八人目の名前
【前回までの人物】
・カイ・レイヴァン:港の運び屋。救難隊と連携して生存者を救い、小型艇で下の救難桟橋へ戻った。
・セナ・ルーヴェ:調査船に残っていた星図の研究者。右足首と腕を負傷し、これから施療を受ける。港の観測記録を確かめたいと話した。
・港の救難隊:足場と綱を確保し、カイと救助を分担した。調査船の八人のうち、七人は救命艇での避難を確認済み。セナが八人目だった。
桟橋へ足を下ろした途端、カイの膝が一度折れた。
倒れはしなかった。
係留柱へ手を置き、靴の下がもう動かない板なのだと確かめる。艇の揺れに合わせていた身体だけが、まだ、足元の傾きを待っていた。
「あんたも、一度座るか。そこ、椅子がある」
担架を運ぶ港員に訊かれ、首を振りかけた。
けれど、担架へ移されたセナが、こちらを見ていた。
さっきまで彼女へ、無理に立つなと言っていたのは自分だ。
「……この綱、あと一本だけ。留まったら、座る」
係留の結び目を指す。
港員がもう一本の綱を取り、艇の後ろを押さえてくれた。
カイは、ようやく船縁から手を離し、係留柱の脇の椅子へ腰を下ろした。担架が揺れずに移されるのを見ながら、二度、息を吐く。
立ち上がって資料箱を持ち上げると、防水布の角から石の粉が落ちた。
セナの灰青色の目が、箱を追う。右足首は、手当てをする者が添えた板の上に載っていた。立って追おうとはしない。
「箱も、施療所まで持っていく。見える所へ置くから」
カイが言うと、彼女は頷いた。
短い返事が、今度ははっきり聞こえた。
*
港の施療所は、救難桟橋の奥にあった。
戸が開くたび、海の塩気と、煮出した薬草の匂いが入れ替わる。
廊下には濡れた外套が掛かり、長椅子の下へ幾つもの靴が揃えてあった。船で使う物より低い天井が、カイには妙に頼もしく見えた。
「箱は、そちらの机へ。ルーヴェさんの担架は、こちらへお願いします」
袖を肘まで上げた施療師が、別々の場所を示した。
こめかみの髪を後ろへ撫でつけ、指輪を外した手で担架を受ける。港へ運ばれてくる人間を見慣れた動きだった。
カイは、セナから見える机へ箱を置いた。
本人がいるのに、誰へ渡したか分からなくなる運び方はしたくなかった。
「右足首をひねった。腕に傷。頭を打ったかは、本人も覚えていない」
救難班長の伝えたことと、自分が聞いたことを引き継ぐ。
施療師はセナ自身にも問い、今、痛む場所を確かめた。
青みのある黒髪の編み目には、まだ白い石粉が残っている。
セナが足の方を見ようと身体を起こしかけると、施療師は肩へ手を添えた。
「いまは、頭を戻してください。足はこちらで診ます。何をしたかは、あとで説明しますから」
その声は静かだった。
セナは、少し迷ってから枕へ戻った。
腕を押さえていた布が外される。
カイは視線を扉へ向けた。ここから先の処置を、自分が見ている理由はない。
「俺は外にいる。箱も、ここから動かす前に声を掛けるよう、頼んでおく」
扉へ向いたカイを、セナの声が追った。
「待って、カイ」
セナの声に、足を止めた。
「船の人たちに。私が戻ったって、まだ、伝わっていなかったら」
言葉の後半が、少し細くなった。
「確かめてくる」
カイは、今度はすぐに答えられた。
*
廊下へ出ると、班長が濡れた手袋を外していた。
顎の灰色の髭に、岩の粉が残っている。
「ほかの七人には、戻ったって伝わってるか。あの人が、気にしてる」
手袋を畳んだ班長が頷いた。
「知らせた。船長が、こっちへ向かってる」
班長は用紙を開いた。
カイに、接近した時刻と、救難艇が来るまでに何をしたかを訊いた。
時刻を、正確には覚えていなかった。
短笛を吹いたこと。監視台の旗を見たこと。船首側から声を掛けたこと。
順に話すと、班長は曖昧な時刻へ無理に数字を入れず、港の記録と合わせると答えた。
「箱のために、中へ戻った者は?」
「いない。窓の足元に、本人が持っていた」
「そこは、書いておく」
紙を押さえる指が、泥で汚れていた。
救難の記録を残す手も、さっき綱を持っていたのと同じ手だった。
奥から、靴音が近づいた。
青い線の入った上着を着た男が、廊下の入口で止まった。片側の袖が裂け、肩には乾きかけた水の跡がある。カイは、落ちた船の船体と同じ色だと思った。
「ルーヴェさんは、こちらですか。生きて――」
男の声に、班長が扉を指した。
「中で手当てを受けてる。八人目、戻ったよ」
班長の返事に、男は壁へ手をついた。
肩が下がった。
息を吐くまでの、長い時間だった。
「船長だ。乗員名簿と、ほかの六人の確認は、もう港務へ渡した」
男はカイへ名乗る代わりに、まずそう言った。
自分を含めて七人。
それから、扉の向こうの一人。
「呼ぶ声は、聞こえてたそうだ。彼女も、返事をしたって」
カイが伝えると、船長の手が壁から離れた。
「返事を、待った。だが、船首の床が落ちて、そこからは声が届かなかった。こちらへ戻る道も見えず……救命艇へ移ってから、隊へ最後の位置を伝えた」
短い説明だった。
カイの見た破れた船首と、曲がった戸の向こうへ、別の側から見た道が重なった。
窓の女の返事も、船長の呼び声も、そこにはあった。
届かなかったものを、なかったことには出来ない。
処置室の戸が開いた。
施療師が顔を出し、短い面会なら構わないと言う。
「面会は短くお願いします。今夜は、こちらで休んでもらいます。歩いて帰る話は、まだしないでください」
船長が頷いた。
カイは箱の置かれた机の脇へ立ち、二人の間を空けた。
*
セナの右足首は、包帯と支えで固定されていた。
腕にも新しい布が巻かれている。
血の跡は見えなくなったが、疲れまで消えたわけではない。顔を上げるたび、瞼が重そうに落ちた。
「船長……ほかの、皆さんは」
船長を見るなり、セナが訊いた。
「全員、生きて戻った。傷を診てもらっている者もいるが、名簿の八人は、これで揃った」
セナは唇を結んだ。
頷いたあとも、すぐには次の言葉が出なかった。
「呼んでくれたの、聞こえていました。返事を、したんです」
「ああ。……聞き取れなかった。すまない」
「資料を取りに残ったんじゃなくて。通路が落ちて、窓の方に戻ったら、もう……」
船長は寝台へ寄り、声を落とした。
「分かっている。道がなくなったことも、隊には話してある」
船長が寝台の脇へ腰を下ろした。
セナは、ようやく膝へ落としていた左手を開いた。
カイは机の角に残る石の粉へ、目を落とした。
さっき岩の上で聞いた声が、同じ部屋で、お互いへ届いている。
それを確かめたかったのかもしれなかった。
船の浮揚器について、船長は港の調べに協力すると言った。
乗っていた機関の担当者も、出航前と異変が起きたあとの状態を説明するという。
何が悪かったかは、まだ誰も決めていない。
「船の物と、個人の手荷物は、港務が分けて確認する。君の箱も、その記録へ載せることになる」
船長の視線が、防水布の包みへ動いた。
セナの指が、寝台の端を掴む。
「あの箱には、私の原図もあります。……開ける前に、知らせてください。誰かに渡すときも」
「その希望も、記録してもらおう」
船長は、勝手に約束を大きくしなかった。
ここで荷物の権利まで決まるわけではない。
カイにも、それくらいは分かった。
*
箱は、施療所に近い港務の保管室へ預けることになった。
セナの持つ資料だという本人の申告と、調査船から救難で回収した品だという記録を、同じ札へ残す。
中は、開けなかった。
濡れていない防水布を、確認のためだけに剥がす必要はないと、担当者が判断した。
カイは箱を持つ前に、行き先をセナへ伝えた。
「保管室は、廊下を出てすぐだ。預かり票は、ここへ持ってくる」
「カイが、持っていってくれる?」
「運ぶ所までは、俺が。受け取った人の名前も、控えにして持ってくる」
セナは少し考えた。
箱を自分の腕へ戻せば、守れるという状態ではない。
足の包帯を見てから、頷いた。
「お願いします」
カイは、包みの下へ腕を差し入れた。
石切り場で受け取ったときと、同じ重さだった。
けれど、もう、窓から急いで出すための荷物ではない。
保管室で、受け取った者の署名を確かめる。
箱の薄い金属蓋に貼られた札も、外から見えるままにした。
観測図。
落下予測。
二つの言葉を写した控えが、カイの手に残った。
*
桟橋へ戻ると、アベルが係留柱の脇に立っていた。
太い眉の下で、目だけが艇の底を追っている。短い白髪が風で逆立ち、杖の先が板の継ぎ目を一つずつ選んでいた。
カイに綱の仕事を教えた元親方だった。
「港務から聞いた。借用艇が下に戻ったとな」
「まだ、帳場へ戻れてない」
「だから、こっちへ来た」
アベルは布の包みを差し出した。
持った瞬間、手の中へ、まだ温かさが残っていると分かった。
魚と、パンだった。
「魚だ。昼飯、まだだろ。艇の話は、それを食ってから聞く」
カイは、何か言い返そうとした。
けれど、腹が先に鳴った。
アベルは聞こえなかった顔をして、先に長椅子へ腰を下ろした。
魚の皮に、薄く塩が吹いていた。
指で身を割ると、白い湯気がほどける。口へ入れた塩気が、乾いていた舌へ強く当たった。
カイは、ゆっくり噛んだ。
救難桟橋の前では、止めていた荷車を港員が少しずつ通し始めていた。
朝見た魚の箱が、今は逆の方へ運ばれていく。
港の仕事が、元へ戻りつつあった。
「……乗ってた連中は」
アベルが訊いた。
「八人とも。調査船に乗ってた人数は、揃った」
「そうか」
それだけ言い、アベルは海を見た。
カイも、同じ方へ顔を向けた。
四年前の話を、親方はしなかった。
今日の八人を、あの日の代わりに数えもしなかった。
魚の骨を包み紙の端へ寄せる。
カイは、自分の手が少し震えていることに気づいた。
岩の上では、もう少しまっすぐ持てていたはずだった。
「……もう、艇は動かしてない」
アベルは、震える手から海へ目を移した。
「こぼしてもいい。食える分、食っとけ」
カイは、紙を膝へ置いた。
息を、ひとつ長く吐く。
潮の匂いがした。
さっきまで、ずっと吸っていたはずの匂いだった。
*
艇の燃料は、上の桟橋へ自力で戻すには、余裕がなかった。
低い航路で帰った判断と、残った量を、港務の貸出帳へ伝える。
綱と艇の状態も、帰着の記録と一緒に残した。船底の継ぎ目は、ミレイから朝に点検を勧められていた場所だ。
見た目でひびが増えていなくても、それだけで次へ貸せるとは言わなかった。
「動かす前に、点検と補給を頼む。俺の判断だけで、上へは戻さない」
借りた赤い信号布は、戻ってきた救難隊へ返した。
隊員はそれを受け取り、次に使う布とは分けて、汚れた物の袋へ入れた。
朝に納めた軸受けの受取票は、防水袋の中に残っていた。
こちらの仕事の報酬も、まだ受け取っていない。
事故があったからといって、朝の仕事まで、なかったことになるわけではなかった。
アベルは、帳場の処理が済んだら、自分の足で帰れ、とだけ言った。
「運ぶ仕事が残った顔をしてる」
「そんなに分かるか」
「お前が何か頼まれたときの顔は、何年見てると思う」
カイは、保管品の控えを見た。
確かに、まだ一枚、届けていない紙があった。
*
セナは、寝台の背を少し上げてもらっていた。
頭や目の様子も含めて、明日、もう一度診ることになったという。右足には体重を掛けず、今夜は施療所に留まる。
腕に巻かれた布が、新しく血を吸っている様子はなかった。
それで全部よくなったと、自分から言い出すこともなかった。
預かり票を渡すと、セナは上から下まで読んだ。
受け取った担当者の名、保管した場所、包みを開けていないこと。
最後の一行を、指先でなぞる。
「開けていない、って……書いてある。ありがとう。ここまで、残してくれたんだね」
「届いたかどうか分からない荷物は、こっちも落ち着かない」
セナが、わずかに笑った。
石切り場で会ってから、初めて見る表情だった。
「運ぶ人の言い方だね」
「荷札のある話なら、少しは分かるからな」
寝台の脇に、小さな紙と筆が置かれていた。
セナが施療師へ頼んで出してもらったものだという。
「観測記録を見たい、って話」
カイが言うと、セナは紙を引き寄せた。
「ここへ書こうと思っていた。港の人に、何をお願いしたいか。足が治るのを待ってから、最初の説明をするより、先に渡せるなら」
「どこへ届ける?」
「観測記録を管理している所。私は、窓口もまだ知らない」
率直な答えだった。
自分が何を調べたいかは分かっていても、この港で、誰がその紙を受け取るかまでは知らない。
カイは椅子を寄せた。
「セナ。その紙、誰に渡すか決める前に、一つ聞いていいか」
セナが頷く。
「星が落ちるって。今日、落ちた船のせいで、そう思ったんじゃないんだな」
「違う。船に乗る前から調べていた。あの箱には、その記録がある」
「いつ落ちるかは?」
セナは、窓の外へ目をやった。
切り取られた空には、まだ光が残っている。
「今、私の数字だけで、港の人を逃がしてと言えるほど、確かではない。だから、ここで測ったものと比べたい」
声が、はっきりしてきていた。
助けを呼ぶ声ではなく、仕事の話をする声だった。
「合っているかだけじゃなくて……どこから違うのかも、知りたい。私が、間違えてるなら。それも、早く」
カイは、朝、ミレイの所で聞いた機関の話を思い出した。
浮揚が安定しないこと。部品が、見込みより早く減ること。
同じ原因だとは、まだ思わなかった。
ただ、別々の場所で見ていた者が、話せる所へ持ち寄る必要はあるのだろう。
「港務の記録の窓口なら、案内できる。今、書ける分を持っていく」
「お願いしたい。……急がせてしまう?」
カイは窓の外の旗を見た。
次の荷役が、もう動き始めている。
「今日は、この紙で最後にする。届けたら、俺も帰るよ」
セナは頷き、紙へ自分の名前を書いた。
セナ・ルーヴェ。
観測記録の閲覧と、照合についての相談。
八人目の帰着を記した名前と、同じ名前だった。
けれど今、その下には、彼女がこれからしたいことが書かれていた。
カイは紙を乾かしてから、防水袋へ収めた。
朝の受取票とは、別の仕切りへ入れる。
何を運んでいるか、少し分かった。
だからといって、空のどこが変わるのかは、まだ分からなかった。
施療所を出ると、港の鐘が鳴った。
いつもの仕事を進めるための鐘だった。
カイは高い空を見上げた。
白い星が、一つ浮いている。
朝と同じ場所に見えた。
その下で、港の人々は、動き始めた荷車を押していた。
防水袋を胸の内へ戻し、カイは記録の窓口へ向かった。




