 私が勝手に『守られるだけのか弱いお姫様』扱いしてどうするんだ。クロエは私の背中を預ける、世界でたった一人の相棒(バディ)じゃないか。


「……ふふっ。そうね、私の計算ミスだったわ!」


 私は震えの止まった手でクロエの頬をむぎゅっと挟み、パステルカラーのツインテールを揺らして不敵に笑った。


「いいわ、二人で行きましょう! どんな極限の深海だろうと、私の『ガチ生化学ハック』で、クロエの髪の毛一本たりとも水圧に触れさせないんだから☆」


「うんっ! ありがとう、アノマロちゃん!」


 そこへ、広場での指揮を終えたエルザとアイリスが歩いてきた。


「話は見えたわよ。要するに、沖の海底にある『元凶』を叩きに行くってわけね?」


「ええ。大剣を振り回すしか能のない脳筋ゴリラは、陸上での港の警備と物流の護衛をお願いね☆」


「誰が脳筋ゴリラよ! ……ま、海の底じゃアタシの剣は振れないからね。クロエに擦り傷ひとつでも作ったら、承知しないわよ!」


 エルザが大剣の柄をポンと叩いて笑う。

 その隣で、アイリスが銀縁メガネをクイッと押し上げ、分厚いギルドの教本メモを胸に抱えて一歩前に出た。


「あ、あのっ、アノマロ様! ギルドの新人研修で丸暗記した『危険海域マニュアル』によれば、あの海溝は『海神の喉笛』と呼ばれる特級危険指定区域です! 水深五千メートルとなれば、ドワーフの鋼鉄潜水鐘ですら水圧でペシャンコに潰れるため、いかなる冒険者も潜航禁止と規定されていますが……何か勝算がおありなのでしょうか!?」


「ふっふっふ! よくぞ聞いてくれました、新人受付嬢のアイリスちゃん!」


 私は待ってましたとばかりに胸を張り、足元の木箱に積まれていた『深海王烏賊(ロード・クラーケン)』の分厚い切り身を指差した。


「いい? 普通の生物が五百気圧の世界に潜ったら、肺が潰れるだけじゃないの。細胞の中の『水分子』が超高圧で無理やり押し込められて、生命を維持するタンパク質そのものがグチャグチャに壊れる『圧力変性』を起こして死んじゃうわ!」


「た、たんぱくしつのあつりょくへんせい……!? す、すみません、ギルドの教本には載っていない言葉ですが……つまり、外から押し潰されるだけでなく、お肉の中身そのものが水の重みで固まってしまうということですか!?」


「そう! でもね、さっき私たちが美味しくいただいたこの『深海王烏賊』たちは、なぜ五百気圧の深海でもタンパク質が壊れずにスイスイ泳げると思う?」


 私が問いかけると、クロエが小首を傾げた。


「えっと……気合?」


「気合で五百気圧に勝てたらダーウィン先生が泣くわよ! 正解はね、このイカたちの細胞にたっぷり含まれている天然の耐圧物質――【TMAO(トリメチルアミンオキシド)】よ☆」


 イカやタラを干物にした時に出る、あの独特の旨味と匂いの元になる有機化合物だ。

 私はアバターの両手を広げ、昨日からイカを大量に捕食・解析して体内にストックしていた生化学プラントをフル稼働させた。


「深海生物はね、水深が深くなるほど、細胞内にこの『TMAO』を高濃度で溜め込んでるの! こいつが細胞内の水分子同士の結合をガッチリ補強して『見えない分子のジャングルジム』を作ることで、五百気圧の超高圧がかかってもタンパク質が潰れるのを化学的にブロックしてくれるってわけ!」


 シュゴォォォ……ッ!


 私の体表から、高濃度のTMAOと、アシッドスライム由来の高密度ポリマー、さらに深海イカの衝撃硬化(ダイラタンシー)粘液をハイブリッド合成した、半透明で虹色に輝く『生体耐圧ジェル』が溢れ出した。


 虹色のジェルは瞬く間に私とクロエの全身を包み込み、水着の上からピタリとフィットする流線型の『バイオダイビングスーツ』へと成形されていく。頭部には透明な球体ゲルキャノピーが形成され、視界も地上とまったく変わらない。


「わぁ、ぷにぷにしてて温かいのに、全然重くないよ! 息も全然苦しくないね!」


「ふふっ、五百気圧で普通の空気を吸うと『急性酸素中毒』で脳が痙攣しちゃうからね! スーツの中では、私の酵素(カタラーゼ)で過酸化水素をリアルタイム分解して、常に一気圧相当の優しい酸素だけを循環させてるのよ☆」


「あぁぁ……っ! さっきまで鉄板で焼いていたイカの成分をその場で再構築し、水圧と呼吸の課題を同時にクリアする『第二の外皮』へと編み上げてしまうなんて……ッ! しかもお二人の身体に一ミリの隙間もなく密着したその流線型のライン……! ギルドのどの魔物図鑑にも載っていない、究極の機能美ですぅぅ……ッ! ハァ、ハァ……っ、はっ!? す、すみません、新人の分際でまた取り乱しました、でも尊すぎてメガネが曇って前が見えません……ッ!」


 真っ白に曇った銀縁メガネを押さえてプルプルと震えるアイリスに、クロエが苦笑しながら手を振る。


「これなら海の底でも、アノマロちゃんと普通におしゃべりできるね!」


「ええ、エンパシーパスと骨伝導スピーカーが直結してるからね☆ ――さあ、準備は完了よ!」


 私はクロエの小さな手を、耐圧スーツ越しにぎゅっと力強く握りしめた。

 もう、指先は一ミリも震えていない。


 私の胸の奥では、ピカちゃんから受け継いだ強靭な『竜の背骨』がパステルブルーの熱を帯びて温かく脈打ち――まるで『おねえさまの背中は、ぼくが守るのです!』と背中を押してくれるかのように、頼もしい鼓動を返してくれる。

 私の中で共に生きる最高の相棒(ピカちゃん)と、隣で無限のエネルギーを注ぎ込んでくれる最愛の撫子(クロエ)。三人でひとつになった今の私たちに、潜れない深淵なんてない!


「行ってくるわね、エルザ、アイリス! 海の底に巣食う不法投棄パイプライン、私とクロエで木っ端微塵にデバッグしてくるわよ☆」


「うんっ! いってきます!」


 エルザとアイリス、そして港の漁師たちに見送られながら、私とクロエは防波堤の先端から、群青色に深まる沖合の海へと勢いよく飛び込んだ。

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