↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
2/28

帰る舟に載せるもの

【前回までの人物】

・カイ・レイヴァン:自由港カレドの運び屋。帰路に調査船の墜落を目撃し、通報後、小型艇で船首側へ接近した。

・港の監視員:通報を受けて救難艇を出し、航路を空けた担当者。カイの接近位置を救難隊へ伝えている。

・調査船に残る女性:割れた窓から応答した生存者。船の左側の岩が動いたとカイへ知らせた。名前も職業も、カイはまだ知らない。

 予備の綱は、船ではなく岩へ取った。


 カイは古い石積みの環をもう一度引き、根元へ指を当てた。

 周囲の石に、新しいひびはない。ざらついた粉が指の腹へつき、吸い込んだ風には、折れた木材の匂いが混じっていた。

 それでも、重さを掛けきる前に、足の裏で一歩ずつ確かめた。


「窓の下までなら、行ける」


 聞こえる声で言う。

 割れた窓の向こうで、女が頷いた。


「そっちから、右の戸は見える?」


 窓の女が、見えない手で指すように肩を動かした。カイは曲がった枠を見上げる。


「あの、枠が潰れた戸か」


「そう。開かない。階段も、落ちた。船尾には戻れない」


 窓までの距離は、跳んでどうにかなるものではなかった。

 手前の岩棚は狭く、船体との間に裂け目がある。下を見れば、粉をかぶった岩の先に海が見えた。


 窓枠へ、すぐ綱を掛ける気にはなれなかった。

 船が動けば、そちらへ引かれる。


「今、そこに何人いる?」


「見える所は、私だけ。出たときは……八人。船には、八人いた」

「救命艇は二隻、出た」

「船長が、そっちから呼んでくれた。でも、そのあと、床が……」


 言葉の途中で、彼女は奥を振り返った。

 助けを待っている間も、船の音を聞いているらしい。


「足は? 動かせるか」


 返事の前に、女の姿が少し沈んだ。


「右を、ひねった。立てる。でも、踏むと痛い」

「血が出てる所は?」


「腕。いま、布で押さえてる。……ひどくは、ないと思う」


 カイには、その傷が見えなかった。

 本人が大丈夫だと言っても、ここから大丈夫だと決めることはできない。


「頭は打った?」

「覚えてない。落ちる前と後のことは、分かる」


 その答えを聞いている間に、下から機関音が上がってきた。

 カイは顔を向け、赤い信号布を振った。


 救難艇が、崖の外を回っていた。

 母船へ真っすぐ寄せず、一度海側へ離れ、風を受ける角度を変えている。

 浮揚器を大きく使えない場所だ。砕けた石が、まだ時折、船底の下へ落ちていた。


 救難艇の舳先で、一人が腕を上げた。


「船首に一名! 右の足を負傷、腕にも傷! 中の階段は落ちてる!」


 カイは声を張った。

 向こうから、受けたという手の合図が返った。


 来ている。

 自分だけで、全部を決めなくていい。


 喉の奥に詰まっていた息が、少し動いた。


     *


 救難艇には、三人が乗っていた。


 舵を握る若い男が、短い黒髪を風に煽られながら、艇を風の外へ置く。

 もう一人、髪を頭巾へ収めた日に焼けた女は、崖の上に残った作業用の留め場を見つけ、長い綱を渡した。

 先頭の、顎に灰色の髭を残した男が、岩棚へ下りてくる。


「その環、動かなかったか」

「引いた範囲では。こっちの二つで、小舟を取ってる」

「そのまま取っておけ。君の艇は君の綱。こっちへつなぐと、両方引かれる」


 男は自分の命綱を確かめた。

「班長、こちらの綱は取れた」

 艇側の女の声へ、顎を一度引いて答える。カイが取った環へ頼りきらず、救難艇からの綱も別に残す。


「船長の話は聞いた。艇に移れたのが七人。研究員が一人、船首に残ったそうだ。君は、声を掛けた以外に中へ入ったか」

「入ってない」

「分かった。中は俺が見る。君は、出てきた人を受けてくれ。足を置く所を空けておいてくれればいい」


 カイは頷いた。

 接近だけ、と監視台で言われたことを、忘れていたわけではなかった。

 目の前に手が見えると、次の一歩だけなら、と思いたくなる。

 その先の足場がなくても。


 男は、カイが覗いた裂け目を見た。


「そこは跳ぶなよ。戻るとき、負傷者は跳べない」

「……ああ。受ける方に回る」


 裂け目へ向いていた足を、カイは引いた。跳んで行けるかだけを測っていた膝に、今さら力が入る。


 男は救難艇の隊員へ合図し、短い渡し板を受け取った。

 岩の平らな面へ端を置き、もう片方を、船首に残った外側の骨組みへ渡す。

 すぐには乗らない。

 艇側に押さえを取り、足で板の端を踏み、船体との間にある隙間が動くかを見た。


 女が、窓から指を出した。


「その下、青い板の内側に、太い柱がある。中からなら、見える」

「上の継ぎ目は?」

「外れてない。少なくとも、この窓までの間は」


 男は、その場所を外側から確かめた。

 返事をし、渡し板の先を少しずらす。


「そこなら、使える」


 見える方が、見えることを伝える。

 それだけで、板を置く場所が一つ変わった。


 カイは岩棚の内側へ身を寄せ、受け取る場所を空けた。


     *


 窓の下には、倒れた棚があった。

 女は、その棚へ左足を載せ、身体を持ち上げた。


 右の足首は、靴の縁へ腫れが出始めていた。

 腕の布にも、血がにじんでいる。


「君から出る。荷物は、いったん下ろせるか」


 班長の男が言った。


 女は振り返った。

 肩から掛けていた、薄い革の鞄を下ろす。


「資料があるの。大きくない。窓まで、出せる」


 女が振り向くと、班長の声が低くなった。


「取りに戻るのは、駄目だ」


「戻らない。ここ。……もう、足元にある」


 彼女は、抱えていた四角い物を持ち上げた。

 薄い金属の箱を、防水の布で包んである。片腕で抱えられる大きさだ。


 班長は、それと、女の足を続けて見た。


「窓の縁へ置けるか。置いたら、君は身体を外へ向ける」


 彼女は箱を押し出し、手を離した。

 班長が先に岩側へ滑らせる。カイがそれを受け取った。

 想像していたより薄いが、軽くはなかった。


「小舟へ置いて、すぐ戻ってくれ。そこの通り道を空ける」


 カイは箱を胸へ寄せ、岩棚を戻った。

 自分の艇の床へ置き、空荷用の押さえを回す。

 軸受けの箱を下ろしたあと、使わずにいたものだ。


 箱の布には、割れた窓の粉がついていた。

 角から、一筋だけ、青いインクがにじんでいる。


 中身を見る暇はなかった。


 戻ったとき、女は窓枠へ腰掛けていた。二十歳ほどに見えた。青みのある黒髪を一本に編んでいるが、ほどけた髪が汗と石粉で頬に貼りついている。灰青色の目は、足元を見てから、渡し板の先へ動いた。

 班長が、身体を支える帯を締めている。


「傷のある腕は使わなくていい。俺が帯を持つ。動かす前に、声を掛けるぞ」


 彼女は唇を結び、頷いた。

 カイは足を置く位置を確かめ、手を差し出した。


「俺の腕を掴んで。……そう。まず、左足だけこっちへ」


 彼女の手が、カイの腕をつかんだ。

 驚くほど強かった。

 それでも、震えていた。


 窓枠の外へ、靴底が出る。

 板に載った。


 下で、石が落ちた。


 三人とも止まった。

 続いて、船腹の奥で、何かが裂けるように鳴った。


 女が顔を上げた。


「床……下の床。さっきも、その音のあとで!」


 班長が、救難艇へ声を飛ばした。

 綱を持つ隊員が、すでに腰を落としていた。


 班長が、女の顔を見て声を掛けた。


「一歩ずつ。右足は、つかなくていい」


 カイは、女の重さを腕と肩で受けた。

 全部を抱え上げるのではない。彼女の左足が進む間、傾く身体を内側へ支える。

 背中の帯は、班長が持っている。


 板が、一度、軋んだ。


「下は見なくていい。俺の足の横、ここに置いて」


 女の目が、海へ向きかけて戻った。

 カイの足の隣に、左の靴が来る。


 岩だった。


 窓から、抜けた。


 女は息を吐いた。

 それを聞くまで、カイも息を止めていたと気づかなかった。


     *


 救難艇へ渡る道は、来たときより広くなっていた。


 綱を持っていた隊員が、艇を少し寄せている。だが、カイの小舟がある窪みへは入れない。

 浮揚器の張り出しが、岩に当たるからだ。


 班長は、船体を見上げた。

 高い所の白い粉が、途切れずに流れ始めていた。


「その小舟、二人で出せるか」


 班長が艇を指した。カイは浮揚の針と、床の箱を続けて見た。


「荷は箱一つ。低い港内の道なら、戻せる」

「じゃあ、負傷者はそっち。俺たちは外を回る。出た所で合流する」


 カイは圧の針を見た。

 接近したときより下がっている。

 係留中も浮揚を保った分だ。重さが一人と箱の分だけ増える。


「低い経路なら、足りる。上の桟橋へは直接上がらない」

「下の救難桟橋へ回せ。こちらからも知らせる」


 女を船縁へ座らせ、足を内へ入れる。

 班長が手を離す前に、艇の中で腰が落ち着いたことを確かめた。


 小舟が沈んだ。

 カイは出力を少し足す。


 これ以上、荷は積めない。

 資料の箱は床へ低く固定し、女の腕には持たせなかった。

 班長が、自分の艇から持ってきた布を渡す。


「腕を、これで押さえて。足は港で診てもらう。それまで立たない」


 彼女は、ようやく短く返事をした。


 カイは綱を一本ずつ外した。

 救難隊が岩へ残した綱は、触らない。

 最後の係留が離れる前に舵を当て、風に船首を持っていかれない角度を取る。


 窪みを出た。

 女が船縁へ手を掛けた。


「そこ、指を内側へ」


 カイが言うと、手が引っ込んだ。

 直後、横の岩が、すぐ近くを通り過ぎた。


 小舟は、崖の低い陰へ滑り込んだ。


 背後で、長く重い音がした。


 調査船の船尾が、下がっていた。

 砕けた岩を押し、白い船体がゆっくり傾く。

 窓のあった船首までが落ちたわけではない。だが、今しがた渡した板は、もう同じ角度では残っていなかった。


 カイは見続けなかった。

 前には、まだ曲がらなくてはいけない岩がある。


 外側で、救難艇が無事に離れるのが見えた。

 班長が腕を上げた。


 カイも上げ返そうとして、やめた。

 舵から手を離すには、早い。

 代わりに短笛を一度吹いた。


     *


 港の影が、見慣れた形へ戻ってきた。


 魚の箱を積んだ台車は止められ、救難桟橋までの通路が空けてある。

 人が待っていた。

 自分たちが近づくと、二人が担架を持ち上げた。


 女は、ようやく背を丸めた。

 震えが、遅れて肩へ来ている。


「救命艇の人たち」


 彼女が、小さな声で言った。


「もう、港に戻ってる?」


 かすれた声に、カイは舵を握ったまま答えた。


「班長が、七人確認したって。……君で八人だ」


 彼女は頷き、しばらく俯いていた。

 箱が無事だと分かったときより、長かった。


「船の人が、最後まで名前を呼んでくれてた。返事はしたけど、聞こえたか分からなかったから」


 カイは、桟橋を見た。

 帰り着いた人も、どこかで同じ数を数えているのかもしれない。

 八人で出て、七人しかいなかった舟。

 今、小舟にいる一人が、そこへ足される。


 四年前、自分の帰った港では、その一人が戻らなかった。

 今日のことが、あの日を変えるわけではない。

 それでも、今ここで数えられる一人は、確かにいた。


 カイは、操舵桿を握る指を、少し緩めた。

 疲れている。手の中に汗も戻っている。

 港へ着くまで、まだ一度、横風の当たる角を回らなくてはいけない。


「箱、濡れてない?」


 彼女が足元を見た。


「外の布は、乾いてる。角は、ぶつけないようにした」

「……ありがとう。母が、包み方を教えてくれたの。紙を直す仕事をしてるから、水が入ると、どこから傷むか、よく知ってて」


 研究資料、とひとくくりに呼んだ物にも、包んだ人がいる。

 カイは押さえの綱へ目をやった。緩んでいない。


「それなら、港でも包みはそのままにする。誰に預けるか、君にも伝える」


 彼女は、今度は少しだけ顔を上げた。


「寒いか」

「……分からない」


 カイは、艇に備えていた薄い風よけの布を、手の届く所へ寄せた。

 彼女が左手で引き、膝へ掛ける。

 それから、床の箱を見た。


「……ありがとう。箱も」


 女の左手が、膝の布を掴み直した。カイは床の押さえを見た。


「君が、窓まで出してくれたから運べた」


「置いていけって、言われるかと思ってた」


「取りに戻る話なら、俺も止めたよ。……戻らずに済んで、よかった」


 彼女は頷いた。

 箱と、自分の痛む足を、別々に見た。


「そうだね」


 港の方から、笛が返ってきた。

 接近していいという合図だった。


 カイは針を見て、速度を落とした。

 今朝、空荷で帰るはずだった道だ。

 魚の昼飯は、もうしばらく待つことになりそうだった。


「あの」


 女が顔を上げた。


「あなたの名前、聞いてなかった」

「カイ。カイ・レイヴァン。港で物を運んでる」

「セナ。セナ・ルーヴェ。……星図を、調べてる」


 研究者と聞いて、カイは箱を見た。

 包みの隙間から、金属蓋の札がのぞいていた。


 観測図。

 落下予測。


 そこまでは読めた。


「落ちた船の記録か」


 セナは、首を振った。

 言葉を出す前に、乾いた唇を一度湿らせた。


「違う。……船じゃなくて、空の星」


 カイは、ちらりと上を見た。

 港の煙突よりも、飛空船の航路よりも高い空に、白い結晶の塊が浮いている。

 朝から、ずっとそこにあったものだ。


「……次に落ちる場所が、分かるのか」

「候補は。でも……まだ、確かめたい数字がある」


 セナは、桟橋に待つ人たちを見た。

 担架。荷をどけた人。戻ってくる舟のために、綱を持っている人。


「この港の観測記録を、見たい。今の図が合っているか、ここでも確かめてほしい」


 カイは船首を桟橋へ寄せた。

 差し出された綱を受け取り、留めた。


 いつもの仕事と、同じ結び目だった。

 それが締まって初めて、自分たちが戻ったのだと、指先で分かった。


「先に、足を診てもらおう」


 カイは言った。


「箱は見える所へ置く。どこへ行くかは、足を診てもらってから、君に聞く」

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。