私の高さで、海を見る
【人物のおさらい】
・カイ:自由港カレドの運び屋。喉の不調を抱え、自艇の復帰を目指している。
・セナ:父の星図を調べる研究者。右腕と右足の負傷を療養中。
・ミレイ:港の機関士。カイの艇を修理している。
窓の外の空は、病室の壁より広いはずだった。
それなのに、セナには、毎朝同じ四角に見えていた。
カイが戸口へ立った時、彼女は窓ではなく、廊下の方を向いた。青黒い編み髪が左肩を滑る。右腕を支える布も、右足の置き方も、昨日と変わっていない。
「今日、外へ出たい」
彼は足を止めた。
行けるか、と喉から出しかけた声を、息と一緒に飲み込む。すぐに駄目だと返すために、ここへ来たわけではなかった。
「どこまで」
短く問うと、セナは頷いた。
「岸。船へ乗るんじゃなくて、海が見える所へ、座ったまま」
机の紙には、昨日、窓の形を変えて試した二つの図がある。立った目と、座った目。高さが違えば、同じ屋根が見えたり隠れたりした。
その図の隣へ、彼女は左手で一行を足していた。
私の高さで、今の海を見る。
カイはそれを読み、廊下を振り返った。
施療師へ、本人と一緒に訊く。
その順なら、今日できることがあるかもしれなかった。
*
灰色の混じる髪を編んだ施療師は、セナの言葉を聞いてから、窓を一度見た。
白い上衣の袖に、洗い立ての布の匂いが残っていた。
「風の強い岸ですか。それとも、施療所の下の、建物の陰になる方ですか」
「下の方です。船の桟橋へは下りません」
セナが答える。
施療師は、机へ置いた図より先に、彼女の右足を見た。
「歩いて行くつもりではないですね」
「はい。座ったまま行ける物を、お借りしたいです」
カイは黙って二人の間に立っていた。
彼が抱えて運べば早い、と言ってしまえば、どこで足が揺れるか、戻る途中に何が起きるかを、二人とも自分の背中へ隠してしまう。
今日は船へ戻す日ではない。
まず、彼女の目で岸を見る日だった。
廊下の奥から出てきたのは、脚を載せる台のある車椅子だった。
木の腕置きは、何度も拭かれて艶が薄くなっている。車輪の縁へ、乾いた泥が一筋残っていた。
「施療所の物です。戻ったら、この廊下へ。部屋へ運び込む前に、車輪を拭きます」
施療師は言い、カイへ押す側を示した。
段差を越える所と、座り直す所は彼女が確かめる。カイが一人で、思いつくままに持ち上げることはなかった。
セナは椅子へ移る前、机の上へ左手を伸ばした。
「紙は持っていきます。書けるかどうかより、見たあと、忘れたくないので」
施療師は、紙の薄さを見て笑った。
「飛ばされる方を先に考えてください。風が来ても、右手では押さえられませんから」
セナも笑った。
カイは自分の筆記板へ紙を重ね、端を留めた。
窓から届いた風が、上の一枚だけを持ち上げる。留めた端で止まり、また板へ戻った。
*
廊下の光は、病室の中より白かった。
椅子の車輪が床の継ぎ目を越えると、セナの左指が腕置きを掴んだ。カイは、速さを落とした。
「そこ、揺れた」
彼女の声が来る。
「ああ」
「戻りも、ここを覚えてて」
彼は頷いた。
大丈夫としか言えない外出にしたくなかった。揺れた所も、嫌だった所も、途中で口へ出せるなら、次にどうするかを変えられる。
戸口で、施療師がもう一度、足を支える台を確かめた。
冷たい風が、上衣の裾を動かす。
「下へ着いたら、長い観測の前に一度止まってください。今は、海より先に、自分の具合を」
「はい。しんどくなったら、見たい途中でも戻ります」
セナが答えた。
その言葉の最後だけ、少し悔しそうだった。
施療師は、励ます言葉を重ねずに戸を押さえた。
「行ってらっしゃい」
港の日の光が、二人の前へ開いた。
海の匂いは、窓から入る時より濃かった。
セナが顔を上げる。
潮と濡れた綱と、遠くの魚の荷。その中に、木を削ったばかりの匂いが混じっていた。
カイにも馴染みのある匂いだった。
だが、椅子を押している今日は、段差と、石の隙間と、通り過ぎる荷車が先に目へ入る。
自分が一人で歩く道とは違った。
建物の陰へ着いてから、彼は椅子を止めた。海へ近づきすぎず、往来の邪魔にもならない所を、セナにも指で示す。
「ここは」
「うん。見える。……ちょっと、待って」
彼女は息を整えた。
カイは、紙を出す手を止めた。
まだ何も記録していない時間に、空だけが二人の上で動いていた。
*
ミレイが来たのは、しばらくしてからだった。
赤銅の髪をまとめる布が、潮風で揺れている。手には、昨日返した軽い板の包みがあった。
「こっちへ出るって聞いた。これ、持って来たのはいいけど、今、置ける?」
セナは、腕置きへ付けた左手を見た。
「持ったままは、無理。膝へ置いて書くのも、今はやめたい」
「なら、こっちへ置く。船へ付ける位置を決める日じゃないし」
ミレイは岸の低い台を見て、濡れていない側へ布を敷いた。
カイは、支えをその上へ置く。
昨日は机で使った物だ。今日は、座ったセナの目へ向けて角度を変える。板の下へ足すのは、滑らないように折った布だけだった。
セナが、首を少し傾ける。
「もう少し、低い方」
カイが支えを戻す。
「そこ。今の位置だと、海の線と札の上が、一緒に見える」
彼は、そこで手を止めた。
自分が読める角度へ上げると、彼女は顎を持ち上げなければならない。
同じ板を、二人で使う。
それは、どちらも同じ姿勢になることではなかった。
ミレイが半歩、海の側へ出た。
「私の頭、線へ掛かる?」
「今は、右の端だけ。そこから一歩戻ると、消えます」
セナが言う。
「じゃ、観測してる前を通る時は、合図が要るね」
ミレイは笑って戻った。
窓の中の紙なら、紙を動かすだけで済んだ。岸では、人が通り、荷が揺れ、光が水へ跳ねる。
父の古い記録を書いた人も、何もない空を、何も動かずに見ていたわけではない。
セナは、筆記板へ左手を置いた。
「机の上だと、高さを変えたつもりでも、下に足した紙しか気にしなかった。ここは、私の目の方が、先に動く」
カイが頷く。
彼も、海だけを見る時と、セナの方へ顔を向ける時で、遠くの塔の位置が板の縁から外れるのを見た。
同じ海が、身体の小さな動きで、別の枠へ入っていく。
*
最初に聞こえた停止の合図は、風の音に少し紛れた。
二度。
セナの左指が、台の板を叩いていた。
カイは、すぐ彼女の方へ向いた。
「戻る?」
「まだ、戻らなくていい。向きを、少し変えたい。右の肩が、引かれる」
彼は動かす前に、どちらを向きたいか訊いた。
セナは左手で建物の側を示す。ミレイが板を引き、カイが椅子の向きを変える。
風が、正面からではなく左へ当たるようになった。
右の布が煽られなくなる。
セナは肩を下げ、少し長く息を吐いた。
「今の方がいい」
カイは、彼女が頷くまで押す手を離さなかった。
合図を確かめた昨日は、叩けたかどうかだけを紙へ残した。今日は、その二度で、見続ける向きを変えられた。
船を止める大きな合図になる前に、岸で使える合図になった。
ミレイが、頭の布を結び直した。
「船では音が増える。今のが聞こえたから、機関を動かしても大丈夫、にはしないでおく」
カイは頷いた。
聞こえた喜びへ、次の条件を混ぜない。
だが、セナは少し笑っていた。
「うん。でも、ここでは、止まった」
「そう。ここで止められたのは、いい方の結果」
ミレイも笑った。
言葉の少ないカイは、筆記板へ短く書いた。
『次も、向きを変えたい時に使ってくれ』
セナはそれを読み、指を板から離した。
合図のために、ずっと手を構えておく必要はない。今、彼が見ていることを知ったあとなら、海の方へ目を戻せた。
*
岸の台へ落ちる影が、少しずつ動いていた。
セナはそれを紙へ入れようとして、手を止めた。
「今、何時ごろ?」
カイは港の方を見て、おおよその時を答えた。正確な刻みまでは、今ここでは合わせていない。
彼女は、そこで鉛筆を戻す。
「じゃ、時刻が揃った観測とは、別にしておく。今日見えたから、父の記録の線と重なるって書きたくなった」
風で紙が小さく鳴った。
カイは、自分の上着で紙へ影を作りかけ、今度は影を見ている途中だと思い直して退いた。
セナが、その動きに気づいて笑う。
「そこまで動くのを我慢しなくていい。まず、動いた人がいたって書く」
彼も口元を緩めた。
同じようにして、遠い沿岸の人にも訊いている。どちらの窓か。立っていたか、座っていたか。今、ここで足りないことが分かるほど、返事を待つ一行の意味が増えた。
まだ、返事は来ていない。
セナは、届いていない言葉を自分の発見で埋めず、紙の下へ、今日の岸、と書いた。
それから鉛筆を置いた。
「ここは、私の記録にする」
カイは頷いた。
父の図を追うだけではない。戻ってきた海へ、彼女自身が最初の一行を残していた。
水平線は、青い一本線ではなかった。
薄い灰の中で、波の先と空の低い所が混じっている。セナはしばらく黙り、左手で紙を押さえたまま、それを見ていた。
カイは、その沈黙を、問いを考えている時間だと思った。
だが、彼女が口を開いた時、出てきた言葉は違った。
「広いね」
彼は顔を向ける。
「知ってたのに。図へずっと線を引いて、どっちから見たか考えてたのに、今、広いとしか出てこない」
セナは、少し困ったように笑った。
カイにも、返せる長い言葉はなかった。
「ああ」
喉に掛からない短い声で、そう言った。
運ぶ仕事で何度も渡った海だ。風向きも、荷の重さも、着く先も、考えることはいつもあった。
それでも、帰れなくなるかもしれないと思ったあとで見ると、見慣れた港の外にも、まだ自分の行きたい所があると分かる。
彼は、紙の下へ一行を足した。
『俺も、また飛びたい』
研究の役に立つから、ではない。
セナが顔を上げた。
「知ってる。……でも、今、カイの字で見られて、よかった」
彼女は左の指で、その行の横へ小さい点を置いた。
消さないための点だった。
ミレイが、港の奥を見た。
「港内で、短く上げる次の試走。岸から見たいなら、その時の位置は、今日の所を候補にできる」
カイは振り向いた。
「許可は」
「まだ、次の便の邪魔にならない時間を詰める方。外へ出る許可じゃない。ネルと見張り側で、そこを決めてから」
彼は頷いた。
夢を話したからといって、今日このまま機関を動かすことにはならない。
それでも、船へ戻る道が、病室の机から岸へ一本延びた。
*
帰ろうと言ったのは、セナの方だった。
紙へ二つ目の図を描きかけた所で、鉛筆を置いた。
「まだ描けるけど、今帰った方が、帰り道を嫌いにならずに済みそう」
カイは頷いた。
ミレイが、書きかけの紙を板から外す。軽い板と支えは、彼女が港へ戻す物として包み直した。
セナの記録だけを、カイの筆記板へ残す。
借りた物と、自分たちの見た物が、それぞれ持ち主の方へ戻っていった。
別れ際、ミレイが手を振る。
「私はここまで。家へ戻る前に、船の方を一つ見ていく」
カイは、短く礼を言った。
彼女の一日全部を、二人の外出の続きへ縛る言葉は要らなかった。
帰りの継ぎ目の前で、カイは一度止まった。
「ここ」
「覚えてた」
セナが笑った。
揺れは、なくなったわけではない。ゆっくり越えても、右の足台へ小さく響いた。それでも、来ると分かっている揺れに、彼女は先に息を合わせられた。
施療所へ戻ると、施療師が廊下で待っていた。
「海は見えましたか」
「はい。でも、先に、少し休みたいです」
「それなら、話はあとで」
返事を聞いたカイは、車輪を拭く布を受け取った。
潮の匂いが残る車輪から、薄い泥が落ちる。
今日、船は動いていない。
セナの右腕も右足も、治ったことにはなっていない。
それでも、彼女は病室の四角い空の外へ出て、自分の高さで海を見た。
カイは、休む彼女の机へ、持ち帰った紙を置いた。
水平線の下に、飛びたいと書いた自分の字がある。
その隣の小さい点を、帰る前に、もう一度見た。




