第115話 塩が専売!?さかなが腐る!?ガンコ親父涙目
「……ちょっと、これ本気で言ってるの? 港町なのに、魚の匂い(トリメチルアミン)が空気中にほとんど存在しないじゃない」
澄み渡る朝の光が港塞都市パールの港を照らす。
だが、私たちが足を踏み入れた魚市場には、港町特有の活気も、威勢のいい掛け声も一切なかった。
ずらりと並ぶ木製の陳列台は虚しいほど空っぽで、わずかに開いている露店に置かれているのは、指先ほどしかない痩せた小魚が数匹だけ。
「……お魚さん、全然いないよ……」
クロエが哀しそうに陳列台を見つめる。
その時だった。
「頼む、徴税官殿! 半袋だけでいい、塩を売ってくれ! 今朝、奇跡的に網にかかった魚が腐っちまうんだ!」
広場の片隅から、悲痛な懇願が響いた。
頭に手ぬぐいを巻いた腕っぷしの太い男――漁師ギルドの親方トムが、身なりだけは立派な小太りの役人にすがりついている。
「ふん。平民の魚など知ったことか」
徴税官はすがりつくトムを足蹴にし、冷酷に言い放った。
「領主様の命により、現在『塩』は専売制だ。税率は従来の十倍。払えぬなら失せろ! それに――魚が獲れぬ今、貴重な塩はすべて『王都』への供出に回す決まりだ!」
「そんな無茶苦茶な……ッ!」
トムが絶望に顔を歪めた瞬間、アイリスが音もなく歩み出た。
「――お待ちください。生命維持に不可欠な塩の不当な価格吊り上げおよび独占は、ギルド通商条約第七項への重大な違反行為です」
「な、なんだお前らは!? 領主様にたてつく気か! おい、衛兵――」
激昂する徴税官。だが、アイリスの後ろでエルザが背中の大剣の柄に手をかけ、獰猛な笑みを浮かべた。
「……呼んでみなよ。アンタの首が飛ぶのと、どっちが早いか試してみるかい?」
「ヒィッ……!?」
アイリスの隙のない法的追及と、エルザが放つ本物の殺気。
徴税官はカエルのような悲鳴を上げ、「お、覚えていろ!」と捨て台詞を吐いて転げるように逃げ去った。
「す、すまねぇ……助かった。あんたら、見かけねぇ顔だな」
トムが深く頭を下げる。だが、足元の木箱に視線を落とした瞬間、再びその顔に濃い絶望の色が浮かんだ。
「……だが、奴を完全に怒らせちまった。これで本当に塩が買えなくなった。奇跡的に網にかかったこの貴重な魚も、腐らせるしか……」
「塩など不要です」
アイリスが涼しい顔で指を鳴らすと、エルザが腰の革袋から『青い石』を取り出し、魚の入った木箱の中へ無造作に放り込んだ。
ピキィィィン……ッ!
瞬間、青い石から極寒の冷気が立ち上り、木箱の中の魚を薄い霜で覆い尽くす。
「こ、こいつは……『氷の魔石』!? 貴族しか持てねぇような超高級品じゃねぇか!」
「ええ。塩漬け(塩蔵)に頼らない、低温保存(冷蔵)による鮮度維持です。これなら塩がなくても、数日は獲れたての味を保てますよ」
「う、嘘だろ……こんな高価なもん、俺なんかが貰っていいのか……!?」
「構いません。その代わり――この街と海で起きていることを、詳しく聞かせてもらえますか」
トムの目から、ポロポロと大粒の涙がこぼれ落ちた。
「あ、ああ……! ありがてぇ……! あんたら、女神様か……ッ!」
男泣きするトムは、拳を握りしめて語り始めた。
「数日前から沖の潮がピタリと止まって、魚影が消えやがった。だがな……本当に狂ってるのは、海だけじゃねぇんだ。王都の奴らが塩を根こそぎ持っていくせいで、他の漁師たちは……せっかく獲れた魚すら、塩漬けにできずに数時間で腐らせて捨てるしかねぇんだよォッ!」
ドカッ、と。悔しさのあまり、トムが隣の空っぽの木箱を蹴り飛ばす。
「海は死にかけてる、貴族は俺たちの生き血を吸い上げる……! これじゃあ俺たちは、飢えて死ぬのを待つしかねぇんだ……ッ!」
トムの叫びに、クロエの胸が激しく締め付けられた。
スラムで生まれ、カビの生えた黒パンすら買えずに飢えと寒さに震えていた日々。食べ物が目の前で腐っていく悔しさも、飢えの苦しさも、クロエは誰よりも知っている。
「……アノマロちゃん」
クロエが、そっと私の手を両手で包み込むように握りしめた。その琥珀色の瞳には、迷いのない決意の光が宿っている。
「私……みんなを助けたいよ。食べ物が目の前でダメになっちゃうなんて、すごく哀しい……。みんなで笑って、美味しいお魚を食べられるようにしたい!」
クロエの切実な願いを受け止め、私の複眼に冷徹な光が灯った。
(……海の生命力だけじゃない。塩化ナトリウム(塩)という生体必須インフラまで、巨大なストローで王都に吸い上げられてる。環境バグも政治バグも構造は同じ――上が下を吸い尽くす搾取システムね)
私は頭の上の本尊をシャカシャカと揺らし、ニヤリと可憐に笑った。
「任せなさい、クロエ☆ 食材を無駄にする奴は、理系JKとして万死に値するわ! 生態系のバグも、腐った貴族のクソシステムも、私が全部綺麗にデバッグしてあげる!」
「うんっ!」
クロエの顔にパッと笑顔が咲いた――その瞬間、足元にかすかな振動が走った。
遠くの海から、低い地鳴りのような重い音が伝わってくる。
「アノマロちゃん……?」
「さっきから沖合の海水温と水圧のベクトルが乱れてる。……海底の居場所から追い出された連中が、もうそこまで来てるわ」
私の言葉と、同時だった。
ガァァァァァァンッ!! ガァァァァァァンッ!!
港塞都市パール全域を揺るがすような、けたたましい『警鐘』が鳴り響く。
「お、親方ァァッ!! 大変だぁぁッ!!」
血相を変えた若い漁師が、市場へ転がり込んできた。
「防波堤が……破られたッ!! 飢え狂った深海の『化け物』の大群が、港に押し寄せてきやがったァァッ!!」
悲鳴。絶叫。
極度の飢餓とマナ枯渇のストレスによって深海から弾き出された海魔物たちが、エサを求めて陸地へと溢れ出してきたのだ。
阿鼻叫喚となって逃げ惑う人々の中、私はただ一人、波の轟音が響く港へ向かって静かに歩き出した。
「私の海でデカい顔してんじゃないわよ。――地球四十六億年の生態系の頂点が誰なのか、たっぷり教え込んであげるわ☆」




