その人は、積荷ではない
【前回までの人物】
・カイ・レイヴァン:自由港カレドの運び屋。救助後の記録と借用艇の帰着を報告し、セナの書いた観測記録の閲覧依頼を窓口へ届けに向かった。
・セナ・ルーヴェ:星図の研究者。右足首の固定と腕の手当てを受け、今夜は施療所に留まる。研究資料の箱は、本人の申告と救難記録を残して港が未開封で保管している。
・アベル:カイに綱の仕事を教えた元親方。救助から戻ったカイへ食事を持参し、艇の点検と補給を済ませるよう話した。
記録窓口の前で、カイは防水袋を開いた。
朝の配達の受取票を、先に出しかけた。
指を止め、別の仕切りからセナの紙を取る。港で何年荷を運んでいても、疲れた手が正しい紙を勝手に選ぶわけではなかった。
「観測記録を見たいって相談を、預かってきた。本人は、いま施療所だ」
窓口の女が、紙を受け取った。
鼻へ掛けた小さな丸眼鏡を上げ、セナの署名から依頼の項目へ目を移す。耳の後ろに短い黒髪を挟むと、束ねた記録の背へ、細い木札を差した。
「記録係のネリです。お預かりしますね。届けてくださった方のお名前も、お願いします」
「カイ・レイヴァン。書いたのは、このセナ・ルーヴェだ。俺は運んだだけだから、詳しいことは、あの人に聞いてくれ」
カイが署名の上を指すと、ネリは別の控えを一枚抜いた。
「分かりました。今日はお預かりします。何を見て頂けるか確かめて、本人へ返事を回しますね」
水面からの照り返しが、窓口の天井へ揺れていた。
ネリは紙の欄外に、施療所への届け先を書き足す。持ち帰れるのは受付の控えで、観測帳そのものではなかった。
「普通の港の観測記録と、事故で保全している記録は、扱いを分けます。今日の船については、別の係にも照会が要るので」
「頼む。返事は、施療所へ届けてくれ。窓口へ来いと言われても、本人は今、歩けないんだ」
カイが届け先の欄を見ると、ネリはそこへ木札を添えた。
「ええ、施療所へ届けます。返事の読み方で困った時も、ここへ声を掛けてください」
カイは受け取った控えを畳んだ。
最後の便は、ひとまず届いた。
そう思って顔を上げたとき、後ろの足音が止まった。
「失礼。調査船から、資料の箱を運んだ方ですか」
*
男は、海風の入る窓から少し離れて立っていた。
襟の高い濃紺の上着。灰色を帯びた髪を後ろへ撫で、右手に革の筒を持っている。靴の縁は濡れていたが、上着に石切り場の粉はない。
救難へ入った人間ではなかった。
「箱なら、港の保管室だ」
カイは答えた。
相手は、その答えに驚かなかった。
「聞きました。私はオルセン・リク。調査航海に費用を出した、レムス測量商会の代理人です。回収品の照合に来ました」
オルセンは革の筒から書面を出した。
カイへ突きつけず、ネリの方へ向ける。
「船と観測器材の契約、運送する図面の目録です。保管の担当へ回して頂きたい」
ネリは自分が受け取れる範囲を告げ、保管室への取次票を出した。
カイは、そこまでは聞いていた。
船を失った者が、金を出した航海の荷を調べに来る。それ自体が、おかしなことではない。
「ルーヴェさんの居場所も、教えて頂けますか」
オルセンが、カイへ向き直った。
「面会なら、施療所で訊いてくれ」
カイは控えを防水袋へ戻した。オルセンはまだ、その場を離れなかった。
「本人に確かめたいことがあります。研究の原図も運んでいたはずです。箱を見ただけでは、仕分けができませんので」
カイは、男の指先を見た。
紙を押さえる親指の脇に、細い白い傷があった。丁寧な上着の下にある手も、何もしていない手ではなかった。
それでも、セナの右足首の状態を、この男はまだ知らない。
「右足をひねって、腕も切ってる。今日は、長くは話せないぞ」
オルセンは廊下の方を見た。
「では、先に施療師へ相談しましょう。こちらにも休める部屋はあります。移動できる状態なら、そちらで落ち着いて話せます」
断られると思っていたのかもしれない。
返事が、早かった。
*
保管室の前には、まだ濡れた綱の束があった。
係員が次の荷札を探す間、オルセンは窓際へ書類を置いた。商会の印、船の名、契約の番号。カイが読んでも、出された物の正しさ全部を確かめられるわけではない。
だから、分かるところだけを見る。
目録には、測角器や台座、箱に入れた用紙の束が載っていた。
「あの箱も、この目録に入ってるのか?」
カイの問いに、オルセンは一つの行を指した。
「ええ。ここです。観測図を含む記録一式」
確かにそう書いてある。
だが、カイは防水布の下を見ていない。セナは、自分の研究の原図だと言った。
「箱の外に貼ってあった言葉と、似てる。それ以上は、俺には分からない」
オルセンの眉が、わずかに寄った。
「では、回収した時点では、内容の照合はされていないんですね」
「救難の最中だ。開けるより、出す方を先にした」
カイは、箱を抱えていたセナの腕を思い出した。
「本人が持ってたから、一緒に出した。それだけだ」
係員が、二人の間へ受領の控えを置いた。
セナの申告と、救難で回収した記録は、どちらも残っていた。
新しい書類が来たからと、古い申告が消えるわけではなかった。
保管室の係員は、二人の書類を別々に重ねた。
「今日、この書類だけでの引き渡しはできません」
保管係はセナの申告の控えを、商会の目録の隣へ置いた。
「こちらには、乗船前の個人の資料があるという申告もあります。両方を審査へ回し、まず範囲を確かめます」
オルセンの顎が、わずかに上がった。
「湿気で原図が傷めば、損失が出ます。調査の再開も遅れる。保管の責任は、どちらへ」
係員は、状態確認の欄を開いた。
「傷みが心配という申出は、今、受けます。保管の状態は確かめますが、それと引き渡しの返事は分けさせてください」
カイは、箱が置かれた扉を見た。
荷を置けば終わるはずだった場所で、まだ誰も、何を預かっているかを同じ言葉で話せていなかった。
オルセンは書類を揃えた。揃え直す指に、さっきより力が入っていた。
その端が、硬い音を立てた。
「では、ルーヴェさん本人と話します」
*
施療所の廊下は、さっきより静かだった。
薬を煮る匂いの奥に、乾いた布の匂いがする。
受付で面会の許可を待つ間、オルセンは薄い手袋を外した。指を一度曲げてから、畳んだ物を上着へしまう。
「レイヴァンさん。もう一度、運送をお願いできるなら、運賃と手間賃はお支払いします」
カイは男を見た。
「待ってくれ。何を運ぶ話だ」
カイが顔を上げると、オルセンは廊下の奥へ目を向けた。
「ルーヴェさんと、必要な荷です。医師の許可が出れば、商会の療養所へ。箱も引き渡されれば、同じ便に乗せられます」
人と箱が、一つの運送の話になっていた。
桟橋で積み忘れを防ぐなら、悪くない段取りだろう。
だが、寝台にいる人間は、自分で依頼を書いた。
港に残り、記録を確かめたいと。
「待て。セナから、そっちへ行くって返事をもらったのか」
カイが尋ねると、オルセンは手袋をしまいかけていた手を止めた。
「調査が止まっています。報告を受け、今後を相談する必要はあります」
「報告の話は、俺には決められない。でも、泊まる所まで、先に荷札へ書くなよ。行き先は、本人に聞いてくれ」
声が硬くなった。
自分でも分かった。
カイは壁から背を離し、男の正面を塞がない位置へ立った。
「運賃は、そのあとだ。俺は、あの人から運んでくれって頼まれてない」
オルセンはしばらく黙った。
廊下の奥で、器が触れ合う音がした。
「では、その返事を本人から聞きます」
ようやく、同じ場所まで戻った。
*
セナは、寝台の背を少し上げてもらっていた。
青みのある黒髪の編み目は、石粉を拭って少し緩んでいる。腕の包帯は白いままだった。右足は支えの上に載せ、こちらを見ても足先を動かそうとしない。
施療師が、面会は短く、と先に告げた。
カイが受付の控えを渡すと、セナの目が文字を追った。
「……受付の控えだ。届いたんだね。ありがとう、カイ」
そのあとで、セナはオルセンを見た。
名乗りを聞くうちに、左手が紙の端を掴む。
「航海の契約を扱っている方ですね」
「商会で、器材と資料の返還を担当しています。事故は残念でした。船の皆さんが戻ったと聞いて、ほっとしました」
セナは小さく頷いた。
男は椅子へ座る前に、書類を示した。
「契約に従い、調査で得た記録の保全と、帰着後の報告をお願いしたい。港の保管室には、まだお渡ししない物があると伺いました」
「あの箱、乗る前から私が作っていた原図も、入っています」
セナは、膝に置いた控えを押さえた。オルセンが書面の端を繰る。
「航海中の照合にも、使ったはずですね」
「ええ、使いました。でも……どれを渡す話なのか、中を見て確かめたいんです。目録だけで、箱ごと、とは言えません」
カイには、どちらの書類が強いのか分からなかった。
セナが全てを自分の物だと言っているわけでも、商会の男が中身の全部を見たわけでもないことだけは分かった。
「こちらへ移れば、落ち着いて確認出来ます」
オルセンが、療養の部屋の話をした。
食事と医師の手配。机を使える場所。同行する者も出せるという。
セナは、魅力がないとは言わなかった。
灰青色の目を閉じ、少し呼吸を置く。
「今夜は、ここにいます」
返事は、短かった。
「明日、頭ももう一度診てもらいます。港の観測記録も、見られるか相談したところです。……まだ、ここで確かめたいことがある」
「記録でしたら、商会でも集められます」
オルセンが身を寄せると、セナは顎を引いた。
「何が、いつ届くかを、先に教えてください。……今すぐは、移れません」
セナの声が、最後だけ少し細くなった。
強い返事をしたから、身体の疲れが消えるわけではなかった。
*
「資料の確認まで、商会以外の方へ内容を見せないで頂きたい」
オルセンが言った。
「未検証の数字が広がれば、航路を使う者にも影響します。誤りがあった場合、私どもの名で進めた調査の責任になる」
その懸念を、カイは笑えなかった。
空の風が少し変わっただけで、荷の順も、燃料も、人の帰る時間も変わる。噂で船が止まれば、困る者は確かにいた。
セナは、控えを膝へ置いた。
オルセンは、革の筒を握り直した。
「船を出すために、機材を集め、船員を雇いました。失った物がある以上、記録まで行方が分からなくなることは避けたい。雇った者へ、次の仕事を説明する材料も要ります」
セナは顔を上げた。
「船で測った分を、隠すつもりはありません。報告も……します。でも、あの箱を、全部一緒にはしないでください」
セナは、巻かれた包帯の端へ触れかけ、手を膝へ戻した。
男の握った筒が、少し下がった。
声を強くするだけでは、相手の求める物が全部消えるわけではなかった。セナも、元の約束から逃げるために箱を守っているのではないらしい。
カイは、そのやり取りを黙って聞いた。
「間違いがないか、ほかの記録と比べたいんです。確かめるまで公表しない、なら分かります。……でも、商会以外の誰にも見せない、では。照合が、できません」
オルセンの目が、カイへ動いた。
「この方には、どこまで見せたんですか?」
「箱の札だけだ。原図は見てない」
セナが答える前に、カイは言った。
セナがこちらを見たが、説明を足さなかった。
救った人間の秘密なら、もう知っていて当然ということにはならない。
「今日は、ここまでです」
施療師が、寝台の脇へ来た。
指輪を外した手で、セナの腕の置き方を確かめる。
「ルーヴェさんは、もう休みます。次のお話も、診察のあとにしてください。移動できるかは、こちらでもう一度診ます」
オルセンは口を閉じた。
書類を巻き直し、セナへ短く頭を下げる。
「では、明日、目録の写しを持参します。商会の連絡先は受付へ残します。確認の日程を、返して頂きたい」
セナは小さく頷き、控えを持ち直した。
「目録は読みます。私の原図については、その返事に書かせてください」
同意には至らなかった。
けれど、男は勝手に寝台を動かす者を呼ばず、紙を残して出ていった。
廊下の靴音が遠ざかるまで、セナは手元の控えを見ていた。
*
「移るかどうか、私に訊けって言ってくれたんだね」
扉が閉まってから、セナが小さく言った。
カイは、椅子の背から手を離した。
「ああ。行くって、まだ聞いてないからな」
カイの返事に、セナは目を伏せた。
「先に、私を運んでくれって頼まれてたの?」
「頼まれた。けど、俺が先に返事をする話じゃないだろ」
彼女の指が、紙から少し緩んだ。
「ありがとう。私、何から答えればいいのか、分からなくなりそうだった」
紙を持つセナの手は、もう力が入っていなかった。カイは椅子の背へ肘を掛けかけて、やめた。
「俺にも、契約のことはさっぱりだ。箱を出せるかどうかは、分かる人間に見てもらおう。俺の勘じゃ、紙の代わりにならない」
カイは、商会の目録が回される先を伝えた。
保管室の係員が、引き渡しと状態確認を分けて受けたことも。
彼女は最後まで聞き、頷いた。
「明日、箱を開けることになったら、私も内容を確認したい。ここから動けなければ、どうするか相談したい」
「受付へ伝える。開けるなら、セナにも中を見せてくれって。ここから、どう確かめるかも聞いておく」
窓の外で、荷車の車輪が石の継ぎ目を越えた。
セナの目がそちらへ向き、すぐに戻る。
「この港の記録、見られるかな」
カイは、寝台脇の受付の控えを指した。
「返事は、ここへ届けてもらう。歩けないって、ちゃんと伝えた。……見られるかどうかは、まだ俺にも分からない」
出来ると約束するより、小さな答えだった。
セナはもう一度受付の控えを読み、寝台脇の乾いた台へ置いた。
「じゃあ、今日は、それを待つ」
*
廊下へ出ると、潮の匂いが少し強くなっていた。
港の鐘が、次の荷役の区切りを告げる。
カイは防水袋の中を確かめた。朝の軸受の受取票は、まだそこにある。セナの依頼は届けた。箱は港の保管室。借りた艇は、下の桟橋で点検と補給を待っている。
どれも、頭の中で並べなければ、簡単に落としそうだった。
カイは受付で明日の目録確認の希望を伝え、それから外へ出た。
夕方の光が、係留柱の片側だけを白くしていた。
手の震えは、さっきより静かだった。疲れが消えたのではない。少なくとも今は、立っている場所が動かないと、身体も分かってきたらしい。
桟橋の向こうで、機関の回る音がした。
一度高くなり、落ち着くはずの所で、低い音が残る。
カイは、足を止めた。
朝、ミレイが気にしていた音に似ていた。
同じ原因だとは分からない。今日落ちた船と結びつける材料もない。
ただ、明日の仕事へ戻る前に、訊いておきたいことが増えた。
空を見上げる。
白い星は、まだ港の上にあった。
あの箱の中に、いつ落ちると書いてあるのか。
カイは知らない。
けれど、それを確かめようとしている人を、荷物と同じ便へまとめて送り出す気にもなれなかった。
最後の便を終えた運び屋は、朝の受取票を胸へ戻した。
明日はまず、ミレイの工房へ寄る。
借りた艇のことも、その音のことも、自分が見た分だけ話そうと思った。




