同じ音を、違う耳で
【前回までの人物】
・カイ・レイヴァン:自由港カレドの運び屋。救難を終え、セナの閲覧依頼を届けた。借用艇の点検と補給、港で聞いた機関音について、翌朝ミレイへ相談するつもりでいる。
・セナ・ルーヴェ:星図の研究者。右足首の固定と腕の手当てを受け、施療所に留まる。資料の箱は、港が未開封で保管している。
・オルセン・リク:調査航海へ出資した商会の代理人。箱の記録と個人の原図の範囲は決着せず、目録の写しを持参すると告げた。
翌朝、ミレイはカイの顔を見るなり、工房の戸を半分だけ閉めた。
「今日は何箱?」
「空だ。俺だけ」
「じゃあ、戸口で邪魔になってる大きい方の荷物を、内側へ入れて」
カイは脇へ寄った。入れ替わりに長い部材を抱えた職人が通り、ミレイが戸を開け直す。
赤銅色の髪を布でまとめ、袖は肘までまくっている。頬に残った油の筋は昨日と違う側にあった。彼女の朝も、もう動いていた。
「借りた艇、下の桟橋に置いたままだ。帰着は伝えてある。上へ戻す前に、点検と補給を頼みたい」
ミレイは手を拭き、壁の札を取った。
「昨日のうちに聞いた。勝手に上げなかったのは助かったよ。乗った人と荷の分は?」
「俺と、足を痛めた人。それから箱を一つ。戻った時の話は、救難の記録に残してある」
手の震えを隠すために、上着のポケットへ突っ込む必要はなくなっていた。ただ、腕の重さは抜けていない。眠れたはずなのに、階段を下りる時だけ身体が一拍遅れる。
ミレイはその歩幅を見てから、自分の工具箱を持った。
「持たなくていい。今日は、どんな音を聞いたかを持ってきて」
*
下の桟橋には、濡れた綱の匂いが残っていた。
係留された小艇は、昨日より小さく見えた。あの床へ二人と箱を載せて、岩の窓を離れた。身体を入れる場所が足りなくなった時の狭さだけが、まだ足の裏へ残っている。
カイは係留を確かめ、ミレイへ乗る位置を空けた。
「昨日の夕方、この辺りから低い音がした。朝、お前が言ってたのに似てたんだ」
「鳴ってたのは、この艇?」
答えかけたカイは、桟橋の先を見た。
昨日は隣にも艇がいた。機関が一度高くなり、低い音が残ったのは聞いた。だが、自分の艇へ手を置いて確かめたわけではない。
「……そこまでは見てない。向こうも動いてた」
「じゃあ、音がした場所と、機関の持ち主は分けとこう。知ってる分からやればいい」
ミレイは叱る調子ではなく、検査札へ二行に分けて書いた。
カイは乗り込んだ時の傾きと、帰路の高さも伝える。よく知っている音のつもりが、言葉にすると空いている所が多かった。
床板を外すと、熱の抜けた機関が見えた。
ミレイはまず石と管を確かめ、作動させないまま取付部を順に触った。工具の先が、黒ずんだ金具の端で止まる。
「ここ、少し動く。響く音は、これで変わるかもしれない」
「昨日、揺すったせいか」
「昨日緩んだか、その前からかは、まだ分からない。乗せた相手を責めるように答えを急がないで」
カイは口を閉じた。
艇を大事に返したいと思うほど、自分が壊した箇所を早く見つけて、そこだけ直して終わらせたくなる。それも、都合のいい急ぎ方なのだと気づいた。
ミレイは位置を確かめて締め直し、床の裏へ触れていた箇所を離した。作動前の確認を終え、カイへ、艇の前方に回って機関には手を近づけないよう伝える。
係留は外さなかった。
浮き上がらない範囲で短く動かすと、床から上がる低い響きが、小さくなった。
「変わった」
「うん。そこは変わった」
同じ言葉のあとに、彼女の顔が残った。
まだ工具をしまう顔ではなかった。
*
ミレイは、小さな計器を機関の脇へ置いた。
針の後ろに、目盛りと細い基準の線がある。彼女が決めた低い出力へ合わせると、針は線の近くへ落ち着いた。
床の震えが、足の裏から消えていく。
カイは、直った、と言いかけた。
針が、僅かに戻った。
機関の音が一つ、長くなる。
それから元へ寄る。少し間を置き、またずれた。
「聞こえた? 今の、間」
「二つ目が、少し遅い」
言い終えた直後、また同じものが来ると思って身構えた。けれど次は、すぐには来なかった。
ミレイはカイの顔を見ず、目盛りと時刻を見比べている。
聞こえるはずだと思って待つ耳と、目の前にある物を追う目。その二つが、別々に動いていることが分かった。
「取付部の響きは減った。でも、この間の揺れは残ってる。昨日の音が全部これだ、とは言えない」
「朝、お前が気にしてたのも?」
「似てる。だから比べたい。似てるだけで、あの船が落ちた理由まで言いたくないんだよ」
カイは機関から視線を外した。
昨日、岩の縁が窓の下へ消えた。綱が張り、足を置ける所が狭くなった。その一つひとつの間にも、機関の音はあったはずだ。
今から思い出せば、どの音でも危険の前触れに出来てしまいそうだった。
ミレイが出力を落とし、止めた。
響きが途切れると、港の綱が軋む音が戻る。
「上へ運ぶのは待とう。補給はするけど、通常の航路へ戻していいかは、この確認のあと」
「アベルには、俺から伝える」
「私からも作業の札を回す。あんたが言い忘れても、この艇まで勝手に飛んでいかないようにね」
カイは鼻で笑った。
言い返せる冗談が戻ってくるのは、有り難かった。
「俺の口も、昨日よりは直ってる」
「点検中って書いておこうか」
彼女は札へ、本当に点検中と書いた。艇の方へ結び、カイの襟には付けなかった。
*
工房の試験台には、別の小型機関が固定されていた。
ミレイが調整を確かめる間、カイは通路を空け、道具を渡す位置を訊いた。先ほどの艇から機関を引き剝がして来たのではない。工房に置いてある予備の機関だった。
机の上へ載せても、動けば何でも同じではないのだと、固定の具合から分かる。
「こっちは同じ条件でずっと回してる物じゃない。だから一回動かして、同じだって言うのはなしね」
「まず、何を見る」
「今の温まり方と出力。それから、揺れた時刻。音の大きさは、載ってる物が違うから、そのまま比べない」
細かな仕組みを、全部教え込まれたわけではなかった。
カイには、足元の艇を操る時に気にしていたことと、机へ留めた物を測る時に必要なことが、少し違うのだと分かった。
自分の知っている手応えだけで、彼女の計器を読むことは出来ない。
予備の機関が動いた。
初めは高い音が混じり、温まるにつれて落ち着いていく。ミレイはその間を、異常として大きく丸で囲まなかった。
一定の出力で待ち、針が基準の線へ寄ってから、新しい欄へ移る。
工房の窓へ、遠くの星の白い光が差していた。
カイが水差しへ手を伸ばしかけた時、針が動いた。
「今――」
「見た。触らないで」
ミレイは決めておいた範囲で出力を戻し、止めた。
大きな破裂も、床が浮くような事故も起きなかった。それでも彼女の指は、しばらく制御のつまみへ残っていた。
「別の機関でも、間隔が変わった。今日は、そこまで」
カイは、窓の外へ目をやった。
上にある白い星と、今止まった機関を、一つの線で結びたくなる。
だが、ミレイは紙の上で二つの試験を分けている。石も、配管も、動かした場所も違う。似た動きだけで共通の理由を決めることは出来なかった。
「機関のせいじゃない、とは言えないんだな」
「うん。分からない所が、増えた。でも、取付部だけ直せば済むって返さずに済んだ」
カイはその言葉で、もう一度艇の札を思い出した。
直して返す、の間に、戻さずに確かめる時間もあった。
窓際の水を分けてもらい、カイは台から離れて飲んだ。冷たいはずの水に、工房の金属の匂いが混じる。自分の手に残った匂いだと分かり、器を持つ位置を変えた。
ミレイは試験の紙を揃え、壁の別の作業札へ目を向けた。そこにも船の名がある。
「このあとも、船か」
「うん。止められない便もあるから、先に人を回してある。私がここを見ている間、あっちまで止めたことにはしないよ」
カイは、昨日の港に自分の知らない人が何人いたかを考えた。窓へ綱を渡した人も、戻る桟橋を空けた人も、ずっと自分の後ろで働いていた。
ミレイも、いま初めて来たような顔で全てを引き受けたわけではない。
「夕方には、夫と使う部材を確かめる約束もある。今日、分かったことは今日の分で渡して。分からない分を、夜までこっそり足さないでね」
「それ、俺の報告が心配なのか」
「私が気になって、帰るのを忘れる方も」
ミレイは笑い、水を飲み切った。カイも器を返し、紙にある所見と、二人で話した予想を頭の中で分け直した。
*
アベルは帳場で、杖を椅子へ立て掛けていた。
カイは検査の札を渡し、借用艇を下へ留めたままにしていることを伝えた。補給と取付部の作業、まだ済んでいない検査。費用の明細も精算も、これからだ。
元親方は聞き終えると、札を受取票とは違う所へ挟んだ。
「分かった。今日の便には入れん」
「配達の分も、まだ受け取ってない。朝の二箱は、ちゃんと届いてる」
「その署名は持ってるな」
カイが防水袋を示すと、アベルは頷いた。
「なら、まとめて捨てるな。救難の話が大きくても、済ませた配達まで消えはしない」
昨日から、忘れていないかばかり数えていた。
果たした仕事も、一緒に持っていてよかったのだと思うと、少し腹が減った。
アベルが机の端の包みを顎で示す。中身は薄いパンだった。
「食ってから動け。ミレイの話を、今からほかへ運ぶんだろう」
「何で分かる」
「帰る顔をしてない」
カイは包みを取った。礼を言うと、親方はもう次の札を見ていた。
パンは昨日の魚より塩気が薄く、噛むうちに、口の中へ麦の甘さが残った。食べながら話を進めず、いったん座ってから、もう一度札の項目を読んだ。
自分が聞いた通りに運ぶには、覚えた気になるだけでは足りなかった。
*
施療所では、セナが窓へ顔を向けていた。
右足首の支えと、腕の包帯は残っている。寝台の脇には昨日の受付の控えがあり、箱はそこへ移ってきていなかった。窓まで歩いて行った跡もない。
カイは先に面会してよいか確かめ、寝台から離れた椅子へ座った。
「艇、返せた?」
セナの最初の問いは、自分の資料のことではなかった。
「まだ下の桟橋だ。ミレイが見てる。乗った時の響きは一つ直ったけど、それだけで返せない所があった」
セナの目が、カイの手元へ動いた。
「それ、聞いてもいい?」
「いい。けど俺が測ったんじゃない。機関士のミレイだ。書いて渡していいか訊いて、これを持ってきた」
カイは彼女の手の届く台へ、二つの試験を分けた控えを置いた。
商会の箱の中身を勝手に見せてもらったわけではない。ミレイが自分の仕事で見た、渡してよい範囲の記録だった。
セナは紙を引き寄せ、初めに時刻を見た。
「出力は……この間、同じ所へ合わせてた?」
「そのつもりで調べた、と言ってた。細かいことは、俺の言葉で埋めない方がいい」
セナが頷いた。顔に戻りかけた研究の熱が、次の息で一度止まる。
カイは紙へ伸びる指を待ち、続きを急かさなかった。
「私、船の機関を自分で調整したことはないの。観測の数字と、同じ種類の揺れかどうかも、この紙だけでは」
「じゃあ、分かる人同士で話してくれ。ミレイも、一回聞きたいって。ここで話せるかは、お前が休んでから決めればいい」
セナは紙を持つ手を少し下げた。
「……話したい。時刻を分けて書いてくれたの、助かる」
役に立つと断言されたわけではなかった。
それでも、カイ一人の耳に残っていた音へ、ほかの人が確かめる場所が一つ出来た。
「伝える。今日はまだ、あの星が落ちる理由は知らないままだ」
窓の上を指すと、セナはつられて空へ目を向けた。
「私も、分かったことだけで話したい。……それで、止められるなら」
声の最後が細くなった。
カイは、止められるさ、と先に答えなかった。紙を持つ手が疲れたのを見て、台の位置だけを少し寄せる。
「じゃあ、次の便も、宛先を間違えないようにする」
セナが、ほんの少し笑った。
港の機関士と、歩けない研究者。その二人を、カイは昨日まで同じ道へ置いて考えたことがなかった。
廊下へ出ると、遠くで機関の音がした。
今度は、似ているからというだけで、足を止めなかった。
聞こえた場所と時刻を覚え、誰へ渡すかを考えながら、窓の白い光の下を歩いた。




