星が、同じ高さにいない
【前回までの人物】
・カイ:救難艇を操る青年。救助したセナと、港の人々を繋いでいる。
・セナ:星を調べる研究者。負傷して施療所で休んでおり、資料の箱はまだ港にある。
・ミレイ:港の機関士。セナと短く面会する約束をし、自分の測定の控えを用意した。
施療所の窓を、朝の風が鳴らしていた。
カイは窓枠へ小さく折った布を挟んだ。昨日まで音に気を取られている暇がなかったが、聞き始めると、板の震えるたびに、寝台の人が眉を寄せる。
布を押すと、音が止まった。
「それなら、開けておけるのね」
セナが、枕から少し顔を上げた。
黒い編み髪が肩へ垂れ、右足首の固定は、薄い掛布の上に出ていた。包帯のある腕を、今日は横の小さな枕へ載せている。
「閉めれば、もっと早いけどな」
「潮の匂いがなくなるでしょう」
「船で嫌になるほど嗅いだだろ」
「船で嗅いだ時は、嫌になる方を選ぶ余裕がなかった」
言ってから、彼女は目を伏せた。
カイも窓から手を離す。墜ちた船を思い出させようとしたわけではない。だからといって、何も聞かなかった顔で、次の話へ飛ぶことも出来なかった。
「……そうか。今日は、開けとく」
「うん。ありがとう」
セナの声は、今度はすぐ届いた。
外では、荷車の車輪が石を踏んでいる。朝の港へ向かう人が、窓の下を二人で通り過ぎた。
ここへ寝かされている人にとっても、今日は、昨日の続きだけではないらしい。
*
ミレイが着いたのは、朝の持込み仕事を一度区切ったあとだった。
布で押さえた赤銅色の髪の脇へ、細い毛が幾筋も出ている。片手に紙の筒、もう片方に薄い板。作業着の袖は下ろしてあったが、指の爪の横には、洗っても残る黒い線があった。
「遅れてない?」
「まだ、約束の前だ」
「ならよかった。朝一番のポンプが、最後に、もう一回だけ音を聞けって顔をするのよ」
「機械に顔があるのか」
「持ってくる人の顔よ。音が止まったら、そっちも止まった」
笑いながら言って、彼女は病室の前で声を落とした。
部屋へ入る前に、担当へ面会の用件を伝える。長く話せる状態ではないと、先に約束してある。
担当は二人へ頷き、寝台の横の台を指した。
「紙を広げるなら、こちらで。起き直して見ようとしないでくださいね。痛みが増したら、話の途中でも終わりにします」
セナは、はい、と答えた。
カイが椅子を一つ引くと、ミレイは寝台のすぐ脇ではなく、台を挟んだ所へ座った。
「ミレイです。先に、船の機関の方を見ました。今日は、その時の控えを持ってきています」
「セナです。……昨日まで、カイに、頼むことばかり運んでもらって。最初に、お礼を言わせてください」
セナの指が、掛布の端を押した。
「助けてもらった船を、見てもらったんですよね。私が乗っていなければ、あんな負荷を掛けずに済んだかもしれないのに」
「乗せたのは俺だ」
カイの口が先に動いた。
言ったあと、セナがこちらを見る。礼を言う分は取っておけと、昨日、自分で言ってきたのを思い出した。
カイは、椅子の背を握った手を離した。
「……悪い。続けて」
ミレイは二人の間へ割って入らず、筒から紙を出した。
「見たのは、仕事です。その上で、お礼は受け取ります。戻ってきた船を、戻ってきた人と確かめられる方が、私もいい」
セナは一度頷いた。
たぶん、謝りたい気持ちまで消えたわけではない。それでも、同じ言葉をもう一度言う代わりに、紙へ目を向けた。
*
測定の控えには、カイの知らない線が並んでいた。
機関の印と、時刻。数字の下に、細い波のような筆跡がある。ミレイは、そのうち二つの欄だけを指した。
「ここが、船を留めたあとで取れた値。事故の最中に私が見た数字ではありません。降りる前の動きは、あなたたちに聞いた分と、分けてあります」
セナが、紙へ手を伸ばしかけた。
カイは台を寄せる前に、彼女の顔を見た。紙が欲しいのではなく、下の線を見たいらしい。筒で丸まる端を押さえ、台の上で向きを変えた。
「そっちで、見えるか」
「ええ。下の時刻が……ありがとう」
セナは、一つ目の欄を見て、次へ目を動かした。
すぐ、何かを言うと思った。
けれど彼女の口は閉じたままで、ミレイの指が紙を辿るのを待っていた。
「残りの燃料だけで説明するには、揺れが大きい。だけど、これだけで空の異常だとも言えません。船の中に、まだ見ていない箇所があります」
「私の観測を、この線の理由にすることも、まだ出来ないです」
セナは、ゆっくり答えた。
ミレイの眉が、ほんの少し上がる。
「そこから話せるなら、よかった。いまの時点で、何を知っているんですか」
セナは、台の端の白い紙を見た。
朝、担当へ頼んで分けてもらった物だ。観測の原図ではない。港の箱から、一枚だけ抜いてきたわけでもない。
彼女は、先にそれを口にした。
「これは、今から説明するための紙です。私が見た星の位置を、正確な数字でここへ戻すことは出来ません。原図と測定の記録は、港の箱に入っています」
「箱は、まだ開けてない」
カイが付け足すと、ミレイは頷いた。
「では、今日は、形を聞きます。数字を確かめる話と、混ぜずに」
セナがペンを持った。
紙の上へ横の線を引く。窓から吹いた風が、その端を持ち上げ、カイが文鎮の代わりに指で押さえた。
その指を避け、セナは線の上へ、小さな点を三つ置いた。
「同じ場所で、同じ時刻を揃えて見た時に。星が、前と同じ高さにいないんです」
ペンの先が、三つ目の点の下へ移った。
落ちる線は、まだ引かなかった。
「低く、なったのか」
カイが聞くと、セナは、はい、と答えた。
「一度だけなら、見る方の間違いや、測る物の違いを先に疑います。私も、そうしました。でも、別の日にも、下がった位置が残った」
ミレイは、描かれた点の一つに触れる寸前で、手を止めた。
「観測台は、動いていませんか。港の設備でも、同じ物を同じ所へ置いたつもりで、台の脚が少し沈むことがあります」
「それを分けるために、地上側の基準も、測り直しています。ただ……父と取った記録も含めて、元の紙を見せずに、確かだとは言い切れません」
父、と言った時、セナの筆先が止まった。
カイは、何があったのかを、今、尋ねなかった。
彼女が言いかけた所から、勝手に箱を開けるのと、同じことをしたくなかった。
ミレイが、自分の控えを白い紙の隣へ置く。
「私は、船の線を持ってきた。あなたは、空の位置を見ていた。似ていると感じる所があっても、片方を片方の証明にしない方がよさそうですね」
「はい。……その上で、別の場所からも、見てほしいんです」
セナは、今度はペンを置いた。
描き足すより、顔を上げる方を選んだ。
「私の数字を信じてほしい、だけではないんです。同じ星を、別の観測点で。場所の沈みや、道具の癖を分けて、確かめたい」
港で星を見る人は、彼女一人ではない。
そう言われてから、カイにも、ようやく話の行先が見えた。
遠い空へ彼女を今すぐ運ばなくても、地上で出来ることがある。
*
ミレイは、紙の余白に、短い項目を三つ書いた。
「場所、時刻、道具。私の測定でも、これが抜けると、昨日と今日を比べる前に、何を測ったのかから聞き直しになる」
カイは、その三つを目で追った。
昨日、湯の車に使う燃料を、救難艇へ戻せないかと聞いた。足りない分を補えば、同じように飛べる気がしていた。
いま白い紙に描かれた点も、目に入った形だけを並べれば、下がっているように見える。
でも、その線を引いた彼女自身が、まだ、原図ではないと言っている。
「これ、いつ、どこへ墜ちる話なんだ」
聞かずにはいられなかった。
セナの顔が、硬くなる。
ミレイも、ペンを止めた。
「ごめん。言えると思って聞いたんじゃない。俺が、そこを怖がってる」
カイは椅子へ座り直した。
救難艇が沈んだ時の、足元の軽さが戻る。上へ浮くはずの床が、体より先に逃げていった。あの落下の続きを、空の点へ重ねてしまっている。
セナは掛布の端から、手を離した。
「今の記録だけでは、日も、場所も言えません。それでも、低くなっているなら、放っておいていいとは思えない。だから、確かめるための記録を、手放したくなかった」
ミレイが、目を伏せる。
昨日、青い鉱片を二つに分けた時と同じ顔だった。使える先と、まだ使ってはいけない先を、勘で一緒にしない顔。
「港の人に知らせるにしても、明日、頭の上へ落ちると、私が言いに回ることは出来ない。ただ、船の点検だけで済ませていいとも、もう思えません」
セナの口元が、僅かに動いた。
笑ったのではなかった。
信じてもらえたと、すべてを預けてしまう顔でもない。話の途中へ、もう一人、ちゃんと来てくれたことを確かめるように、頷いた。
「それで、お願いしたいです」
声を出すのに、少し息を使った。
担当が、開けていた戸から入ってくる。台へ伏せた腕と、セナの額を順に見た。
「ここで、一度終わりにしましょう。次の質問は、休んでからにしてください」
セナが、まだ、と唇を動かしかけた。
けれど、自分の腕を見て、口を閉じた。
カイも、白い紙を持ち上げなかった。
*
部屋を出る前に、紙をどうするかだけ、セナへ聞いた。
「その線は、ここへ置いておいて。説明のために描いた物だと、あとで自分でも分かるように、書き添えたいから」
カイが台の中央へ戻すと、セナはペンを取らず、目で場所を確かめた。
すぐに書かなくても、紙は逃げない。
ミレイも、持ってきた測定の控えを巻き直す。
「こちらは、一度持ち帰ります。比較に使う箇所が決まったら、改めて写しを。関係のない持込み品の話まで、渡すわけにはいかないので」
「分かりました。私の原図も、必要な物を分けてからにしたいです」
二人の紙が、一つの筒へまとめられることはなかった。
それで話が進まなかったとは、カイには思えなかった。
ミレイが椅子から立つと、セナが顔を上げた。
「……昨日、湯を沸かす車の話を聞きました」
「ああ。カイが、艇へ戻す燃料を増やそうとしていた時の」
「それは、もう言った」
カイが口を挟むと、セナの口元が、少しだけ緩む。
「私、そこまで知らなかったんです。星の燃料が、ここの朝にあること。見に行けるようになったら、教えてもらってもいいですか」
「ええ。回収の日も、使う日も。歩いていい日になったら、炊事場の人にも話しておく」
明日すぐ連れていく、とは約束しない。
その短い先の予定に、セナは、ありがとうございます、と答えた。
さっきより声が小さく、でも、お願いを取り消す声ではなかった。
*
廊下へ出ると、二人分の足音が戻ってきた。
ミレイは窓辺で筒の紐を結び、カイは、結び終えるのを待った。
すぐ走り出せば、何かを始めた気になれる。昨日までは、それでよかった。
けれど今日は、何を持っていくかを、まだ決めていない。
「俺に、持ってこられる物はあるか」
ミレイが、顔を上げた。
「あの箱を、先に貰ってこようとするのは、なしよ」
「それは、やらない。あいつも、今は紙の場所を決めて休んでる。箱の面談は、箱の面談で残す」
カイは、港側の窓へ目をやった。
上の桟橋には、高さを記す標がある。荷を積む人は、潮と風の記録を見て、使う足場を変える。空を詳しく知らない自分でも、毎日、そこを通っていた。
「港にも、残してる記録があるだろ。風とか、高さとか。同じ日の分を、比べる役には立たないか」
「使えるかは、見てから。でも、調べる先にはなる。公開している港の記録なら、箱の所有を決める話とは別に頼める」
「じゃあ、どの時刻の、何を頼むか。それを先に書いてくれ。全部くださいって、持ち場の人を止めたくない」
ミレイは、筒の紐から手を離した。
少し驚いた顔をしたあと、カイの上着の袖を見る。
「昨日のほつれ、直したのね」
「針、借りた。三回、余分に指を刺した」
「包帯がいらないくらいなら、上出来」
昨日の夜、自分で縫った糸は、不揃いだった。墜ちた船も、上着の端も、目に入ってから全部一息で直るわけではない。
それでも、糸が伸びたままの所は、一つ減った。
ミレイは、空いている小さな紙へ、頼む項目を書いた。
日付の範囲。記録を取った場所。時刻の基準。写しを受け取る時、分からなければその場で聞くこと。
カイは、それを受け取り、先に目を通した。
「読める。返事が今日じゃなくても、勝手に明日にしない。返ってきた日を、二人へ伝える」
「お願い。私は工房へ戻る。午前の仕事を放ってきたわけじゃないけど、昼までに見る物があるから」
ミレイは廊下の先へ歩き出し、一度だけ振り返った。
「カイ。あの子を乗せたこと、測定の欄へ罪みたいに書かないでね。誰を乗せたかは、私もちゃんと分けて読むから」
返す言葉が、すぐ出なかった。
彼女が角を曲がる前に、カイは、ああ、と答えた。
紙を、上着の内側へしまう。
寝台へ戻って、今から何をしてくるかを、セナへ一言だけ伝えた。彼女は目を閉じたまま頷き、ありがとう、と言った。
そのあとは、呼び止めなかった。
港の上へ、貨物船の影がゆっくり動いている。
星が同じ高さにいないのなら。
空を見上げるだけでは、どこから変わったのか分からない。
カイは、飛べるようになるのを待たずに出来る仕事を、内側の紙へ一度触れて確かめた。
まだ飛ばない救難艇のそばを通り、記録を預かる窓口へ、歩いて向かった。




