第116話 撫子の逆鱗に触れたわね……?
「ひ、退けーッ! 術士隊、第三階梯・サーマル・バースト放てぇぇッ!」
防波堤駐屯隊長ロルフの怒号が、砕け散る石材の音にかき消された。
朝の海面を黒く埋め尽くす異形の群れ――深海の固有魔物『鎧大烏賊』。その中心には、城塞のごとき親個体『深海王烏賊』がそびえ立っている。
放たれた数十の灼熱弾。だが――バリバリバリッ!!
鏡面甲殻が紫色の火花を散らし、乱反射した熱量弾が防波堤の騎士たち自身の頭上へと降り注いだ。
「ぐああぁぁッ!?」
「ま、魔法が跳ね返っただと……!?」
爆炎と黒煙の中、防衛線が瓦解する。
海面から飛び出した一頭の鎧大烏賊が、逃げ遅れたロルフ隊長へ向かって丸太のような触手を振り下ろした。
「隊長ッ!?」
「――やらせるかよォッ!!」
ガァァァンッ!!
砂煙を上げて割り込んだエルザが、背中の大剣で触手の一撃を正面から受け止めた。足元の石畳が蜘蛛の巣状に砕け散る。エルザが渾身の力で大剣を振り抜き、甲殻へ刃を叩き込んだ――だが。
カァァァンッ!! と鈍い金属音を立てて、大剣の刃が弾き返された。
「ちぃっ、なんて硬さだい! 手首が痺れたわよ!」
「……た、ただの群れではありません! ギルドの魔物生態教本によれば、極度のストレスで体表の防御粘液が異常変質しています! 高密度の帯電粘液と複合外殻が重なって、外からの魔力干渉を完全に散乱してしまっています!」
アイリスが冷静に銀縁メガネを押し上げる。
私はツインテールを揺らし、エルザの隣へと滑り込んだ。
「ストップよ、エルザ! 脳筋の力任せで殴ったら大惨事なんですけど!」
「なっ……!? どういうことよ、アノマロちゃん!」
「いい? あの甲殻は地球の古生物でいう『直殻類』に近い外殻頭足類の進化形じゃん! しかも深海の水圧に耐えるため、内部に非ニュートン流体の衝撃吸収層を持ってるの! 強い衝撃を与えれば与えるほど粒子が密集して硬化する『剪断増粘装甲』なんだから、力任せに斬っても刃が砕けるだけよ! そもそも本来は深海で単独生活を送るはずの大型頭足類が、エネルギー収支を無視して何百頭も浅瀬に密集してるなんて異常すぎるわ! 海底のマナ循環が破綻して生息域を追われ、過密ストレスによる『相変異(狂暴化)』を起こして上へ逃げてきてるってわけね!」
「い、息継ぎなしでよく喋るわねぇ! で、どうするってのよ!?」
「ふっふっふ! 決まってるじゃない☆」
私は荒れ狂う海面を見下ろし、足元のアバター組織を滑らかな生体高分子ゲルへと高速変換した。摩擦係数、ゼロ!
瞬間、アイリスのメガネが「カッ!」と怪しく光る。
「あぁ……っ! 水中戦闘に向けて、アノマロ様の外皮が一瞬で水棲竜すら凌駕する極限の流線型へと変貌していく……ッ! 水の抵抗を完全に無効化するその特殊粘液の分泌機構、まさに水中運動の覇者たるなんという機能美……! ギルドの教本すら凌駕する、生体構造の究極系ですぅぅ……ッ! ハァ、ハァ……ッ!」
「あ、アイリスさん、息が荒いよ……だ、大丈夫……?」
クロエがおろおろと背中をさすっている。
限界構造オタク(アイリス)はスルーして、私はクロエへウインクを飛ばした。
「大丈夫よ、クロエ☆ 魔法対策しかしてこなかったバグ生物に、偉大なるダーウィン先生と地球四十六億年の進化の歴史を叩き込んでくるわ! すぐに終わらせて、美味しいイカの調理に入るからねーっ!」
私は防波堤の縁を蹴り、海へと真っ逆さまに飛び込んだ。
ドパーンッ!!
――音が、消えた。
冷たい水圧の中、親個体と三百頭の複眼が一斉に私を捉える。
ドゴォォォッ!! 前方の三十頭が漏斗から超高圧の水流ジェットを噴射し、生きた魚雷となって突撃してきた。
(はぁ? 水流ジェットをナメるなよォォ! 水という流体はね、空気の八百倍の密度があるんですけど! 体表から生体高分子ポリマーを溶出して『トムズの抵抗減少効果』発動! 周囲の海水の粘性摩擦をゼロに書き換えてやるわ!)
私は海底の岩盤を蹴り、真正面から群れへ突っ込んだ。
迫る一本目の触手を鼻先数ミリで躱す。二本目、三本目――無数の触手が海水をかき回して発生した乱流『カルマン渦』に足を乗せ、水流のベクトルをサーフィンのように乗り継いで、群れの網の目を音速に近い速度ですり抜けた。
(余裕じゃん! このままベルヌーイの定理で、奥にいる親個体の懐へ一気に吸い込まれ――)
その時だった。
ブシュウウウウウッ!!
周囲を取り囲んでいた数十頭の鎧大烏賊が、突如として漏斗から『ドス黒い塊』を一斉に噴射したのだ。視界が一瞬にして漆黒の闇に塗り潰される。
(なっ……イカ墨!? ちょ、待っ……これただの墨じゃないわ!!)
ドロリ、と周囲の海水が重油かゼリーのように重く粘りついた。高濃度のムチン(粘液タンパク質)を含んだ『粘性トラップ墨』だ!
キュルルルルッ……ピタリ!
海水の動粘度が跳ね上がり、計算していたレイノルズ数と流体ベクトルが強制的に狂わされる。スリップストリームが消失し、黒い泥のような海中で急ブレーキをかけられた。
「しまっ――!?」
その一瞬の硬直を、深海の捕食者は逃さなかった。
ゴォォォォッ!! 漆黒の墨の幕を突き破り、親個体『深海王烏賊』の鋼鉄の鉤爪を備えた二本の巨大な触腕が、死角から超音速で迫る。
ガシィィィィンッ!!
二本の触腕が私の身体を上下から万力のように挟み込み、そのまま海底の岩盤へと猛烈な勢いで叩きつけた。
ドゴォォォォンッ!!
海面まで巨大な水柱が噴き上がり、防波堤が大きく揺れる。
「アノマロちゃんッ!?」
「海が真っ黒な墨で染まって……あの子が見えなくなったぞ!?」
「ま、まさか、あの親玉の触腕に捕まって海底へ引きずり込まれたのか……!?」
防波堤の上でクロエの悲痛な叫びが響き、ロルフ隊長とトム親方の顔から血の気が引く。真っ黒に濁った海面は、不気味なほど静まり返っていた。
――その頃。水深三十メートルの海底。
ギリギリギリ……ッ!! と岩盤に押しつけられた親個体の触腕が、数千トンの握力で獲物をすり潰そうと締め上げていた。
だが。チュルン、と。
「――あーびっくりした! いきなり流体の粘性係数を書き換えるなんて、イカ墨のくせに生意気なんですけど!」
私は親個体の触腕の真上――まさに奴の眉間のど真ん中に、無傷でちょこんと立っていた。
触腕が握り潰していたのは、私が緊急パージ(脱皮)した『高密度ポリマーの抜け殻』だけ。ヌタウナギの粘液防御を応用し、掴まれた瞬間に体表のゲル層だけを膨張させてスルリと抜け出したのだ。
(危ないところだったわね……。でもおかげで、この親玉の『一番美味しい急所』の真上に、ゼロ距離で密着できたじゃん☆)
ギョロリ、と親個体の巨大な複眼が驚愕に見開かれる。遅い。もう逃げられないわよ。
(暴れさせて筋肉のATPを消費させるわけにはいかないわ! 死後硬直を遅らせ、イノシン酸と遊離アミノ酸(旨味)を最大化する! 狙うは背側の中枢神経――『巨大軸索』ただ一点! ダイラタンシー装甲の粒子が固まるより速く、純粋な『圧力波』だけを透過させるわよ!)
カチャリ。右腕の外殻が、シャコ由来の『重層双曲面スプリング構造』へ変形する。
グググググ……ッ!! と筋肉を収縮させ、ラチェット固定。この鬱陶しい高粘度のイカ墨の海ごと吹き飛ばすため、弾性エネルギーを限界突破まで充填する!
――充填率、200%突破!
「私の計算を狂わせたお仕置きよ! くらえ物理法則の鉄槌――【超音速活け締め(キャビテーション・パージ)】よぉぉぉっ☆」
カチリ。解放。
右腕が音速を超え――親個体の甲殻の一ミリ手前でピタリと止まった。
ボゥッ!! ズバァァァァァンッ!!
引き裂かれた海水が『真空の気泡』を生み、一万分の一秒で圧壊する。
数千度の発光プラズマと、数万気圧のマイクロジェット衝撃波が炸裂した。衝撃波は親個体の巨大軸索を粉々に吹き飛ばしただけでは止まらず、海全体を覆っていた真っ黒なイカ墨をドーム状に跡形もなく吹き飛ばした!
ピクリ、と親個体の全身から力が抜け、体表がパッと白く透き通る。
(よし! 色素胞が収縮して、神経が完璧に締まった証拠じゃん☆ ――さあ、反撃のラッシュいくわよ!)
私は浮き上がる親個体の甲殻を思い切り蹴り飛ばした。作用・反作用の法則で、私の身体は水中を走る青白い徹甲弾となって跳ね返る。
(墨が晴れて目が眩んでる残り三百頭、ピンボールみたいに弾性衝突で跳び回って、鮮度を保ったまま一括処理(バッチ処理)よーっ!)
ズバァンッ! ドゴォンッ! ズバババババババッ!!
一体目の首根っこへキャビテーション拳を叩き込み、その反動で二体目、三体目の死角へ回り込んで連続で衝撃波を撃ち込んでいく。
防波堤の上では、クロエたちの目の前の海面が突如として青白く発光した。
「な……なんだ!? 真っ黒だった海が、内側から青く光って……!?」
ドゴォォォォンッ!!
海面が大きく盛り上がり、黒い墨の濁流が空高く吹き飛んだ。その中心から、朝日を浴びて輝く水飛沫とともに、私が空高く宙返りして防波堤の縁へと華麗に着地する。
一拍遅れて、ザパァァァンッ! と澄み切った海面に、白く透き通った三百頭の鎧大烏賊と巨大な親個体が、一斉にぷかぷかと浮かび上がってきた。
「ふふん! 粘性変化のトラップにはちょっと焦ったけど、水中の飽和蒸気圧と神経伝達のラグを計算に入れれば、こんなのただの物理実験よ☆」
「アノマロちゃん……っ! 無事だったんだね、すごかったよぉぉッ!」
濡れたツインテールを絞って胸を張る私に、クロエが涙目で抱きついてくる。
一方、アイリスは岸壁に打ち上げられた私の『透明な抜け殻』と白い烏賊の群れを一瞥するなり、メガネをカッと光らせてガタガタと震え出した。
「あぁぁ……っ! 粘液皮膜の『緊急脱皮』で墨の罠を躱し、外殻に傷ひとつつけず内部の『主神経束』だけを水中衝撃波で断つなんて……ッ! なんという非人道的で美しすぎる捕食器官(機能美)ですか……ッ! ハァ、ハァ……っ、尊すぎてめまいがします……ッ!」
頬を紅潮させて悶絶するアイリス。トム親方とロルフ隊長も、海面を埋め尽くす白い山を見て腰を抜かした。
「う、嘘だろ……。高級食材の『鎧大烏賊』が、一滴の血も流さずに全部『活け締め』にされてやがる……! これだけあれば、街の子どもたち全員が腹いっぱい食えるぞ……っ!」
港に大歓声が沸き起こり、クロエも嬉しそうに微笑んだ。
――その時。ヒュンッ……ガツッ!!
一本の太い矢が、トム親方の足元に突き刺さった。
ガチャン、ガチャン、と大型クロスボウを構えた百人の重装私兵隊が現れる。その中心で、毛皮の外套を羽織った港湾統括代官ボルドーが冷酷に笑っていた。背後には、朝市から逃げた徴税官ギルバートがニタニタと下卑た顔を覗かせている。
「そこまでだ、下衆ども。その獲物から手を離せ」
「ボ、ボルドー代官殿!? 今までどこに! 何度も救援を要請したはずですが!」
血まみれのロルフ隊長が詰め寄るが、ボルドー代官は鼻で笑った。
「黙れロルフ。私の私兵は王都への供出物資を守る戦力だ、化け物の相手など犬死にに使えるか。――それより、非常事態宣言下での無許可討伐、および領主様の『所有物』である水産資源の不法占有! その高級食材はすべて没収する!」
「な……ッ!? 街を見殺しにしておいて、獲物だけ横取りする気かァァッ!!」
トム親方の叫びに、ボルドー代官は冷淡に言い放つ。
「当然だ。現在、王都の備蓄庫は逼迫している。下民の腹より、王都の貴族様方の晩餐を維持する方が国益として正しい」
「ひゃはははっ! もっとも、塩がなければ半分は腐るがな!」
徴税官ギルバートが、腹を抱えて下品に嗤った。
「王都に送る最上級の親玉だけ切り取って、残りは貴様らの目の前で海に捨ててやるわ! 指をくわえて見ていろ、貧民どもめ!」
「ッ……!!」
私が一歩出ようとした、その時。
ギュッ、と隣で小さな拳が白くなるほど握りしめられた。
「……ひどいよ」
震える声。クロエがゆっくりと顔を上げ、百丁のクロスボウの矢先にも怯まずに一歩前へ出た。その琥珀色の瞳に、激しい『義憤の炎』を宿して。
「街の人たち、あんなにお腹をすかせてるのに……。アノマロちゃんが、みんなにご飯を食べさせてあげたくて、一生けんめい戦ってくれたのに……! 食べ物を粗末にして、お腹をすかせた人を笑うなんて……そんなの、絶対におかしいよ!! 私は、あなたたちを許さないッ!!」
ビリビリビリッ!!
クロエの全身から、目に見えぬ未知の波動――『E0-#C::SYM』が衝撃波となって放たれた。
あまりの気迫に、私兵隊が「ヒッ……!?」と一斉に後ずさる。ポロポロと悔し涙をこぼし、肩で息をして悪漢たちを睨みつけるクロエ。
「……てめぇら。うちの可愛い娘を泣かせて、ただで済むと思ってんじゃねぇだろうねぇ……ッ!!」
「はい。ギルド通商条約違反に加え、クロエ様への精神的加害……ボルドー代官、規約に照らしても万死に値します!」
エルザがドス黒い殺気を噴き上げ、アイリスも絶対零度の『氷の受付嬢』へと豹変する。
(……クロエが泣くの、私、ほんとに嫌いなんですけど)
胸が、チクリと痛んだ。
スンッ、と私はクロエの隣に並び、震える肩をそっと抱き寄せる。複眼の奥に、絶対捕食者の『無慈悲な光』だけを黒く宿して。
「……あーあ。やっちゃったわね、お前ら。世界で一番尊い私の撫子ちゃんに、ここまで悲しい思いをさせて、泣かせた罪……。地球四十六億年の歴史に誓って、細胞のひとかけらも残さず後悔させてあげるわ」




