月下
月光を浴びて見る夢は悪夢になると言う、西洋の言い伝えがある。それは迷信やまやかしではなく、真実だった。
真夜中に私が目を覚ましたのは、私の胸にすがりつくようにして眠っていたトトが、ふと身を起こす動きを感じ取ったからだった。そのような些細な気配に感付いたのは、おそらく窓から差し込む月光が、私の眠りを浅くしていたためだろう。
私が半ば覚醒し、半ばまどろみの中で見ていると、トトは月光の下で立ち上がり、あの白いワンピースをするりと脱ぎ捨てた。それは、沢に飛び込んだ時の健康的な少女の姿と何一つ変わり無かったが、青い光の中にあっては、あの時には覚えることがなかった、不道徳なうずきを私の中に喚び起こした。
トトは、肉を切り分けるのに使っていた包丁を取ると、音も立てずに家を後にした。自身が抱いた、けしからぬ欲望の衝撃から立ち直るために、些かの時間が必要だった。それから少女の後を追おうと決めたのは、刃物を持って深夜に家を忍び出ると言う、不可解な行動の理由を暴き立てるためではなく、あの姿をもう一度見たいと願ったからに外ならない。
家を抜け出し、私は海岸を目指した。彼女の向かった先が、まさしくそこである保証はなかったが、私の想像の中に浮かんだ、月下の波打ち際に立つ少女の姿はあまりにも魅力的で、それを目にすることが叶うのであれば、海岸へ向かうのが適当に思えた。それに、例え彼女がそこにいなくとも、もう一度、寝床へ戻れるようにまで頭を冷やすには、そこはうってつけの場所だった。
浜に出た私は、砂と緑地の境を歩きながらトトの姿を探した。月は明るく、海は凍り付いたように凪いでいる。目と耳を妨げるものは何一つ無かった。
果たせるかな、私は奇妙な音を耳にした。コツコツと言う、木質の何かがぶつかるような、そんな音だった。音を頼りに進むと、トトはそこにいた。彼女は波打ち際で、何か黒っぽく大きなものの上に屈み込み、こちらに背を向け、熱心に右手を動かしている。コツコツと言う音は、彼女が手を動かすたびに響いてくるようだった。
見守るうちに、私はトトの行為が何であるかに思い当たった。私のいる場所に、微かな腐臭と血の臭いが漂ってきたからだ。それは、彼女が頑として譲らなかった、件の肉を得るための解体作業の様子だった。コツコツと言う音は、浜辺に流れ着いた哀れな海獣の骨に、包丁の刃が触れるときの音なのだ。
トトが、この仕事を他人任せにしようとしなかったわけを、私は理解できたような気がした。一見しておぞましいと思えるこの行為を、私に知られまいとしていたのだろう。
私は少女に声をかけ、秘密はすでに明かされ、その重荷から解き放たれたことを知らせるべきだろうか。あるいは、このままそっと立ち去り、彼女自身が私と秘密を分かち合おうと決心するまで、この出来事を忘れるべきだろうか。
私が逡巡する間に、コツコツと言う音が止んだ。トトは血に濡れた包丁を脇に置くと、屍骸から切り落とした、ひどく重そうな肉の部品を抱え上げた。
月明かりに照らされたそれを見て、私は息をのんだ。見違えることなく、それは人間の脚だった。トトは身を捻ると、切り落とした脚を包丁と反対の脇に投げ落とした。砂の上に無造作に転がるそれが、かつては人間の一部だったことは明らかなのに、こうして見ると、ただそのような形をした異物にしか見えない。
トトが、呆然と立ちすくむ私に気付いたのは、その時だった。
少女は何も言わなかった。
屍骸の返り血で凄惨な化粧を施されたその顔には、何の感情も見えない。
少女は立ち上がった。
その手には、血と砂に塗れた包丁が握られている。
少女が私に向かって歩み寄ってくる。微かにふくらみはじめた胸も、平らな腹も、腿の付け根に挟まれた少女の部分も、青い月光の下にあってはタールのようにどす黒く見える血に覆われていた。
気が付くと、私は少女に背を向けて走り出していた。砂に足を取られながら、ひょっとすると泣いていたのかも知れない。ともかく私は息の続く限り、海水の間際に迫る岩壁に行く手を阻まれるまで走り詰めたのだった。
振り返ることはできなかった。包丁を持った少女が、今もひたひたと追ってくるのを感じるからだ。あるいは、そうではないのかも知れない。しかし、それを確かめることが、私には何よりも恐ろしかった。振り返り、その姿を現実に見ないかぎり、恐怖は私の想像が生み出した幻想であり、決定的なものとはならないからだ。そして、森の中へ逃げ道を求めることも、私は選ばなかった。そもそもこれは、逃げ切れる類の恐怖ではない。私が本当に恐れていたものは、食屍鬼の少女などではなく、それが私の愛してやまないトトであると言う現実だった。




