七の段 犬神憑きの怪(後編)②
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「すごい光景だな」
琥春は思っていたことをそのまま口にした。
曽良岡邸の二階廊下には、あちこちにびっしりと護符が貼られている。
朝四時に起床した浦良は琥春を叩き起こし、ひよりと三人で二時間かけて、持ってきていた護符を全て貼り終えたのだ。 護符を貼りつけるだけとはいえ、二時間身体を動かし続けた琥春の背中にはじんわりと汗が滲んでいた。
浦良は後ろで見守るトキエと桃子の方を振り返った。
「今から九字を唱え、護符が貼られた空間に結界を貼ります。孝史郎さんが何をしたとしても、この廊下から絶対に出ないでください」
トキエと桃子は、不安げな面持ちで頷いた。
「ひよりさんも結界から出るなよ。琥春は、私が祓詞を唱え、犬神が孝史郎さんから離れた段階で部屋に入り、犬神を神剣で斬ってくれ。危険だと判断した場合は直ぐに結界内に戻れ」
「了解」
浦良はふうっと長く息を吐きだした。
「臨・兵・闘・者・皆・陣・列・在・前」
九字を唱え、九種類の印を結んでいく。
その場の空気が一斉に研ぎ澄まされたものへと変わった。
浦良は「では」と言って、孝史郎の部屋の鍵を開ける。
ガチャリという音とともに、扉が開いた。
部屋の奥には、孝史郎が項垂れたように座っている。
浦良は孝史郎を見据え、祓詞を唱え始めた。
「祓え給え。清め給え」
浦良の澄んだ声が木霊するとともに、孝史郎は苦しそうに胸を掻きむしりだした。
「グルルルル」
叫び声を上げながら、四つん這いになった孝史郎がこちらへと向かってくる。
「ひっ!」
ひよりは驚きで声を上げたが、出入口寸前のところで孝史郎の動きが止まった。
(これが、結界か……)
こちらを睨みながらも、突っ込んでこれない孝史郎を見ながら、琥春は結界の効果を実感した。
「祓え給え。清め給え」
「グルルルルルルルルル」
もがき苦しんでいた孝史郎の動きがピタッと止まった。
(ついに犬神本体とご対面か)
琥春の神剣を握る手に力が籠もる。
次の瞬間、大きな地響きのような音がした。と同時に、黒々とした靄が現れる。それは一見イタチのようにも見えるが、よく見れば小型の「犬」の形をしていた。
「祓え給え。清め給え」
来たか、と琥春が犬神に斬りかかろうとした瞬間――。
「ウォォォォォォォォォォォン」
断末魔のような声と共に、黒い靄が木っ端みじんに砕け散った。
「……え?」
琥春はその場に呆然と立ち尽くす。
孝史郎やその周辺からは禍々しい雰囲気が一切なくなっていた。
思いのほか簡単に除霊ができてしまって、琥春は拍子抜けした。
「……除霊は完了だ」
途端、安堵のざわめきが起きる。
「良かったあ」
ひよりは安心しきった顔で、浦良と琥春に近づく。
「神剣は使わなかったが、本当に除霊されたのか?」
「ああ。犬神は消滅した……。琥春、孝史郎さんを別室へ運んでくれ。憑かれた所為で身体が衰弱しているだろう」
「分かった」
琥春は床に横たわった孝史郎を抱きかかえる。
浦良は、トキエと桃子の方を向いた。
「除霊は無事に完了しました。孝史郎さんを別室へ運びます。安静にできる部屋に案内してもらえますか」
「先生、ありがとうございます……」
トキエは目に涙を浮かべて、浦良の手を取った。
この姿だけ見れば、息子思いの普通の母親である。
だが昨晩、息子が憑かれているというのに、若い男と乳繰り合うトキエを目撃してしまった琥春は複雑な思いだった。
「あまり掃除はされていませんが、同じ階に寝台つきの客間があります。そちらに運んでいただけますか」
桃子がおずおずと申し出た。




