帰る舟に載せるもの
【前回までの人物】
・カイ・レイヴァン:自由港カレドの運び屋。帰路に調査船の墜落を目撃し、通報後、小型艇で船首側へ接近した。
・港の監視員:通報を受けて救難艇を出し、航路を空けた担当者。カイの接近位置を救難隊へ伝えている。
・調査船に残る女性:割れた窓から応答した生存者。船の左側の岩が動いたとカイへ知らせた。名前も職業も、カイはまだ知らない。
予備の綱は、船ではなく岩へ取った。
カイは古い石積みの環をもう一度引き、根元へ指を当てた。
周囲の石に、新しいひびはない。ざらついた粉が指の腹へつき、吸い込んだ風には、折れた木材の匂いが混じっていた。
それでも、重さを掛けきる前に、足の裏で一歩ずつ確かめた。
「窓の下までなら、行ける」
聞こえる声で言う。
割れた窓の向こうで、女が頷いた。
「そっちから、右の戸は見える?」
窓の女が、見えない手で指すように肩を動かした。カイは曲がった枠を見上げる。
「あの、枠が潰れた戸か」
「そう。開かない。階段も、落ちた。船尾には戻れない」
窓までの距離は、跳んでどうにかなるものではなかった。
手前の岩棚は狭く、船体との間に裂け目がある。下を見れば、粉をかぶった岩の先に海が見えた。
窓枠へ、すぐ綱を掛ける気にはなれなかった。
船が動けば、そちらへ引かれる。
「今、そこに何人いる?」
「見える所は、私だけ。出たときは……八人。船には、八人いた」
「救命艇は二隻、出た」
「船長が、そっちから呼んでくれた。でも、そのあと、床が……」
言葉の途中で、彼女は奥を振り返った。
助けを待っている間も、船の音を聞いているらしい。
「足は? 動かせるか」
返事の前に、女の姿が少し沈んだ。
「右を、ひねった。立てる。でも、踏むと痛い」
「血が出てる所は?」
「腕。いま、布で押さえてる。……ひどくは、ないと思う」
カイには、その傷が見えなかった。
本人が大丈夫だと言っても、ここから大丈夫だと決めることはできない。
「頭は打った?」
「覚えてない。落ちる前と後のことは、分かる」
その答えを聞いている間に、下から機関音が上がってきた。
カイは顔を向け、赤い信号布を振った。
救難艇が、崖の外を回っていた。
母船へ真っすぐ寄せず、一度海側へ離れ、風を受ける角度を変えている。
浮揚器を大きく使えない場所だ。砕けた石が、まだ時折、船底の下へ落ちていた。
救難艇の舳先で、一人が腕を上げた。
「船首に一名! 右の足を負傷、腕にも傷! 中の階段は落ちてる!」
カイは声を張った。
向こうから、受けたという手の合図が返った。
来ている。
自分だけで、全部を決めなくていい。
喉の奥に詰まっていた息が、少し動いた。
*
救難艇には、三人が乗っていた。
舵を握る若い男が、短い黒髪を風に煽られながら、艇を風の外へ置く。
もう一人、髪を頭巾へ収めた日に焼けた女は、崖の上に残った作業用の留め場を見つけ、長い綱を渡した。
先頭の、顎に灰色の髭を残した男が、岩棚へ下りてくる。
「その環、動かなかったか」
「引いた範囲では。こっちの二つで、小舟を取ってる」
「そのまま取っておけ。君の艇は君の綱。こっちへつなぐと、両方引かれる」
男は自分の命綱を確かめた。
「班長、こちらの綱は取れた」
艇側の女の声へ、顎を一度引いて答える。カイが取った環へ頼りきらず、救難艇からの綱も別に残す。
「船長の話は聞いた。艇に移れたのが七人。研究員が一人、船首に残ったそうだ。君は、声を掛けた以外に中へ入ったか」
「入ってない」
「分かった。中は俺が見る。君は、出てきた人を受けてくれ。足を置く所を空けておいてくれればいい」
カイは頷いた。
接近だけ、と監視台で言われたことを、忘れていたわけではなかった。
目の前に手が見えると、次の一歩だけなら、と思いたくなる。
その先の足場がなくても。
男は、カイが覗いた裂け目を見た。
「そこは跳ぶなよ。戻るとき、負傷者は跳べない」
「……ああ。受ける方に回る」
裂け目へ向いていた足を、カイは引いた。跳んで行けるかだけを測っていた膝に、今さら力が入る。
男は救難艇の隊員へ合図し、短い渡し板を受け取った。
岩の平らな面へ端を置き、もう片方を、船首に残った外側の骨組みへ渡す。
すぐには乗らない。
艇側に押さえを取り、足で板の端を踏み、船体との間にある隙間が動くかを見た。
女が、窓から指を出した。
「その下、青い板の内側に、太い柱がある。中からなら、見える」
「上の継ぎ目は?」
「外れてない。少なくとも、この窓までの間は」
男は、その場所を外側から確かめた。
返事をし、渡し板の先を少しずらす。
「そこなら、使える」
見える方が、見えることを伝える。
それだけで、板を置く場所が一つ変わった。
カイは岩棚の内側へ身を寄せ、受け取る場所を空けた。
*
窓の下には、倒れた棚があった。
女は、その棚へ左足を載せ、身体を持ち上げた。
右の足首は、靴の縁へ腫れが出始めていた。
腕の布にも、血がにじんでいる。
「君から出る。荷物は、いったん下ろせるか」
班長の男が言った。
女は振り返った。
肩から掛けていた、薄い革の鞄を下ろす。
「資料があるの。大きくない。窓まで、出せる」
女が振り向くと、班長の声が低くなった。
「取りに戻るのは、駄目だ」
「戻らない。ここ。……もう、足元にある」
彼女は、抱えていた四角い物を持ち上げた。
薄い金属の箱を、防水の布で包んである。片腕で抱えられる大きさだ。
班長は、それと、女の足を続けて見た。
「窓の縁へ置けるか。置いたら、君は身体を外へ向ける」
彼女は箱を押し出し、手を離した。
班長が先に岩側へ滑らせる。カイがそれを受け取った。
想像していたより薄いが、軽くはなかった。
「小舟へ置いて、すぐ戻ってくれ。そこの通り道を空ける」
カイは箱を胸へ寄せ、岩棚を戻った。
自分の艇の床へ置き、空荷用の押さえを回す。
軸受けの箱を下ろしたあと、使わずにいたものだ。
箱の布には、割れた窓の粉がついていた。
角から、一筋だけ、青いインクがにじんでいる。
中身を見る暇はなかった。
戻ったとき、女は窓枠へ腰掛けていた。二十歳ほどに見えた。青みのある黒髪を一本に編んでいるが、ほどけた髪が汗と石粉で頬に貼りついている。灰青色の目は、足元を見てから、渡し板の先へ動いた。
班長が、身体を支える帯を締めている。
「傷のある腕は使わなくていい。俺が帯を持つ。動かす前に、声を掛けるぞ」
彼女は唇を結び、頷いた。
カイは足を置く位置を確かめ、手を差し出した。
「俺の腕を掴んで。……そう。まず、左足だけこっちへ」
彼女の手が、カイの腕をつかんだ。
驚くほど強かった。
それでも、震えていた。
窓枠の外へ、靴底が出る。
板に載った。
下で、石が落ちた。
三人とも止まった。
続いて、船腹の奥で、何かが裂けるように鳴った。
女が顔を上げた。
「床……下の床。さっきも、その音のあとで!」
班長が、救難艇へ声を飛ばした。
綱を持つ隊員が、すでに腰を落としていた。
班長が、女の顔を見て声を掛けた。
「一歩ずつ。右足は、つかなくていい」
カイは、女の重さを腕と肩で受けた。
全部を抱え上げるのではない。彼女の左足が進む間、傾く身体を内側へ支える。
背中の帯は、班長が持っている。
板が、一度、軋んだ。
「下は見なくていい。俺の足の横、ここに置いて」
女の目が、海へ向きかけて戻った。
カイの足の隣に、左の靴が来る。
岩だった。
窓から、抜けた。
女は息を吐いた。
それを聞くまで、カイも息を止めていたと気づかなかった。
*
救難艇へ渡る道は、来たときより広くなっていた。
綱を持っていた隊員が、艇を少し寄せている。だが、カイの小舟がある窪みへは入れない。
浮揚器の張り出しが、岩に当たるからだ。
班長は、船体を見上げた。
高い所の白い粉が、途切れずに流れ始めていた。
「その小舟、二人で出せるか」
班長が艇を指した。カイは浮揚の針と、床の箱を続けて見た。
「荷は箱一つ。低い港内の道なら、戻せる」
「じゃあ、負傷者はそっち。俺たちは外を回る。出た所で合流する」
カイは圧の針を見た。
接近したときより下がっている。
係留中も浮揚を保った分だ。重さが一人と箱の分だけ増える。
「低い経路なら、足りる。上の桟橋へは直接上がらない」
「下の救難桟橋へ回せ。こちらからも知らせる」
女を船縁へ座らせ、足を内へ入れる。
班長が手を離す前に、艇の中で腰が落ち着いたことを確かめた。
小舟が沈んだ。
カイは出力を少し足す。
これ以上、荷は積めない。
資料の箱は床へ低く固定し、女の腕には持たせなかった。
班長が、自分の艇から持ってきた布を渡す。
「腕を、これで押さえて。足は港で診てもらう。それまで立たない」
彼女は、ようやく短く返事をした。
カイは綱を一本ずつ外した。
救難隊が岩へ残した綱は、触らない。
最後の係留が離れる前に舵を当て、風に船首を持っていかれない角度を取る。
窪みを出た。
女が船縁へ手を掛けた。
「そこ、指を内側へ」
カイが言うと、手が引っ込んだ。
直後、横の岩が、すぐ近くを通り過ぎた。
小舟は、崖の低い陰へ滑り込んだ。
背後で、長く重い音がした。
調査船の船尾が、下がっていた。
砕けた岩を押し、白い船体がゆっくり傾く。
窓のあった船首までが落ちたわけではない。だが、今しがた渡した板は、もう同じ角度では残っていなかった。
カイは見続けなかった。
前には、まだ曲がらなくてはいけない岩がある。
外側で、救難艇が無事に離れるのが見えた。
班長が腕を上げた。
カイも上げ返そうとして、やめた。
舵から手を離すには、早い。
代わりに短笛を一度吹いた。
*
港の影が、見慣れた形へ戻ってきた。
魚の箱を積んだ台車は止められ、救難桟橋までの通路が空けてある。
人が待っていた。
自分たちが近づくと、二人が担架を持ち上げた。
女は、ようやく背を丸めた。
震えが、遅れて肩へ来ている。
「救命艇の人たち」
彼女が、小さな声で言った。
「もう、港に戻ってる?」
かすれた声に、カイは舵を握ったまま答えた。
「班長が、七人確認したって。……君で八人だ」
彼女は頷き、しばらく俯いていた。
箱が無事だと分かったときより、長かった。
「船の人が、最後まで名前を呼んでくれてた。返事はしたけど、聞こえたか分からなかったから」
カイは、桟橋を見た。
帰り着いた人も、どこかで同じ数を数えているのかもしれない。
八人で出て、七人しかいなかった舟。
今、小舟にいる一人が、そこへ足される。
四年前、自分の帰った港では、その一人が戻らなかった。
今日のことが、あの日を変えるわけではない。
それでも、今ここで数えられる一人は、確かにいた。
カイは、操舵桿を握る指を、少し緩めた。
疲れている。手の中に汗も戻っている。
港へ着くまで、まだ一度、横風の当たる角を回らなくてはいけない。
「箱、濡れてない?」
彼女が足元を見た。
「外の布は、乾いてる。角は、ぶつけないようにした」
「……ありがとう。母が、包み方を教えてくれたの。紙を直す仕事をしてるから、水が入ると、どこから傷むか、よく知ってて」
研究資料、とひとくくりに呼んだ物にも、包んだ人がいる。
カイは押さえの綱へ目をやった。緩んでいない。
「それなら、港でも包みはそのままにする。誰に預けるか、君にも伝える」
彼女は、今度は少しだけ顔を上げた。
「寒いか」
「……分からない」
カイは、艇に備えていた薄い風よけの布を、手の届く所へ寄せた。
彼女が左手で引き、膝へ掛ける。
それから、床の箱を見た。
「……ありがとう。箱も」
女の左手が、膝の布を掴み直した。カイは床の押さえを見た。
「君が、窓まで出してくれたから運べた」
「置いていけって、言われるかと思ってた」
「取りに戻る話なら、俺も止めたよ。……戻らずに済んで、よかった」
彼女は頷いた。
箱と、自分の痛む足を、別々に見た。
「そうだね」
港の方から、笛が返ってきた。
接近していいという合図だった。
カイは針を見て、速度を落とした。
今朝、空荷で帰るはずだった道だ。
魚の昼飯は、もうしばらく待つことになりそうだった。
「あの」
女が顔を上げた。
「あなたの名前、聞いてなかった」
「カイ。カイ・レイヴァン。港で物を運んでる」
「セナ。セナ・ルーヴェ。……星図を、調べてる」
研究者と聞いて、カイは箱を見た。
包みの隙間から、金属蓋の札がのぞいていた。
観測図。
落下予測。
そこまでは読めた。
「落ちた船の記録か」
セナは、首を振った。
言葉を出す前に、乾いた唇を一度湿らせた。
「違う。……船じゃなくて、空の星」
カイは、ちらりと上を見た。
港の煙突よりも、飛空船の航路よりも高い空に、白い結晶の塊が浮いている。
朝から、ずっとそこにあったものだ。
「……次に落ちる場所が、分かるのか」
「候補は。でも……まだ、確かめたい数字がある」
セナは、桟橋に待つ人たちを見た。
担架。荷をどけた人。戻ってくる舟のために、綱を持っている人。
「この港の観測記録を、見たい。今の図が合っているか、ここでも確かめてほしい」
カイは船首を桟橋へ寄せた。
差し出された綱を受け取り、留めた。
いつもの仕事と、同じ結び目だった。
それが締まって初めて、自分たちが戻ったのだと、指先で分かった。
「先に、足を診てもらおう」
カイは言った。
「箱は見える所へ置く。どこへ行くかは、足を診てもらってから、君に聞く」




