乗る日の、目の高さ
【人物のおさらい】
・カイ:自由港カレドの運び屋。喉の不調を抱え、自艇の復帰を目指している。
・セナ:父の星図を調べる研究者。右腕と右足の負傷を療養中。
・ミレイ:港の機関士。カイの艇を修理している。
艇の図へ椅子を描いた時、カイは、自分の目の高さで線を引いていた。
気づいたのは、施療所の机へそれを広げてからだった。
セナが図の中の椅子へ左の指を置き、隣の札を見る。
「私、ここへ座るの?」
カイは頷きかけ、止まった。
操縦席から見えるようにした札。その下へ、乗る人の場所を描いたつもりだった。だが、図の線を辿ると、右へ身体を捻って初めて見える位置になっている。
セナの右腕と右足は、まだ療養中だ。
今朝、布を外したわけでもない。
「違う。これ、俺の位置だ」
掠れた声で言い、彼は空いた紙を引き寄せた。
青黒い編み髪が肩へ落ち、セナが少し顔を傾ける。
「昨日、私が見えるか聞いたから、すぐ描いてくれたんだね」
「ああ。でも、座ってない」
「じゃあ、今日は、座る方から」
彼女は自分の椅子の左側へ目をやった。
遠い沿岸からの返書を待つ日にも、今、見える所から始められる仕事があった。
*
カイは、施療所へ持って来る前の図を出した。
昨朝の砂袋の配置と、操縦席の斜め前へ動かした札。二度目の配置では、荷を載せて機関を動かし、止める所まで確かめた。
その位置を、今朝、係留した艇へもう一度置いて見た。
機関は動かしていない。荷も積んでいない。
彼が測ったのは、座る床と縁、札の位置の間だけだった。
そこへ、いつかセナが乗る場所を描こうとした。
自分が操縦席から見た線が、便利だったから、そのまま使った。
紙の上なら椅子を移すだけで済む。実際の人は、その線へ合わせて身体を曲げてくれるわけではない。
「ここ、荷を置いたら?」
セナが指した。
カイは昨日の紙へ戻った。
今朝は空だった所へ、昨日の砂袋が重なる。
自分が見える札を残したまま、もう一人の見る場所を足すと、荷の受け渡しの手とぶつかる。
『このままは、使えない』
彼は短く書いた。
喉へ余計な声を集めず、見た所を指で示す。
セナは、すぐ自分なら我慢できるとは言わなかった。
「私、痛くなった時、見上げ続けるのは嫌。止めたい時ほど、見えなくなるから」
カイは頷いた。
乗せてから訊く言葉を、彼女は今日の机で、先に言っていた。
彼は新しい紙の中央へ、左手、と書く。
身体の都合を、図の端の注意書きに押し込めるのをやめた。
*
施療師が部屋へ来た時、カイは椅子を動かす前だった。
前からセナを診ている人へ、紙の札を見せる位置を短く相談する。艇へ移す相談でも、今日、外へ連れ出す申し出でもない。
施療師はセナの足元を見てから、二人の机へ目を移した。
「座ったまま、届く所で。右側へ身体を捻らないでください。疲れたら、図の方を止めましょう」
「はい。私が、先に言います」
セナが答えた。
施療師は頷き、右腕を支える布の位置を確かめる。
カイは、症状が軽くなったから許された、と紙へ書かなかった。今の身体で机に向かう間の、短い試し方を聞いただけだ。
施療師が別の患者の方へ向かったあと、彼は机へ二枚の紙を立てた。
一枚へ、止める。
もう一枚へ、見た。
実際の艇で使っている札とは別の、今日の位置を考えるための紙だ。
最初、カイは椅子の正面へ札を置いた。
セナは顔を上げ、すぐ眉を寄せる。
「これなら、図が見えない」
彼は紙を下げた。
前だけ見せればよいと思ったら、今度は彼女が自分の仕事へ目を戻せなくなる。
「左、少し」
彼が言うと、セナは左手で、届く範囲を示した。
「こっちなら。端は、ここまで」
彼女の指先が机へ触れた。
カイはそこへ、紙の角を合わせる。自分の腕で測らず、その指が届いた所を目印にした。
セナが札を持ち上げる。
紙が柔らかく折れ、文字の真ん中が隠れた。
二人とも、そこで少し笑った。
位置が合っても、持つ物が違えば、同じ動きにはならない。
「硬い板なら、持てるかは、まだ分からない」
セナが言った。
カイは頷き、札を置き直した。
『紙で、位置を見ただけ』
彼が書くと、彼女は読み、次の空いた所へ指を置く。
「それと、文字。私が、どっちを向けたか、見る人へ分かるようにしたい」
カイは、艇で自分が相手を見る時を思い浮かべた。
荷の向こう。声の混じる桟橋。顔を向けても、必ず相手が同じ瞬間に見ているとは限らない。
二度叩く。相手を見る。札を確かめる。
昨日できた順が、紙を一枚持たせれば誰にでも完成するわけではなかった。
*
カイは机の端を二度、軽く叩いた。
セナがこちらを見る。
彼女が紙を持ち上げ、カイも同じ文字を指す。
セナは一度、紙を下ろした。
「今、カイが先に叩いた。私が止めたい時には、私が先だね」
彼は、あ、と小さく声を出した。
自分が合図を始める癖が、そのまま残っていた。
守りたい相手へ知らせる手順と、相手から知らせてもらう手順は、向きが違う。
『今度は、そっちから』
彼は書き、手を膝へ置いた。
待つ。
廊下で器が鳴った。
窓の布が、左へ少し膨らむ。
セナは紙の札を見てから、自分の左の指で机を二度叩いた。
カイは顔を上げる。
彼女の持った紙に、止める、と見えた。
彼は頷くだけにせず、同じ文字を指で示した。
セナが息を吐いた。
「今のなら、私が言った方になった」
彼も笑った。
大きい声が出せるようになったわけではない。実際の艇で使えた証拠でもない。
それでも、彼女が始めて、自分が見たと返す一往復は、この机で本当に起きた。
もう一度やろうと、カイは紙へ手を伸ばしかけた。
セナが、先に札を机へ寝かせる。
「今、少し休みたい」
彼は手を引いた。
言葉で聞けた今日の希望を、札の試験を続けるために後へ回す必要はなかった。
彼女の足元へ触れず、机の紙だけを少し遠ざける。
左手を膝へ置いたセナが、窓の方へ顔を向けた。
「外、風がある?」
カイは窓を見る。
薄い布が、途切れず動いている。
「ああ。港も」
「じゃあ、今日は、艇の札を持って行っても、紙みたいには止まっていないね」
彼は頷いた。
部屋の机でできた動きを、そのまま海の上へ運べない理由が、彼女自身の言葉にもあった。
*
休んだあと、セナは父の星図の写しを引き寄せた。
今日の札の紙とは重ねない。
沿岸へ出した追加の照会は、まだ戻っていなかった。窓の向きを尋ねた箇所は、今も空いている。
「こっちも、私が見ている所だけ先に書く」
彼女は左手で、窓と時刻の欄を指した。
カイは紙へ、何か分かったか、と書きかけたが、ペンを止める。
分かっていない時にも、彼女は仕事をしている。違う時刻の記録を、同じ空を見た一回へまとめないために並べている。
彼は、見たい、とだけ書いた。
セナは頷き、まだ印のない欄を見せた。
「この二つ、父が同じ場所から見たのかも、まだ分からない。窓の向きが分かっても、立った場所は、別に要る」
カイは、さっき自分が引いた目の高さの線を見た。
似ていると思った。
けれど、その似ているという気持ちで、父の図の分からない所が埋まるわけではない。
『艇も、人が違うと、見える所が変わった』
彼が書くと、セナは少し笑った。
「うん。だから、私の線、私が引きたい」
彼女は新しい紙へ、今日、自分が届いた所を描き始めた。
カイが代わりに上手な線へ直さなくても、紙には確かに、左の手から伸びる範囲が残った。
彼はそれを持ち帰ってよいか尋ねた。
「ミレイに、見せたい」
「いいよ。今日の椅子で見た所って、添えて」
彼は頷き、その通りに書いた。
*
港へ戻った時、ミレイは別の部材の前で手を拭いていた。
赤銅の髪をまとめる布に、細い木屑が一つ付いている。
カイは、工具の音が止まるのを待ってから、紙を見せた。
「相談。今、いいか」
「その紙、一枚分なら。こっち、今から閉じる所」
彼は頷き、札の位置の図だけを出した。
ミレイは、セナの椅子と左手の線を見て、艇の図へ重ねず横へ置いた。
「これ、施療所で?」
「ああ。艇じゃない」
「分かった。実際の板の重さは?」
「まだ」
彼女は頷いた。
短い返事を、足りないから駄目だ、と切る顔ではなかった。次に必要な現物がどこかを見ている。
「乗る方の札は、操縦席の札へ足せばいいって物でもないね。合図を出す向きが、逆になる」
ミレイが図の二人の顔へ指を置いた。
カイは、自分が先に机を叩いてしまった所を、紙へ書いて渡した。
彼女が読んで笑う。
「あんた、助ける方の手が、先に出るから」
「出た」
「じゃあ、紙へ残そう。今度、艇で見る時、私まで先に始めないように」
彼は笑い、余白へその順を書いた。
セナが始める。相手が見る。受け取ったことを返す。
単に文字の順を逆へしただけではない、待つ人の役目がそこへある。
ミレイは艇の縁を見た。
「付ける場所を作るなら、荷を動かす所と、逃がす熱の所は残す。昨日の札も、勝手には動かさないよ」
カイは頷いた。
今朝の図を直せば、昨日の成功が要らなくなるのではない。操縦する自分に見える札は、そのまま要る。
乗る相手が変わった時の仕事を、そこへ別に足す。
彼は、実物で見る時の項目を、ミレイと並べた。
板の重さ、手を置く所、相手から見える向き、荷がある時の視線。
彼女は最後へ、風、と一語加えた。
「室内では、飛ばなかったでしょ」
「ああ。紙、折れた」
「折れたなら、なおさらね。風で裏返った札を、読めたことにはできない」
彼は、紙が曲がって二人で笑った所を思い出した。
楽しかったことを消さずに、実物で試す理由にもできた。
*
控えを畳む時、ミレイが、カイの描いた席へもう一度指を置いた。
「その線、あんたが座って測った方と、セナが椅子で示した方、色を分けて」
彼は二枚を見比べ、頷いた。紙を一枚へ写し終えれば、二人で艇へ乗って確かめた図のように見えてしまう。
彼は艇で見た方を実線へ、施療所で相談した方を点の線へ直した。
「届く場所が違ったら、点の方、描き直す」
「うん。図に合わない手だって、決めないでね」
カイは頷き、セナの元の紙を自分の清書と別に挟んだ。曲がった文字も、小さい左手の線も、そのまま残す。自分がきれいに写した図だけ持って帰れば、彼女に何を見せてもらったかまで、薄くなりそうだった。
その日の追加作業は、そこで終えた。
ミレイは取り付けを始めず、次の港の枠を見てからと伝えた。カイも、新しい部材を勝手に買わない。
艇は係留したままだ。
港の外へ出る許可を、札の相談と一緒に受けたことにはしなかった。
彼は操縦席の前へ立ち、昨日決めた札の位置を見る。
自分の席へ座った時の高さなら、見える。
セナの席へ移った時は、まだ別の結果になる。
その未確認の一席を、彼は、いつか誰かを乗せるための空白として初めて眺めた。
帰り際、ミレイが工具袋を持ち上げた。
「カイ。喉は?」
「同じ」
「じゃ、明日も紙、忘れないで。治った報告は、声を張ってするやつじゃないから」
彼は笑って頷いた。
彼女も口元を緩め、帰宅する人の流れへ向かった。
彼は艇の覆いを戻し、綱を見る。
運ぶ仕事は、客が席へ座った瞬間から、自分の思い通りに動く仕事ではない。
止めたいと言える相手を乗せ、その言葉を聞いて帰る所までが、自分の艇の仕事になる。
夕方、施療所へ控えを届けると、セナは目を上げた。
カイは、紙の最後の項目を見せる。
風。
彼女はその字を読み、窓の布を見る。
「それ、私も見たい。乗れる日に」
「ああ。一緒に」
彼は短く答えた。
今夜、艇へ連れて行く約束ではない。身体がよくなったと勝手に決める返事でもない。
彼女の席から、彼女の目で確かめる日を、二人の仕事の続きへ置く返事だった。
セナは左手で図の端を押さえた。
その手が届いた所から、艇の上へ続く新しい線が、紙の上だけで、静かに始まっていた。




