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岸の目と、空の目

【人物のおさらい】

・カイ:自由港カレドの運び屋。喉の不調を抱え、自艇の復帰を目指している。

・セナ:父の星図を調べる研究者。右腕と右足の負傷を療養中。

・ミレイ:港の機関士。カイの艇を修理している。

 返書が来た朝、カイは、紙を持ったまま港へ走らなかった。

 三日前、セナと岸で見た水平線を思い出し、まず施療所へ向かった。

 沿岸からの写しは、薄い紙を二枚重ねてある。先に届いた窓の向きの図へ、今度は、室内の机と椅子が加わっていた。

 別室へ移ったあと、観測者は窓際の椅子に座っていた。

 立ったまま見た図ではない。

 それが、今回届いた返事だった。


 セナは、左手を机へ置いて写しを読んだ。

 右の腕も足も、まだ療養中のままだった。三日経ったから、もう船へ乗れると決まったわけではない。

 青黒い編み髪を左肩へ戻し、彼女は図の下を指した。

「椅子が、窓の真ん中から少しずれてる」

 カイは頷いた。

 窓の向きだけを図へ置いていた時には、見えていなかった場所だ。

「立って、端から覗いた線には、しないで済むね」

 セナの声が少し明るくなった。

 彼女は父の原図を消さず、別の紙へ、座った場所からの幅を描き足した。

 星が消えた理由が、それで一つに決まったわけではない。

 けれど、全部の窓の、全部の高さを同じように試す必要はなくなった。

 次に、どちらの岸を自分の目で見たいか。

 その選び方が、また少し具体的になった。


「今日、港の方は?」

 彼女が問う。

 カイは短く答えた。

「次の試走。枠が空いた」

 修理後に短く港内を往復した日があり、そのあと、荷の重さと札の位置を係留したまま確かめた。今日も、その続きの一度だ。

 積み直した物と、置き直した合図を、次の実際の動きへ繋ぐ日だった。

 セナは、窓の外を見た。

「私、岸から見たい」

 彼は頷く。

 それは、三日前に自分から書いた、また飛びたいという一行の、もう片方からの返事だった。


     *


 施療所で借りる車椅子は、同じ廊下から出てきた。

 セナは、前の外出で揺れた戸口を、今度は先に指した。

 足を支える台も、右腕の布も、本人と施療所の人が確かめる。カイが抱えて船へ運ぶ段取りにはならなかった。

 今日は岸の決めた位置まで。

 施療所の人も、戻る時刻まで一緒にいてくれることになった。

 カイは、艇へ乗る間、彼女を一人で港に残すのではないと確かめてから、押す側へ回った。


 岸へ着くと、紺の上着の監視員が、港の旗から二人へ目を移した。

 ミレイが事前に話していた、ネルだった。

 彼女は、カイの手の控えを見てから、セナの座る側と、桟橋へ続く道を示した。

「見る場所は、そこから。荷の通り道へは、椅子を出さないで。試走の方は、前に使った浮標の内側、一往復」

 カイが頷く。

「港の外は、別の話。今日、こちらから止める時の合図も、出る前に見ておいて」

 ネルは実際に腕を上げた。

 短い動作を、カイはミレイと一緒に見る。

 喉が戻っていないからといって、港の人全員へ、自分の声を聞き取る役目を押しつけるわけにはいかなかった。

 港の合図と、艇の中の札。

 誰の方を見るかも、今日ここで揃えた。


 ミレイは、赤銅の髪を布の中へ戻した。

「セナの方へ向いてる間、私がこっちで勝手に上げないから。乗る前に、話してきて」

 カイは頷き、岸へ戻った。

 短い言葉しか出せない日は、話すことを、後回しにしてしまう。

 だが、今日は、別の高さから同じ艇を見る人がいる。

 出る前に、その人の顔を見たかった。


     *


 セナは、左手で紙を押さえながら海を見ていた。

 三日前と同じ岸でも、今日は、見たい物が違う。

「どのくらい、上がるの?」

 カイは、港の範囲へ指を向けた。

「短く。あの内側」

 長い説明は、筆記板へ書く。

『今日は艇の試走。岸の線と、船からの見え方は、帰ってから別に比べる』

 彼女は読み、頷いた。

「うん。父の図の方を、一緒に証明した日にしない」

 朝の返書は、鞄へ入れてある。今から動かす艇の結果と、沿岸の観測者の椅子の位置を、同じ丸で囲むわけではなかった。

 それでも、二つが同じ日に進むことは嬉しかった。


 セナは、彼の筆記板の下へ一行を足した。

『私も、見る』

 カイは、その字を見た。

 彼女を置いて、自分だけが空へ戻る。

 少し前なら、そういう後ろめたさを、自分から作ってしまったかもしれない。

 でも、彼女は今、ここから自分の目で見ると書いた。

 彼の飛びたい望みを、彼女の歩けない身体へ、埋め合わせのように隠す必要はなかった。

「行ってくる」

 掠れた声で言う。

「行ってらっしゃい。帰ってから、上からどう見えたか、聞かせて」

 セナは顔を上げた。

 カイは頷き、板を鞄へ戻した。


     *


 桟橋へ戻る途中、カイは艇の縁へ手を置いた。

 新しくなった所の隣に、古い擦り傷が残っている。

 全部が、修理の前の姿へ戻されたわけではなかった。直した所も、使い続ける所も、一つの艇の中にある。

 ミレイが、その手の先を見た。

「そこは、残す方。見た目まで全部新しくする仕事は、今回は受けてないよ」

 カイは口元を緩めた。

「分かる」

「うん。カイ、直った所を探す時、古い傷まで消えたみたいな顔をするから」

 彼は、傷から手を離した。

 そこへぶつけた時の荷も、焦って戻った港も、覚えている。消えてほしい物ばかりではなかった。

 ミレイは道具箱を、自分の足へ当たらない所へ置いた。

「今日、また動いたら、家で、動いたって言える。止めた時にどうだったかも、一緒にね」

 彼女は、少し笑った。

 直した本人にも、持ち帰って話したい一日がある。

 カイが空へ戻るためだけに、彼女がここへ立っているのではない。

 彼は筆記板へ短く書いた。

『終わったあと、今日の所を、俺も聞きたい』

「いいよ。こっちから見た方もあるから」

 返事を受け取り、彼は頷いた。

 岸にはセナがいて、艇にはミレイがいる。港の合図を見るネルも、それぞれの仕事を持っている。

 同じ時刻を、違う場所から見ている人がいることが、今日は、飛ぶ自由を狭める物ではなかった。

 どこへ戻れば、次の話ができるかを、はっきりさせてくれる。

 カイは古い傷の残る縁を越え、自分の席へ足を下ろした。


 艇へ乗ると、足元の感触が、岸より少しだけ揺れた。

 ミレイが、置き直した札を見せる。

 荷を載せた時にも見える位置。手を伸ばしても、別の物へ引っ掛からない所。

 係留したまま何度も見た位置を、今日も、実物の向こうで確かめた。

 勝手に新しい穴を開けたわけではない。前の試験で動かした仮の支えが、今日の風の中でも、決めた方へ向いている。

 カイは、自分の止める札へ触れた。

 腕を伸ばす長さが、掌へ戻ってきた。


「声を張る方へ、戻らないで」

 ミレイが言う。

「ああ」

「聞こえない時は、見せ直す。今日は、私もそれで返す」

 彼は頷いた。

 機関を使う前の残りも、控えと合わせた。前の試験で動かした分を、なかったことにして出るわけにはいかない。

 機関の低い音が、足の下から上がった。

 身体の中へ響いてくる音だ。喉を使う声とは別の所で、自分が戻りたかった仕事へ繋がる。

 岸の合図を見てから、艇を動かした。


 陸が、少し下がる。

 カイは、目の前の海だけへ視線を固定しなかった。

 浮標。出てくる荷艇。港の旗。ミレイの札。

 見慣れた物の間へ、今日初めて、岸に座るセナの姿が入った。

 小さくなった左手が、紙の方へ動いている。

 彼は、手を振るために操縦の手を離さなかった。

 ただ、その人が見ている高さを、前よりはっきり想像できた。


 艇の外へ出る風は、病室の窓へ来た風より強かった。

 頬を掠める冷たさが、懐かしい。

 遠い岬へ向かってしまいたくなる。

 空に戻れた身体が、自分の望みを先に思い出す。

 カイは、その喜びを、間違いだとは思わなかった。

 行きたい場所があるから、帰る位置を決めて出てきた。

 今日、その両方を持ったまま、飛べばいい。


     *


 荷艇を一つ先に通した。

 待つ間、ミレイが札を上げる。

 見えた。

 白い面が、荷の陰へ隠れずにある。カイは決めた方で返し、相手が受け取った所まで確かめた。

 何も困らなかった一度にも、前の机ではなかった手応えがあった。

 止まる言葉が通じるから、また進める。

 自分の喉を、元の声へ戻せなければ全部止まったままだと思った頃とは、違う進み方だった。


 港の端から見える空は、やはり広かった。

 だが、今日はその全部を測る日ではない。

 カイは、決めた浮標の内側で向きを戻した。

 岸の建物の高さが、帰る向きへ並び直される。

 三日前、セナが座って見た水平線は、自分が今見ている位置より低い。高くなれば、隠れていた屋根が見える。けれど、それを覚えていても、彼女の目へ同じ景色をそのまま渡すことはできない。

 戻って、聞く。

 見た物を話す。

 そのための道が、港の中に残っていた。


 艇が桟橋へ戻ると、岸の音が、一つずつ近くなった。

 綱の擦れる音。荷車の車輪。誰かの足音。

 機関を止めたあと、カイは大きく息を吐いた。

 喉の掠れは残っている。

 それでも、飛んで帰ってきた。

 ミレイが、彼の方を見た。

「今日の一往復、終わり」

 短い言葉だった。

 カイは頷き、それから、笑った。

 上がれた最初の一度だけではない。

 もう一度、自分で戻ってこられた日だった。


     *


 ネルは、戻りの控えへ印を置いた。

「外の航路へ入っていない。待つ所も、合図も確認。次の枠は、またその日の港を見てから」

 カイは、短く礼を言った。

 今日の成功を、そのまま遠航の許可に変えて渡す人ではなかった。彼も、そこへ話を急がせなかった。

 ミレイは、機関を使った分と、札の位置の結果を、前の記録の次へ残している。

 長い運転も、満載での外の風も、まだ今日の一往復では見ていない。

 見ていない所が残っていても、終わった一度まで、未完成のように隠す必要はなかった。


 セナの所へ戻ると、彼女は最初に、顔を見た。

「嬉しそう」

 カイは、少しだけ視線を外した。

 否定する言葉は出なかった。

「嬉しい」

 短く答えると、セナも笑った。

「うん。こっちからも、ちゃんと戻ってくるのが見えた」

 彼は筆記板を出した。

『上から、こっちが見えた』

「私は、ずっと、船の方を見てた。途中で少し待ったのも」

 同じ一往復に、二つの記録があった。

 どちらか片方を、正しい景色として残すのではない。

 並べて初めて、二人が同じ港にいたことが分かった。


     *


 帰る前に、朝の返信をもう一度開いた。

 窓の前の椅子は、真ん中より少し片側へ寄っていた。

 セナは自分が座っていた岸と、観測者の室内を、同じ目の高さだと決めつけず、別の図へ描いた。

「ここへ行けたら、私も座った所から見たい。今すぐ船へ乗るって言う話じゃなくて、最初に調べる場所として」

 カイは頷いた。

 すべての岬を、順番に回るしかない旅ではなくなる。

 先に届いた別室の向きと、今朝届いた椅子の位置。その幅が重なる岸から、自分たちの次の調査を始められる。

 星の消失の原因は、まだ分からない。

 父のいる場所へも、今日、辿り着いたわけではない。

 それでも、選べる最初の景色がある。


 セナは紙を畳み、右足の位置を一度確かめた。

「今日は、帰る。これ以上書くと、さっきの嬉しい方まで疲れで混ざりそう」

 彼は頷いた。

 施療所へ戻る人の時間と、艇を片付ける人の時間がある。

 ミレイへ別れを告げ、カイは車椅子の押し手へ回った。

 海の上へ戻った手で、今度は地面の継ぎ目をゆっくり越える。


 病室へ着くと、セナは、新しい返書を、父の原図の隣へ置いた。

 原図は変わっていない。

 座っていた場所を示す新しい写しは、今朝受け取った順のまま重ねた。

 隣へ置ける、今日の一枚が増えた。

 カイは、自分の筆記板へ残った、私も見る、という字を見た。

 空へ戻る時、岸へ残る人を、ただ待つ人にしなくてよかった。

 机の上に、港の二つの高さが並んでいる。

 その先へ行く日は、身体と艇と港を見て決める。

 けれど、どちらを向いて出たいかは、昨日よりはっきりしていた。

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