背中を預ける値段
【前回までの人物】
・カイ・レイヴァン:自由港カレドの運び屋。借用艇の点検に立ち会い、機関士の許可した所見をセナへ届けた。艇は下の桟橋で点検中。
・セナ・ルーヴェ:遭難船から救出された星図の研究者。右足首の固定と腕の手当てを受けて施療所にいる。資料の箱は港で未開封のまま保管されている。
・ミレイ・オルカ:港の機関士。艇と予備機で不規則な動きを測ったが、事故との関係は未解明。セナと直接話すことを望んでいる。
施療所を出ると、カイは自分が何も運んでいない手を見た。
箱は港にある。セナへ渡したのは、ミレイの所見の控えだけだ。
空いた手なら、次の物を持てる。そう考える癖で、もう一度港へ向かいかけた。
だが、足を痛めた人が寝台に残っている。
昨日あの箱を求めに来た者と、また同じ話になれば、カイ一人の腕で机と戸口と寝台を全部守れるわけではなかった。
帳場へ戻ると、アベルが顔を上げた。
「今度は、誰へ届ける」
「その前に、相談だ」
短い白髪の下で、太い眉が少し動いた。元親方は札を一枚伏せ、椅子へ置いていた杖を手元へ寄せた。
カイは向かいへ座った。
「セナは、機関士と話したいと言った。ミレイも会う気はある。でも、箱の話をしに来る奴もいる。調べ物で俺が外へ出た時、あの部屋の前まで気にしながら歩くことになる」
「お前が戸口に立てば、調べ物は止まる」
「だから、どう回すか訊きに来た」
認めると、喉の奥が少し硬くなった。
昨日は足りない物を数える暇がなかった。今日、自分の手が二本しかないと説明する方が、かえって言いにくい。
アベルは、それでいい、とも、成長した、とも言わなかった。
「地上の護衛なら、一人、話せる奴がいる。今朝の荷を送り終えてるはずだ。聞くか」
「頼む」
「金の話も、自分でしろ。俺の知り合いだから、ただで立つ奴じゃない」
カイは頷いた。
自分が頼まれた仕事なら、無償で出来ると言ってしまいそうになる。けれど、他の人の半日を、自分の礼だけで買うことは出来ない。
*
その前に、配達の精算をした。
防水袋から二箱分の受取票を出し、荷受けの署名を、アベルの控えと合わせる。朝届けた軸受の報酬だった。救難艇の補修費や補給費まで、ここでまとめて終わったことにはしない。
アベルは配達分を払い、艇の方の札は別に残した。
カイも受け取る袋を分ける。救難があったから昨日の仕事は全部宙に浮いた、と考えていた頭に、済んだ仕事の重さが戻った。
「先に、支払いに使える分を分けろ」
アベルが言う。
「帰りの飯まで、護衛へ渡すなよ」
「俺を何だと思ってる」
「昨日、飯の前に次へ走ろうとした奴だ」
カイは反論をやめた。
薄いパンを食べたばかりなのに、言われると、また腹が減りそうだった。
*
護衛の男は、倉庫の影で義手の革帯を締めていた。
太い首と、灰褐色の短い毛に包まれた耳。色褪せた外套の下には、手入れされた胸当てがある。左腕の継ぎ目へ右手を添え、動く範囲を一度確かめると、顔を上げた。
獣人だった。体が大きいだけで通路を塞ぐのではなく、荷を持つ人が来るたび、壁へ半歩寄っている。
「ガロ・フェン。地上の護衛をしてる」
「カイだ。アベルから紹介された。施療所と港の間で、手を借りたい」
男は親方の名前だけで頷かず、カイが話し終えるまで待った。
箱の持ち主を決める仕事ではない。金を出した商会と、研究者の資料の範囲には争いが残っている。昨日、引渡しを求められ、カイは本人が望まないままセナを連れていく話を断った。
誰が本当の敵かは分からない。
隠さず言うと、ガロがまず訊いた。
「俺が守るのは、人か。箱か」
「人と、戻る道。箱を奪い返す仕事は頼まない。今は港が保管してる」
「依頼主は、その人か」
カイは、すぐにはいと答えなかった。
「ここへ来たのは俺だ。今の地上の往復は、俺から頼む。あの人の部屋を守る話は、本人へ説明してから決めたい」
ガロは頷き、胸当ての下から小さな紙を出した。
「なら、まず半日。港と施療所の間。戸の外で待つのはいいが、中へ入るなら本人の返事を聞く。空の航路は、別の話だ」
カイは示された賃金を読んだ。
安い、と言える額ではない。配達の金から半日分を出せば、財布が軽くなるのは分かる。それでも、自分が調査へ出たあいだに誰かが立っていられる時間が、その額の向こうにあった。
「この分で頼む。日が変わっても延びたことにはしない。続きは、また相談する」
払った分と頼む範囲を二人の控えへ残した。カイは、自分の飯と帰りの足の金を同じ袋へ戻さなかった。
ガロが、義手の指で紙を押さえる。右手で名を書き、受け取りの印を入れた。
「どこから行く」
「保管所へ。閲覧依頼に返事が来ているか、確かめたい」
「分かった。先へ出てくれ。後ろは俺が見る」
特別な誓いのようには言わなかった。
それが仕事の始まりの声だと分かり、カイは歩き出した。
*
昼の港は、昨日と同じ形ではなかった。
湯を運ぶ小さな車が、共同の炊事場から出てきた。蓋の合わせ目から白い息が上がり、車輪のそばには、使い終えた燃料の欠片を入れる桶が結んである。
上の航路では貨物船が一隻、岸と同じ高さへゆっくり下りていた。止まったままの借用艇の向こうで、ほかの船は今日の荷を運んでいる。
カイは、自分が聞いた異音を、あの全ての船へ勝手に広げかけて足を止めた。危ないと叫ぶための根拠も、安心してよいと答える根拠も、まだ持っていない。
だからこそ、音と時刻を分けて持ってきたミレイの紙を、先へ渡す必要があった。
救難の通路は一部が空けられ、荷を運ぶ人たちは、少し遠い道を回っている。係留柱の横で、濡れた綱を巻き直す音がした。
カイは保管所へ急ぐ癖で、吊り荷の下を抜ける近道へ目をやった。
ガロの右手が、彼の肩の前で止まる。
「荷が戻る」
見上げた瞬間、帆布に包まれた長い材が、風に押されて僅かに向きを変えた。
荷役の声が飛ぶ。地上の二人が誘導綱を引き、上の作業者が巻上げを止めた。
カイは自分から壁側へ退いた。ガロも荷へ突っ込まず、後ろから来る手押し車へ右の掌を向ける。
「ここ、いったん止まれ。向こうの綱が張るまで」
車の人は前を見て止まった。ガロが長い物へ手を伸ばすのではなく、通る人を荷の動く範囲から離したので、荷役の二人は自分の綱へ集中出来た。
帆布が、腹に響く低い音を立てる。
カイの頭に、昨日の船窓が一瞬重なった。足裏が狭くなる。綱を持っていない手へ、あの張力が戻ったように感じた。
「カイ。右の道は、通れるか」
ガロの声が、肩ではなく足元へ来た。
カイは顔を戻した。右の路地は空いている。荷を待つ人の向こうへ抜け、保管所の裏へ回れる。
「通れる。少し遠い」
「なら、そっちだ」
カイは歩いた。
自分が手を出さなくても、綱は支えられている。港を壊さず動かしている人の間を、今日は抜けてよかった。
路地へ出た時、息が少し速かった。
ガロは、怖かったかと訊かなかった。カイが立ち止まると、後ろへ目を向けたまま同じ所で待った。
「悪い」
「止まった分も、道を見てる。仕事は止まってない」
短い声だった。
カイは一度、長く息を吐いた。
肩の後ろにいる人の分まで、自分の目を二つ増やそうとしなくていい。その感覚が、支払った銀の重さより遅れて届いた。
*
保管の窓口では、昨日の控えを先に出した。
担当者は番号を確かめ、箱が未開封のまま置かれていることを伝えた。カイは箱を持ってくるようには頼まなかった。
「本人が、閲覧の相談の返事を待ってる。今日は足を下ろせない。こっちから勝手に運んだことにしないで、次を決めたい」
「その申出はこちらへ届いています。ご本人の立会いが出来る時刻と、商会側の目録を、別々に確認しています」
担当者が、控えの欄を指した。
返答は、閲覧の調整を進める、という物だった。箱の所有や、全ての記録を渡してよい範囲が決まったわけではない。
本人が動けるようになってから来るか、施療側の判断と港の保管条件を合わせて、別の面会方法を作るか。そこを本人へ尋ねるための連絡票だった。
「俺が持っていっていいのは、この紙だけだな」
「はい。箱の引渡し票ではありません」
カイは受け取った。
何も許されなかった昨日と、自由に開けられる今日、という飛び方ではない。本人が次を選ぶための返答が、今日は一枚出来ていた。
ガロは会話へ割り込まなかった。入口と、こちらの机へ来る人の足を見ている。
窓口を離れる時、担当者が護衛にも控えの番号を渡すか尋ねた。カイが先に頷かずにいると、ガロは首を振った。
「俺は、ここで荷を受け取らない。必要なのは、この人の帰り道だ」
紙が増えないことで、頼んだ仕事の形がはっきりした。
*
施療所の入口で、カイはガロを待たせ、面会してよいか先に訊いた。
施療師は寝台の方を見てから、短く頷く。
「少しだけなら。今日は疲れが残っています。相談の途中でも、休んでもらいます」
「分かった。人を一人、紹介したい。本人が嫌なら、外で待ってもらう」
セナへそのまま伝えると、彼女は戸の方を見た。青みのある黒髪を一本に編み、寝台へ横に流している。右足首は支えられたままだった。
「港の人?」
「地上の護衛だ。ガロ。俺から、今日の半日を頼んだ。部屋へ誰を入れるかは、お前が決めてくれ」
セナは一度、手元の所見の控えを伏せた。
「会いたい。何を頼めるのか、私も聞きたいから」
ガロが入ってくると、戸を背にして塞がず、寝台と廊下を同時に見られる側へ寄った。セナの足の近くには立たない。
名乗り、今日の範囲を短く話す。星図を見せろとも、話を全部聞かせろとも言わなかった。
「私が休んでいる間、誰かが箱のことで来たら?」
セナが訊いた。
「用件と名を受けて、施療の担当へ渡す。休む部屋へ、そのまま通さない。誰と会うかは、目が覚めてから聞く」
「会うつもりの相手を、追い返されるのも困る」
「なら、名前を先に教えてくれ。話す時刻は、ここの人と決める」
セナは頷き、カイを見た。
守るという言葉だけで、彼女の代わりに全部を拒んでよい人を連れてきたのではないと、伝わったようだった。
カイは閲覧の連絡票を渡した。セナは箱が開けられていない欄を読み、目録と本人の原図の範囲がまだ決まっていないことも確かめる。
「動けるようになるのを待つだけじゃなくて、ここで出来る相談があるのね」
「返事を書ける。運ぶのは俺がやる」
彼女は紙の端を右の指で押さえた。腕の包帯を引くほど力は入れない。
「ミレイさんには、明日、少しだけでも話せるか訊いてほしい。今日、急に仕事を止めてもらわなくていい」
「夕方は夫と部材の確認があるって言ってた。頼むなら、明日の都合から聞く」
「うん。機関の記録は、私の数字と同じかどうかから。まだ、同じだとは書かないで」
疲れていても、その言葉には芯があった。
カイは、届ける言葉を短く頭で繰り返した。
*
施療師が、今日はここまでにしましょう、と声を掛けた。
セナは返答の一行を記し、続きは休んでからにすると紙を置いた。ガロがその紙へ手を伸ばすことはない。
カイは寝台から離れ、必要な連絡だけを持って部屋を出た。
廊下の端で、ガロが外の明るさを確かめる。
「今日は、日が落ちる前までだ。延ばすなら、先に聞いてくれ」
「家へ戻る時間か」
「ああ。娘と食う約束がある。魚を買ってあるんだが、俺が骨を取らないと、あいつは皿をじっと見る」
初めて、文が少し長くなった。
カイが笑うと、ガロの口元も僅かに緩む。
「娘はいくつだ」
「その話は、次の道で。今は、部屋の前が空く時間を決める」
仕事へ戻るのも早かった。
カイは施療所の面会の扱いと、ガロの終業までの連絡先を確かめた。今日の契約を、そのまま明日の一日へ伸ばしてはいけない。
ガロが立つ位置を決めると、カイはミレイへ届けるための紙を持ち直した。
借りた艇は、まだ飛ばない。
箱は開いていないし、星の異常が何なのかも分からない。
それでも、今日は寝台の人を気にしながら、一歩ごとに後ろを振り向かずに済む時間が出来た。
「頼む」
カイが言うと、ガロは廊下の奥へ目を向けたまま答えた。
「行ってこい」
その声を背に受け、カイは港の光へ出た。
財布は軽くなった。
だが、今日一人で持たなくてよい重さも、確かにあった。




