空から落ちるもの
空の星が、今朝も港の炉で燃えていた。
薄紫の火が煙突の内側を照らし、荷役用の浮揚台を持ち上げる。台に積まれた小麦の袋が、岸壁の高さまでゆっくりと浮いた。
炉から熱い石と油の匂いが押し寄せ、潮風とぶつかっていた。
その下を、港の運び屋カイ・レイヴァンは頭をかがめて通った。焦げ茶の短髪を風に乱され、継ぎのある上着の肩をすぼめる。二十一歳の身体はまだ細身だが、荷綱を扱う指の節は厚くなっていた。
「カイ、頭を出すな! 荷の下だ!」
叱った荷役人へ、カイは空いた手を上げた。
「悪い、外を回る。……今ので朝の挨拶も済んだな」
通路の外へ出たカイに、荷役人は顎を振った。
「挨拶は、昼まで生きてからしろ!」
小麦の袋は、荷役人たちが息を合わせて船へ引き込んだ。
浮揚台が空になり、脇の小さな炉へ、燃料が継ぎ足される。
銀灰色の欠片が炎へ消えた。
星の骸だ。
地上へ落ち、光を失った星は、砕かれ、量られ、船や町の燃料になる。
カイは子どもの頃、その呼び名が嫌いだった。死んだものを、みんな平気な顔で触っているのが怖かった。
今は値段を聞くたびに、別の理由で顔をしかめる。
「またかよ。昨日も上げたばかりだろ」
係の男が、燃料箱の札を裏返した。
カイは見なかったことにした。昨日の値段に戻るわけではなかったが、見るのを少し遅らせることはできた。
*
自由港カレドは、海と空の両方へ桟橋を伸ばしている。
低い埠頭には帆船が並び、崖を削って造られた上の船着き場には、飛空船が腹を寄せていた。
昇降機は朝から休まず動いている。魚の箱が下から上へ、山の鉱石が上から下へ。人も荷物も、ただ遠くへ行くだけでは食べていけない。
降ろして、量って、必要なところへ運ぶ人間が要る。
カイの仕事は、その最後の少しだった。
「西桟橋の修理場へ、軸受け二箱。昼まで。濡らすな」
帳場のアベル・リードは、書面を差し出した。カイが船で働き始めた頃、綱の結び方から教わった元親方だ。短い白髪と太い眉の間に刻まれた皺は、船を降りてからも浅くならなかった。
足の脇に立て掛けた杖を、椅子へ引き寄せる。
片脚を悪くして船を降りても、元船長の声は、荷揚げの音によく通った。
「昼までか。歩いても間に合うな」
書面へ目を落としたカイに、アベルは箱の方を指した。
「その二つを担いで、坂を上るならな。俺は止めんぞ」
カイは箱を一つ持ち上げ、すぐ下ろした。
「……船を考えた奴には、足を向けて寝られないな」
下ろした箱を膝で寄せると、アベルの片眉が上がった。
「そう思うなら、ぶつけず返せ」
小型艇の係留票を受け取り、カイは荷札を確認した。
受取人は、修理場の機関士ミレイ・オルカ。
型番は二種類。箱の重さも違う。
父が木工所を営んでいるので、箱を見る癖がついた。
乾いた木か。釘が浮いていないか。角を落としていないか。
片方の箱に新しい擦り傷があったが、封は切れていなかった。荷役人と一緒に確認し、受取票の端へ書いてもらう。
カイはそれを折って、胸の防水袋へ収めた。
「上の風は?」
「朝の観測では弱い西。昼から北へ回る。高い方の便は、一本遅らせた」
アベルが窓の向こうを見た。
港の信号塔に、長い吹き流しが二本揺れている。
「お前は内港だけだ。北へ回ったら、崖側を離れろ」
「北へ回ったら、崖から離れる。帰る道も、そっちで取る」
四年前なら、先に着くための抜け道を聞いた。
今は、帰ってくる道を確かめる。
アベルも、そこから先は言わなかった。
*
借りた艇は、二人乗れば窮屈になるほどの運搬艇だった。
横腹に幾度も塗料を重ね、古い船名はもう読めない。
カイは勝手に『小舟』と呼んでいた。愛着はあるが、名をつけるほど自分のものではない。
箱を中央へ積み、左右の重さが偏らないようにする。
荷締めの綱を引くと、濡れた麻の匂いが立った。
浮揚器の弁を開く。
床板の下で、低く音が鳴った。
艇が、ほんの少しだけ持ち上がる。
星の骸を燃やして生まれた力が、船底の刻み溝を巡る。
空へ浮く仕組みを全部説明しろと言われれば、機関士へ回す。カイが分かるのは、いつもの艇が、いつもと違う音を出したときだ。
今日は、問題ない。
圧の針を確かめ、係留綱を外した。
港の係が手旗を振る。
進んでよい。
カイは舵を押し、小舟を岸壁から滑らせた。
足元の影が、海面を離れた。
桟橋の人間が、少しずつ小さくなる。
潮の匂いに、油と、朝食の焦げた匂いが混ざっていた。
空へ出た瞬間の、それが好きだった。
ほかのことまで、全部好きでいられた頃もあった。
左へ舵を切る。
荷を積んでいるときは、遠回りでも港内の低い航路を使う。
上を大型貨物船が横切った。腹の板が朝日を遮り、艇の上をゆっくりと影が通る。
船の後ろには、遠い空が見えた。
雲の上で、小さな光が幾つか瞬いている。
夜の星より近く、鳥よりはるかに高い。
子どもは誰でも、あれを一つ取ってみたいと思う。
カイも、思った。
今は、あそこまで飛ぶ燃料代を考えてしまう。
それでも、見上げることまでは、やめられなかった。
*
「カイ、やっと来た! その二箱、こっち」
修理場へ着くと、ミレイが開口一番に言った。
顔なじみの機関士は、作業着の袖を肘までまくり、赤銅色の髪を布でまとめていた。収まりきらない後れ毛が、船腹から流れる熱い風に揺れる。頬についた油をぬぐおうとして、かえって広げている。
「昼まで、あと二時間あるだろ。遅刻にはしないでくれよ」
箱の札を指すカイに、ミレイは置き場所の端材を払った。
「しないわよ。待ってる二時間が長いって、言ってるだけ」
言いながらも、彼女は受取票の時刻を直したりはしなかった。
箱を開け、刻まれた型番を読む。軸受けを一つ、光へかざす。
「よし。こっちが運搬船の分で、こっちが昇降機。混ぜなかったね」
「箱を二つ、間違えなかった褒美は要らないぞ」
「じゃあ、この荷締め。型の違う箱を、よく締めたね」
ミレイが綱の跡を見た。カイは、そこでやっと肩を下ろした。
「それなら、喜んでもらっとく」
カイは封と箱の傷を確かめてもらい、受取の署名をもらった。
作業場の隅で、止まったままの昇降機が見えた。下から人が手で荷を上げている。
「壊れたのか」
「古い軸受けが減った。予定より早いから、外した方を残して調べる。燃料を増やして無理に回したみたいだけど、それだけが原因かは、まだ分からない」
ミレイは小さな金属片を台へ置いた。
縁が、片側だけすり減っていた。
「このところ、同じ荷でも浮かせる力が安定しないって。上の船も、燃やす量を増やしてる」
「燃料が悪いのか?」
カイが炉の方を見ると、ミレイは外した軸受けを横へ並べた。
「それも調べる。今それで片づけたら、こっちの傷を見逃すでしょう」
彼女は書きかけの作業票を指で押さえた。
修理場の奥から呼ばれ、返事をする。
「ありがと、カイ。帰りは身軽でも、突っ込まないでよ。北の吹き流しが回ってる」
窓の外を見る。
まだ、ゆっくりだ。けれど確かに、朝とは違う角度で布が揺れていた。
「今日は、これで帰る。空荷で無理する用もない」
「帰ったら、船底の継ぎ目も見て。さっきの音、次はそこが気になるから」
何も頼んでいないのに、艇の音を聞かれていたらしい。
カイは手を上げ、空になった箱の結び綱をまとめた。
*
帰りの艇は、軽かった。
同じ舵でも、向きが変わりやすい。
カイは押しすぎないように手首を緩め、崖から距離を取った。
港がよく見える。
海側で帆を下ろす船。上の桟橋から出る郵便艇。昼の鐘を待って、炊き出しの列へ並ぶ荷役人たち。
腹が減っていた。
受取票を戻したら、アベルに報酬をもらう。燃料代を引いて、船代を引く。その残りで、魚の揚げ焼きがついた昼飯を食べる。
今朝の値段を思い出す。
魚が一切れ減るかもしれなかった。
そのとき、上空で金属の鳴る音がした。
最初は、港の鐘かと思った。
違った。
もっと高いところで、薄い板を無理に曲げたような音が続いていた。
カイは舵を中立へ戻し、空を見た。
雲の下に、船がいた。
白い船体に青い線。商船より細く、客船より窓が少ない。舷側の張り出しに観測用の器具をつけている。
それが、横を向いていた。
風上へ船首を合わせようとして、合わせられていない。
船尾の浮揚器が一つ、光った。
白く膨らんだ光が消え、遅れて、音が海まで落ちた。
カイの手が、舵を握り締めた。
四年前の、同じ音ではなかった。
そう言い聞かせるより先に、身体が固くなった。
あのときは、空に異変があるとは、誰も知らなかった。
観測どおりに出て、観測では捉えられなかった気流に巻かれた。
正しく結んだはずの綱も、破れた帆をつなぎ止めてはくれなかった。
カイは、戻ってきた。
隣にいた仲間は、戻らなかった。
遠くで、救難鐘が鳴り始めた。
今の音だった。
港の鐘だ。
カイは息を吐き、胸元の短笛を引いた。
三度吹く。位置を知らせる長い一吹き。
近くの監視台で、人が旗を上げた。
見ている。
カイは小舟を監視台へ寄せた。
「上の調査船! 船尾の浮揚器が落ちた!」
「見えた! 西の艇を出す。君は、そこで待て!」
監視台の女は、もう信号索を引いていた。紺の上着の袖が索に合わせて上下する。この区画の旗と航路を見張る港務の担当者だった。
塔から塔へ、旗が上がる。
出港しようとしていた貨物船が止まり、航路の中央が空き始めた。
調査船から、救命艇が離れた。
一隻。
続いて、もう一隻。
監視員が遠眼鏡を上げる。
カイも見た。小さな艇が、崖を避けて海側へ流れていく。
だが、母船は逆へ傾いた。
港の北に張り出した、古い石切り場へ落ちていく。
崖の途中には、石を積み出すために削った段が残っていた。
今は使われていない。上の航路からも、海の船からも近づきにくい場所だ。
「西の艇じゃ、石切り場まで遠回りだ!」
カイが言うと、監視員は歯を食いしばった。
「ああ。下の艇も向かわせる。君は港へ戻れ」
重い物が砕ける音がした。
船の腹が、石切り場の縁へ当たった。
灰色の粉が立ち、船体の半分が見えなくなる。
燃料の火は、まだ出ていない。
少なくとも、ここからは見えない。
カイは距離を測った。
小舟は空荷だ。低い内港を通っている。あの段へ、大きな旋回をせず寄れる。
大勢は乗せられない。船を支えることもできない。
それでも、近づいて生存者を確かめることなら。
手のひらが汗ばんでいた。
「この艇なら、崖の下を通れる。北の作業場へ、何度も運んでる道だ」
舵へ手を掛けたカイを、監視員の声が止めた。
「北へ回った風は、見てるな!」
「見てる。上へは出ない。東の窪みに綱を取って、そこから見る。入れなけりゃ、戻る」
監視員は、小舟と吹き流しを続けて見た。
腰の箱から、赤い信号布を取り出す。
「接近だけだ。火が出ていたら、燃料槽側へ入るな。西の隊に、君の位置を知らせる」
布が投げ渡された。
カイは受け取り、艇の支柱へ結んだ。
「生存者を見つけたら、これを上げる」
「帰る分は残せ! 見つけても、一人で抱え込むなよ!」
返事をして、圧の針を見た。
足りる。
近づいて、戻る分はある。
カイは小舟を回した。
北の崖が迫ってきた。
新しい木材の折れた匂いが、潮風へ混ざり始める。
白い船体が、岩棚の上に引っかかっていた。
窓の一つが割れている。
その奥で、何かが動いた気がした。
カイは口を開いた。
「誰か、いるか!」
風の返事しかなかった。
もう一度、呼ぶ。
今度は、割れた窓の暗がりから、手が上がった。白い粉のついた袖が窓枠へ触れ、その奥に細い肩と、頬へ乱れ掛かった濃い色の髪が見えた。
カイは艇を近づけすぎず、岩棚の手前で止めた。
船体の陰では、風向きが分かりにくい。軽い小舟は押されるたびに舳先を振った。
舵を小さく当て、波打つ影の端で姿勢を保つ。
「声は、聞こえるか!」
窓の奥から、返事があった。
若い女の声だった。
「聞こえる! 左へは来ないで……岩が、動いた!」
カイは船の左舷を見た。
下からは分からなかったが、船体を支えた岩に、白い亀裂が走っている。浮揚器は止まっていた。それでも荷の重さは、岩棚に掛かっている。
「足場が崩れるのか」
「うん。さっき、船の下で。……船首の下は、まだ割れてない。ここから見える所だけだけど」
見えないところまで大丈夫だとは言わない。
カイはその答えを覚え、右へ舵を切った。
船首の先に、小さな窪みがあった。
古い石積み用の環が、壁へ埋め込まれている。その周囲だけ、風に飛ばされてきた枯れ草がたまっていた。
風裏だ。
カイは近くへ寄り、綱の端に結んだ鉤を環へ掛けた。すぐには艇を預けず、綱を引いて確かめる。
環は動かなかった。
綱をもう一本、別の環へ取る。浮揚は落としすぎず、船底を岩から離したままにする。
ここからなら、窓まで声が届く。
戻る艇も、残せる。
「そこを動かないでくれ。俺が足場を見る。……すぐ戻れるように、綱を取るから」
赤い信号布を支柱の上へ引き上げた。
港から見えるように、一度、長く振る。
遠くで旗が動いた。
見失われてはいない。
カイは腰の綱を確かめ、岩へ片足を出した。
足場は狭かった。震えが膝へ来る前に、一度、足を戻す。
手すりに掛けていた予備の綱を取り直した。
窓の向こうで、まだ手が見えている。
その手へ近づく順番を、一つずつ決めた。




