空を飛ばない星の火
【前回までの人物】
・カイ・レイヴァン:自由港カレドの運び屋。遭難船からセナを救った。借用した救難艇は、まだ点検と補給を終えていない。
・セナ・ルーヴェ:星図を研究する女性。右足首の固定と腕の手当てを受け、施療所で休んでいる。資料の箱は港で未開封のまま保管中。
・ミレイ・オルカ:港の機関士。複数の機械の不規則な動きを記録したが、事故との関係はまだ分かっていない。
港へ戻ると、湯の車が共同炊事場の前で止まっていた。
荷役の往来を塞いでいるわけではない。共同炊事場の横へ寄せ、車輪へ楔を当ててある。さっきまで湯気を吐いていた蓋も、いまは閉じられていた。
カイは車の横を通りかけ、工房の戸口へ出てきたミレイに呼ばれた。
「ちょうどいい。そこの空いた桶、持ってきて」
「会いに来た相手を、荷運びにするなよ」
「運べない物を頼んでないでしょう。湯の方には触らないでね」
赤銅色の髪を布へ押し込んだ機関士が、袖の先で頬を拭いた。油の跡は、かえって少し伸びた。
カイは空桶を運び、言われた白い線の外へ下ろした。ミレイは厚い覆いをした小さな燃焼室を、道具で開ける。
中には、薄い鉱片が並んでいた。
昼間でも分かる、鈍い青い縁。星の燃料だった。
「まだ使えるのか。それ」
「湯を沸かす分には。船に積むのとは等級が違う」
彼女は一枚を裏返し、欠けた所を確かめた。素手で触ってよい温度になるまで待ち、使い終えた分だけを桶へ移す。
カイには、どれも同じ青い石に見えた。
だが、ミレイの手は迷わず二つに分けた。
「今日は回収の日。道で止まったんじゃないよ。朝の湯は、もう渡してる」
「何も言ってない」
「その顔で覗くから。港中の故障を一人で拾う気なら、先に昼休みを百回取りな」
カイは、桶の縁へ添えていた手を引いた。
昨日から、止まっている物を見ると、止まった理由より先に、落ちた船を思い出す。
ミレイは彼を問い詰めず、新しい覆いを閉めた。
水の流れる低い音が、戸の奥から戻ってきた。
*
面会の話は、工房の仕事台で伝えた。
セナはミレイと話したい。短い時間で、施療の担当が認める範囲にすること。資料の箱はまだ港にあり、今日も開けていない。
カイが順に話すと、ミレイは壁へ掛けた予定の板を見た。
「明日の午前なら、少し空けられる。朝の持込みを先に見て、それから施療所へ行く。長くなるなら、また日を分けるよ」
「その返事を持っていく。何を見せられるかは、あいつが決める」
「うん。私も、借りた紙を工房じゅうへ貼るつもりはない。持っていく測定の控えは、ここで写しておく」
紙の端へ日時を書き、彼女はペンを置いた。
カイが、今日の夕方では、と言いかけた顔をしたのだろう。先に、指が一本立った。
「今日はサミュエルと部材を確かめる。あれも、うちの仕事。夜に片づければいい用じゃないの」
「分かった。急かしに来たんじゃない」
「なら、あとで時計を見ながら戸口に立たない」
言い返せず、カイは笑った。
夫の名前が普通に出てくると、彼女にも、港から帰って続く時間があると思い出せる。
知り合いだから頼めることと、知り合いの予定を先に使えることは、同じではなかった。
面会の控えを乾かしている間、ミレイは、さっきの鉱片の票を別の箱へ入れた。
燃料の扱いを、ついでの勘で済ませているわけではない。使った先と、戻ってきた量が、それぞれ紙で残っていた。
「湯に使えるなら、艇にも戻せないのか。少しだけでも」
機関士の手が止まった。
怒ったのではなかった。ただ、冗談を返す顔ではなくなった。
「湯は、沸くのが遅ければ待てる。船は、足りなくなった場所で降りて休めるとは限らない。あの小さい船でもね」
カイは下の桟橋を見た。
借りた救難艇が、綱で留められている。人を載せて浮いた時より、岸から見下ろす今の方が小さかった。
「……節約する場所を間違えるな、ってことか」
「そう。余ったから何にでも、はやらない。湯の車にも、これに合う作りがある」
彼女は票を伏せた。
「それでも、これがあるから、ここで大きい薪を毎朝運ばずに済む。上へ飛ぶ物だけが、燃料の行先じゃないのよ」
カイは木箱から目を離した。
港の煙突から上がる湯気が、潮の匂いの中で白くほどけていた。
工房の横の戸が開き、回収を終えた湯の車が、奥へ引かれていく。空の桶には票が結ばれ、今度は別の桶が台へ載った。動かす人たちは、次に使う分を残して、今日の分を片づけている。
「これを運ぶ仕事も、あるんだな」
「ええ。船へ積むだけが、あんたの仕事じゃないでしょう。湯だって、こぼさず届ける人が要る」
ミレイはカイが運んだ空桶を見てから、工房の棚へ手を伸ばした。似た厚さの鉱片でも、票に書かれた使い先は違う。カイは、どちらでも持っていけばよい荷のように考えていた自分へ、苦く笑った。
「次に頼まれたら、色だけで同じ箱へ戻さない」
「そうして。混ざった分を全部調べ直すと、湯を待ってる人まで待たせるから」
大きい船の機関だけではなかった。札を結ぶ人にも、桶を分ける人にも、止めないための仕事があった。カイは乾いた面会の控えを受け取り、燃料の票とは別の袋へ入れた。
*
帰る前に、救難艇の点検へ立ち会った。
自分で直すためではない。ミレイが実際の艇へ付けた印を、持ち主へ伝えられるようにするためだった。
下の桟橋へ降りると、濡れた板が靴の裏で鳴った。カイは手摺を持ち、昨日のように岸から一歩で艇へ飛び移らなかった。
係留が張るのを見てから、足を置く。
ミレイが振り返り、言わずに頷いた。
艇の中は、乾かしかけの帆布と機械油の匂いがした。
昨日、セナを横たえた場所には、誰もいない。カイの目が一度そこへ止まると、ミレイは工具を置く前に声を掛けた。
「そこの台、私が乗っても動かない?」
カイは足元を見る。
荷台の留めは外れていない。縁を両手で押して確かめた。
「大丈夫。俺が反対を押さえる」
それは、いまの艇の話だった。
両腕へ木の硬さが戻り、昨日の揺れが少し遠のいた。
ミレイは、先に締め直した取付部を見た。印はずれていない。だが、それだけで出航の札は付かなかった。
燃料の補給と、残る点検。異なる機械でも測られた不規則な動きは、まだ理由を分け切れていない。
今日の湯の車が動いたから安全とも、艇で妙な音がしたから街の火まで消すべきとも言えない。
カイは、彼女の書いた控えの横へ、見た物だけを足した。
「直った所と、まだ分からない所を、別に言えばいいんだな」
「そう。『ミレイが見たから飛べる』には、しないで」
「そんな顔で言われたら、出来ない」
「顔じゃなくて、紙で覚えな」
彼女は笑い、印の隣へ指を置いた。
カイもそこを見た。
救難艇をもう一度使いたかった。だが、使えると言ってもらうために、頼んだ人の言葉を小さくする気にはなれなかった。
岸へ戻る時、空桶の取っ手が桟橋の隙間へ落ちかけていた。
ミレイが手を伸ばすより先に、カイは綱を引き寄せ、横倒しの桶を起こした。中身はもう空だ。濡れた底を甲板へ引きずらず、岸へ戻す。
「ありがと。そういうのは、私に言われる前に出来るのね」
「そっちの方が本職だ」
綱を畳む手は、まだ少しぎこちなかった。
それでも、何を支えているか分かる重さなら、今日は持てた。
*
アベルには、艇を使わない返事を持っていった。
帳場の元親方は、杖を机の縁へ立て、ミレイの控えを読んだ。短い白髪の下で、太い眉が一度だけ寄る。
カイは、相手が頷く前に口を開いた。
「点検は続く。補給もまだだ。配達の精算とは、別に残しておいてくれ」
「残してある。配達の受取りと、艇へ払う分を、俺の机で混ぜるな」
「混ぜてない。確認だ」
少し強く答えると、アベルの眉が戻った。
「なら、ここへ自分でも印を付けろ」
控えの片隅へ、小さな印を入れた。
カイは、借りた艇の持ち主へ、分からないままの部分も渡せた。
報告して仕事が終わる物と、報告して次の点検へ続く物。その違いが、机の紙にも残る。
戸を出ようとすると、アベルがカイの上着を見た。
「綱がほつれてる」
「服だよ、これ」
「結ぶ物なら、どっちも切れる前に直せ」
カイは継ぎの端へ指を掛けた。昨日から濡れ、乾き、また擦れた糸が、一本だけ伸びていた。
帰って針を借りる、と答える。
自分のことを後へ送らずに言うと、親方はもう口を挟まなかった。
*
施療所へ戻った時、空はまだ橙色になる前だった。
ガロは廊下の窓に近い壁へ立っていた。右手には来訪の用件を短く残す紙。左の義手は、外套の裾に触れない位置へ下ろしている。
カイを見ると、耳が僅かに動いた。
「箱を求めて来た者はいない。面会の追加もない。休んでる間に、港から紙が一つ来た。中で受け取ってる」
「分かった。仕事は、あとどれくらいだ」
「日没前まで。今なら、中で返事をして来られる」
カイは廊下の時計を見て頷いた。
残ってくれ、と先に言わずに済んだ。
面会は短く、という返事を受けて部屋へ入ると、セナは寝台の背へ寄り掛かっていた。
右足首の固定は動かない。編んだ黒髪の先が、肩から胸へ滑り落ちている。手元の紙を長く持ったのか、包帯のある腕を、もう片方で支えていた。
「ミレイは、明日の午前。朝の仕事のあと、短い時間なら来られるって」
「会えるのね。……よかった」
肩が僅かに落ちた。
彼女は紙をもう一度持ち上げようとして、やめた。
「港からも返事が来た。私が今日は動かないことは、伝わってる。箱はそのままで、面談を先にする」
「じゃあ、箱を運ぶ話はまだ先だな」
「うん。原図と商会の目録を、一緒には出来ない。でも、その説明をする前に、少し……休みたい」
最後の声が短くなった。
カイは、返ってきた紙を自分へ貸せとは言わなかった。寝台の横の台を少し寄せると、セナはそこへ紙を置いた。
「何か、分かった?」
研究のことだろう。
カイは、分からない、とすぐ答えかけた。だが、今日見た青い鉱片と、湯の車が浮かんだ。
「船を浮かせるのに使えない石でも、湯は沸かせる。同じ物を放り込んで、同じようには動かないらしい」
セナは顔を上げた。
「……湯?」
「炊事場の車。あれも星の燃料だった。俺は、減った分を何でも艇へ戻せるんじゃないかと思って、止められた」
恥ずかしい話だった。言ってから、セナの顔色を窺う。
彼女は笑わず、窓の外へ目を向けた。
「私は、船の機関や観測に使う物ばかり見てた。ここでは、毎朝の湯にもなるのね」
新しい答えを見つけた顔ではなかった。
遠い空を見てきた人が、知らなかった台所へ目を向けている。
「その車も、見てみたい。足を下ろしてよくなったら」
「ああ。通る場所は知ってる」
今日すぐ連れ出す約束ではない。
セナも、今日とは言わなかった。
それから彼女は、カイが持ってきた面会の控えへ目を戻した。
「ミレイさんに、私からも礼を言いたい。明日、最初に」
「じゃあ、言う分は取っておけ。俺が全部、先に運ばない」
セナの口元が、少し緩んだ。
*
外へ出た時、ガロは半日分の終わりの印を入れていた。
戸口で引継ぎを済ませ、施療所の担当へ、ここから先の来訪は通常の窓口へ回すと伝えてある。明日も同じように立つ契約を、カイが結んだことにはならない。
カイは控えを受け取り、財布へしまった。
「今日は助かった」
「戻ったから、終わりに出来る」
ガロが右手で外套の留めを直した。
日が沈む前に帰りたかった理由を、カイは前に少し聞いている。
「魚の骨、今日は間に合うか」
「ああ。娘は先に皮を取る。俺が遅いと、身までなくなる」
短い耳の下で、口の端が僅かに上がった。
守ってもらった人が、今度は誰かの夕飯へ帰る。
カイはその背を見送り、工房の方を振り返った。
共同炊事場の窓に、橙色の光が点っていた。
上では、一隻の貨物船が、夕方の航路へゆっくり出ていく。
星の燃料が途切れれば、空の船だけが止まるのではない。
そんな大きな言葉になる前に、湯気のない車と、冷たい皿を、カイは初めて一緒に思い浮かべた。
明日、セナとミレイが話す。
その話を、空の出来事だけにしておくことは、もう出来なかった。




