帰る艇の、四つの声
【前回までの人物】
・カイ:港の運び屋。自艇の修理が終わらず、今回は別の中型作業艇を借りて近海へ出た。
・セナ:星図を研究する負傷者。右足を着かず座ったまま、古い星の残骸の線を観察し、描き写した。
・ミレイ:機関士。借用艇の機関を担当する。夫のサミュエルと港で暮らしている。
・ガロ:左腕に義手を使う元兵士。今回は新たな船上護衛の依頼を受け、四人の帰路を見ている。
近づいてきた艇には、港の旗がなかった。
低い水面の上で影が細く伸びる。艇首に立った男が、片手を上げた。
「そっちの船長。少し話がある」
ガロは返事をせず、カイを見た。
カイは係留から艇を離しながら、声の届く方へ顔だけ向けた。
「いま、帰港する。用があるなら港で聞く」
「その前に済ませたい。観測の紙を持ってるな」
セナの手が、閉じた鞄の上で止まった。
カイは振り返らなかった。紙の在りかを、相手へ自分の目で教えたくなかった。
「どこの依頼だ」
男は濡れた縁の上で、外套の裾を払った。肩へ、擦れた革帯が掛かっている。荷を引き取る者の道具は見えたが、役所の札はない。
「俺たちは回収を請けてる。あの辺の記録は、こちらでまとめることになってるんだ。渡してくれれば、写す手間の分は出す」
「こっちは、港へ観察の届けを出して来てる。誰の物か決める話は、記録係の前で」
「紙を一枚、渡すだけだろう」
男の声が低くなった。
船尾にいたもう一人が、脇の覆いへ手を掛ける。
ミレイが、機関から顔を上げた。
「カイ。話を聞きに、止まる必要はない」
「ああ」
カイは、帰る方へ舵を保った。
男はそれを見て、小さく息を吐いた。怒鳴り散らす声ではなかった。
余計な仕事を増やすな、と言いたそうな顔だった。
最初の光は、波の照り返しかと思った。
細い青白さが、相手の艇縁から伸びる。一本の糸に見えたものが、空気の中で枝を分け、借りた艇の舷側へ触れた。
木が鳴った。
鋭い破裂音ではなく、奥から軋む音だった。
カイの歯が、一度だけぶつかる。
四年前の音が、今の機関の響きに重なった。
傾く床。戻らない呼び声。
「カイ、こちらを見て」
ミレイの声が、その隙間へ入った。
顔を向けると、彼女は計器に添えた手を離していなかった。
「浮力は残ってる。機関は、まだ私の方で見られる。あなたは、港へ運んで」
今、見ているものだけを言う声だった。
カイは唇を離した。息が一度、喉へ引っ掛かる。
「分かった。港へ戻す」
言った先に、ちゃんと舵がある。
指を置き直すと、汗で木が少し湿っていた。
ガロが、外套の下に提げていた小ぶりの盾を上げた。
左の義手へ重さを預け、右で角度を直す。身体を大きく見せて叫ぶのではなく、セナと艇縁の間に、守る幅を置いた。
次の青い糸が、盾の縁で弾ける。
水の匂いへ、焦げた塗料の匂いが混じった。
「記録を渡せ。港で揉めるより、損は小さい」
向こうの男が言った。
カイの後ろから、セナが答える。
「私が描いたものです。今、渡すとは言っていません」
足の痛みで、声の終わりが少し短かった。
それでも、誰かに代わって言ってもらう返事ではなかった。
「図が読める人へ、渡す場所も、私が決めます」
ガロは、セナの方を見ずに盾を戻した。
「聞こえたな」
その低さに、カイは、自分まで背を支えられた気がした。
借りた艇は、荷を積むための艇だ。戦うために、長く飛び続けるものではない。
ここで勝つことより、戻る所を残す。
カイは、遠くの港の見張り塔を見た。
風が変わると、相手の光の糸は一度、細くなった。
それだけで、危険が消えたとは思わなかった。向こうの船尾で、覆いの下の星晶が、まだ青く脈打っている。
ミレイが眉を寄せた。
「牽引用の術具を、こんな使い方して」
「止められるか」
「向こうの物へ、ここから手は出せない。こっちの機関を、欲張らせないことなら」
彼女は一つずつ、揺れる指針を確かめた。
なんでも直せる職人ではない。今、自分の手の届く艇を、落とさない職人だった。
カイは、セナが座る台へ短く声を向ける。
「揺れる。足は、そのまま置いてて」
「うん。鞄は、閉めた」
返事の後で、紙を留める小さな音がした。
足を下ろして踏ん張らなくてもいいよう、昨日、台の位置を動かした。そのわずかな幅が、いま、四人の間に残っていた。
セナは台の縁を握り、艇の向こうの海を見た。
「あの白い杭。行きより、水が被ってる」
カイにも見えた。
行きには先端だけでなく、横の節まで見えていた目印。今は、その下へ波が続いている。
「見えた。こっちの記録へ入れる」
怖い音だけで、目の前が埋まらなかった。
朝に来た道にも、違う高さの水がある。
カイは借りた艇の返りを確かめ、無理に自艇の癖へ合わせようとする手を緩めた。
青い糸が、今度は艇の後ろへ触れた。
小さな旗が、弾かれるように跳ねる。
旗を支えていた索が切れ、白い布が空へ一度広がった。
カイは、思わず身体を向けかけた。
「旗は、置け」
ガロの声が飛ぶ。
誰も海へ落ちていない。後ろへ手を伸ばす人もいない。
カイは正面へ戻った。
置いていく物を選ぶ怖さは、昨日の紙には書けていなかった。
借りた物だ。返さなくてはならない。
それでも、旗を取りに戻って四人の帰りを失うわけにはいかなかった。
「船主には、俺から話す」
短く言うと、ミレイが口の端を動かした。
「話すのは、帰ってから。いまは、そのために使いな」
艇の影が、波の上を動いた。
相手もついてくる。
港へ向かう二つの影の間で、ちぎれた旗だけが、ゆっくり水へ降りた。
相手の男が、もう一度、手を上げた。
「おい。紙だけなら、艇の傷まで増やさずに済む。俺だって、そっちの船を沈めたいわけじゃない」
「だったら、やめろ」
カイの声は、思ったより大きく出た。
男が一瞬、口を閉じる。
ガロはその間にも、盾を下げなかった。
「戻る仕事をしてる。渡せと言うなら、お前も、戻って名乗れ」
男は、港口の方を見る。
向こうの艇にも、止まりたがる理由があるのかもしれない。見張りへ見られたくない。契約を済ませたかった。損をしたくない。
だが、その理由をカイが当てて、相手の代わりに許すことはできない。
セナが描いた線は、艇へ載せて帰る荷の一つだった。
それを描いた本人も、同じ艇にいる。
紙だけ差し出せば、あとは関係がなくなる、と言われても、そうはならなかった。
艇の床で、金属の小片が跳ねた。
どちらの艇から来たものか、カイには見分けられなかった。拾う前に、ミレイが片足で通路の外へ払う。
青白い反射が、機関を覆う板の裏を走った。
「見てる。近づかないで」
ミレイは、カイが何かするより先に言った。
計器の針は、さっきから細かく震えていた。それを全部、機関そのものの異常だと決めたら、残った力まで止めてしまう。
彼女は耳を寄せず、いつもの立ち位置から音を聞いた。
「針だけが震えてる所と、艇まで揺れてる所がある。いまは、同じにしない」
カイには、二つの違いを見続ける余裕がなかった。
だから、見ている、と言ってくれる声に、自分が見られない場所を預けた。
ガロの盾へ、もう一度、細い光が当たった。
義手の留め具が鳴り、彼の口元が少し歪む。痛みか、重さか。カイが訊く前に、ガロは右手で留めを確かめた。
「こちらは保つ。お前は、俺を見なくていい」
短く言って、盾を持ち直す。
何も感じない鉄の腕が、勝手に四人を守っているのではなかった。
その腕をどこへ置くか、ガロが身体ごと選んでいた。
セナの鞄が、台の端へ少し滑った。
彼女は追って立ち上がらず、身体を椅子へ残したまま、右手で布の端を押さえる。腕の傷に触れたのか、息が一度詰まった。
「落ちるなら、紙はあとでいい」
カイが言うと、セナは首を振った。
「届く。……いま、届いた」
鞄を台の内側へ引き、もう一度留める。
「無理なら言う。今は、手が届くから。……鞄は、私が持つ」
声は強くなかった。痛みの間へ、少しずつ言葉を置いていた。
カイは、返す声を選び直した。
「分かった。鞄は任せる。痛みは、我慢しないで言って」
「持ててる。足は、痛い」
「ああ。帰る」
相手の艇が、また、波の上で影を詰めた。
こちらが止まらないことを、向こうもようやく数え直しているようだった。艇首の男は紙だけを見る顔をやめ、港口と自分の機関を交互に見た。
仕事を早く終えたいのだろうと、カイは思った。
自分たちの帰りを削ってまで、その都合へ合わせる理由は、なかった。
港の監視の光が見えたのは、その次だった。
昼の作業艇を確認する、塔の合図。
カイが返す合図を見て、ミレイは息を少しだけ長く吐いた。
「向こう、こっちを見てる」
「ああ。ガロ、右後ろは」
「まだいる。近づく足が鈍った」
ガロの灰褐色の耳が、風と別の方へ向く。
相手の星晶が、青白さを弱めた。
使い切ったのか、使うのをやめたのか。こちらからは分からない。
カイは、止まって確かめる気にはならなかった。
セナが台を押さえる指を、少しずらす。
「足が痛い。下へ引かれる感じが、強い」
最初に帰ると決めた時より、声が小さかった。
「聞こえた。もう一箇所、なんて言わない。まっすぐ戻る」
カイは、振り返らずに返事をした。
「着いたら、すぐ降りられる?」
「支えを用意してから、二人で。右は使わない。行きと同じにする」
「うん」
痛みが消える答えではない。
それでも、降りるまでの場所が、彼女の返事の中へ戻った。
ミレイが、一瞬だけセナを見る。
「腕の方は?」
「引っ張られる感じはあるけど、いまは、足の方が」
「分かった。鞄を持ち上げるのは、着いてから私がやる」
セナは、台の上の手を少し緩めた。
塔から二度目の合図が来た。
港内の警戒艇が、水面の上へ影を伸ばしている。
近づいてくるのは、こちらを止めて確かめる艇だ。無条件に通してくれる味方というわけではない。
それでも、誰の船か、どこで話すかが見える。
カイは、その監視の前へ戻りたかった。
相手の回収艇が、そこで進路を外した。
甲板の男が舷側を叩き、船尾の者へ短く何かを言う。こちらへ声は届かなかった。
青い糸は、もう伸びてこない。
ガロは盾を持ったまま、その影が遠ざかる方を見ていた。
カイは舵から目を離さず、言った。
「追わない」
「追う顔をしてたか」
「俺が、少し」
ガロは、そこで初めてカイを見た。
「なら、戻せ。乗ってるのは、四人だ」
悔しさを消す命令ではなく、数えるものを戻す声だった。
カイは頷き、船首を港へ向け続けた。
監視の境を通る時、借用艇の外板が、また鳴った。
カイの肩が上がる。
ミレイが、音のした場所を見た。
「さっき傷んだ所。いまのは、新しい光じゃない」
「……分かった」
分かったと返した後も、指の冷たさは残った。
怖くなくなったから、戻れたわけではない。
音のたびに、今の音を聞いている人がいてくれた。
カイの舵だけで、四人の帰りを全部作ったわけでもなかった。
港内の水は、外より穏やかだった。焼いた油と、濡れた荷縄の匂いがする。
いつもならうるさい荷揚げの声が、今日は、戻ってきた音に聞こえた。
セナは鞄を開けず、布の上から触れた。
「紙は、濡れてないと思う」
「そっちの紙、俺の線も入ってるから。あとで、見せて」
「下手な所を言う約束は、残ってる」
短い声の終わりに、息だけの笑いが混じった。
カイも笑おうとして、まだ喉が乾いているのに気づく。
ガロが盾を少し下げた。縁の塗りが剥がれているが、腕を庇う動きはなかった。
「飯までには、まだ戻れる」
ミレイが、その横から低く答える。
「こっちは、帰ったら報告が増えた。サミュエルに、昼が遅れるって伝える方が先かもね」
家へ戻る予定のある人たちが、同じ艇にいた。
カイは時刻を確かめた。まだ昼までの貸出し枠の中だった。けれど、傷んだ外板も、なくした旗索も、時間の中に戻ったからといって消えはしない。
機関士の対価、護衛の対価、艇の貸出し。
三つの精算は、まだだ。修理が要るかも、船主と現物を見て決めなくてはならない。
港へ戻れば全て終わり、ではなかった。
カイは、内側の桟橋へ艇を寄せる手前で、乗っている三人へ声を掛けた。
「着ける。降りる前に、台を用意する」
ガロが、ああ、と答えた。
ミレイが機関へ、セナが右足の支えへ、それぞれ目を向ける。
四つの声が、帰る仕事へ戻った。
鞄の中の線には、まだ名前がない。
その意味を話せる場所まで、見た人たちを連れてきた。
カイは、最後の短い距離を、急がずに進んだ。




