帰った艇に、残った値段
【前回までの人物】
・カイ:自艇の修理を待つ運び屋。借りた中型作業艇で四人を乗せ、記録を狙う艇から港へ戻った。
・セナ:近海の残骸を調べた研究者。右足と腕の負傷が残り、帰路で足の痛みが強まった。
・ミレイ:借用艇の機関を担当する機関士。夫サミュエルと港で暮らす。
・ガロ:左の義手と小盾で四人を守った護衛。帰着と引継ぎまでが今回の仕事。
係留索が桟橋へ渡った時、カイはようやく、自分の指が冷えていることに気づいた。
舵から離すと、握っていた形のまま、少し開きにくかった。
機関の音が低くなり、代わりに桟橋の車輪が鳴る。港の油と濡れた木の匂いが、急に近くなった。
「まだ、降りるな」
ガロが、台に座るセナへ声を向けた。
命令するために大きくする声ではない。艇と桟橋の間を見ている人の、短い声だった。
カイは、用意してもらった移動用の椅子の向きを確かめる。
ミレイは機関を落ち着かせてから、鞄へ手を添えた。
「持つよ。紙、入ったまま?」
「うん。閉じたまま、お願い」
セナは右の腕を引き伸ばさず、鞄から手を離した。
カイは、彼女の足元ではなく顔を見た。
「いまから動く。痛みが増えたら、途中で言って」
「もう、増えてる。さっきより、下へ引かれる」
その返事に、カイは、急いで終わらせたくなる自分の手を止めた。
早く降ろしたいのは、自分だった。
揺れない所へ戻せば安心だと、先に決めていた。
「分かった。ここで一度、位置を合わせ直す」
ガロが頷き、左の義手を艇縁へ置いた。右手の方は、セナが掴む物を先に指す。
乗ってきた台から、港の椅子へ。
短い距離が、行きより長かった。
誰も、これで痛くないとは言わなかった。
施療所へ向かう前に、セナはミレイが持つ鞄を見た。
「その紙、全部、港へ渡すことになってる?」
カイは首を振った。
「攻撃されたことは届ける。でも、お前の図を、俺が勝手に置いていく話にはしない」
「じゃあ、記録は鞄のままで。足を見てもらってから、私も話す」
「ああ。艇の方を先に引き継ぐ。あとで、記録係の所で合流しよう」
彼女は、少しだけ肩の位置を変えた。
ガロが椅子の横へ回る。
「俺が、施療所まで行く。戻る時は、歩かせない」
「仕事、もう終わったんじゃないの」
セナに訊かれ、彼は、桟橋の外を見た。
「まだ、受け取った人へ渡してない」
灰褐色の耳が、荷車の音の方へ一度動く。
カイは、その先の通路を空けた。
剣も盾も振らない時間にも、護衛の仕事は続いていた。
ミレイは鞄をセナの見える位置へ置き直し、二人が角を曲がるのを見送った。
「腕の方も、見てもらう。帰りに、手を伸ばした時の話を、私からも伝えておく」
「頼む」
カイは、それ以上、何も足さなかった。
自分が見ていない所まで、自分の口で報告しなくてよかった。
借りた艇の外板は、止まって見ると、傷がいっそうはっきりした。
港の明るさの中で、青い糸の触れた跡が、細い焦げのように残っている。索が切れた場所には、布の旗ではなく、短い端だけが揺れていた。
カイは船主の前で、手を下げた。
「戻しました。ただ、借りた時のままじゃない。外で術具を当てられた。外板と、ここの索を傷めて、旗は戻せなかった」
船主は、すぐに帳面へ金額を書かなかった。
手袋をした指で、焦げた所の外を押す。次に、切れた索を見て、ミレイへ目を向けた。
ミレイは機関の蓋の前へ立った。
「動いて戻った、だけでは、次に貸せるとは言えない。こっちは、いまから見ます。触れた光で針だけ揺れた所もあったから、外板と一緒に、見たことにしないで」
彼女が確認した範囲を示すと、船主は帳面の頁を二つに分けた。
カイは、その線を見てから、自分の控えを出した。
「失くした旗を取りに戻らなかった。それは、俺が決めた」
「帰ってから、そう言えてるなら、順番は間違ってない」
ミレイが、短く返した。
「ただし、旗の値段が消える話でもないよ」
「分かってる」
カイは、自分の名を控えへ書いた。
襲った相手が悪いから、借りた物を黙って返せるわけではない。だからといって、現物も見ずにどんな修理代でも払う、と書くのも違った。
船主は、受け取った控えと艇を見比べ、損傷確認の欄へ印をつけた。
精算の欄は、空いたままだった。
カイは、その空欄を見ても、目を逸らさずにいられた。
まだ決めていないことを残すのは、逃げたこととは違った。
ミレイが蓋を開くあいだ、カイは失くした索の留めを見た。
自分なら、と考えかけて止まる。
これは、まだ借りている艇だ。切って形を整えてしまえば、当たった時の跡まで変わる。
「触ってないの、助かる」
ミレイが、覗き込みもせずに言った。
「顔に出た?」
「指が、動きかけた」
カイは、その手をポケットへ入れず、膝へ置いた。
彼女は、先ほど見た針と、繋がる側を順に確かめた。港へ戻ったから正常だ、とは言わない。音が止まった所も、止まる前に何を見たかと並べていた。
少しして、彼女は肩を戻した。
「ここで見える所だけなら、焼け落ちた物はない。ただ、揺れてる間の負荷は残ってるかもしれない。今日は、点検の時間を取ってもらう」
「俺の艇と、二隻分になるな」
「そう。二隻になった。だから、私一人が、昼までに両方直すことにはならない」
ミレイは、自分の工具を拭いた。
カイは、ようやく、彼女が朝から家へ戻っていないのを思い出した。
「サミュエルへ、昼が遅れるって、俺から」
「自分で伝える。あなたに頼む時は、言うから」
「ああ。悪い」
「謝る前に、あっちの記録、あなたが行って。私はこっちの見た所を、一枚にして渡す」
役目が分かれると、カイの足も動いた。
彼女の家庭の連絡まで自分で取り返そうとしなくても、いま受け持つ仕事はあった。
港の記録係は、カイの最初の一言で、用紙を替えた。
穏やかな顔が変わらなくても、開く欄は、出発前の届けとは違った。
「艇の損傷と、引渡しの要求ですね。相手のお名前は、聞いていますか」
「聞いてない。回収を請けてる、と言った。誰からかは、名乗らなかった」
記録係は、名前の欄を埋めなかった。
「回収を請けているというのは、相手の発言として残します。こちらで権限を確認できた、という意味にはしません」
「そうしてほしい。港で話そうって言ったら、先に紙を渡せと言われた」
カイは、男の声を思い出した。
あの時は、ただ、止まってはいけないという気持ちが大きかった。
今、誰に何を言われたかを順に置くと、自分が答えた言葉まで、少し違う形で聞こえる。
「沈めたいわけじゃない、とも言った。だが、艇に当てたのは、その前だ」
「光が触れた所を、見た順で教えてください。術具の種類については、ミレイさんにも伺います」
全部を一つの説明へまとめなくてよかった。
カイは、自分が見た最初の青白さを話した。
艇が軋んだ音。旗索が跳ねたこと。港の監視の合図で、相手の進路が外れたこと。
相手が術具を使い切ったのか、使うのをやめたのかは、知らない、と言った。
記録係は、その言葉も、短く残した。
セナとガロが来たのは、その用紙が埋まりかけた頃だった。
セナは、椅子のままだった。足をついて歩いた形跡を見つけて叱るように見たくはなかったが、カイは、彼女の足元へ目が行くのを止められなかった。
「治ったわけじゃない」
セナが先に言う。
「今日は、もう立たない。次に外へ出るのも、また相談する」
「分かった。腕は?」
「包帯を見直してもらった。紙を持てるから、全部持っていい、ではないって」
彼女は、鞄の方へ顔を向けた。
「あれは、持ってきた?」
「ここ。開けるのは、お前が見てからにした」
カイが卓の上へ置くと、セナは留め具を右手で外した。
中の紙は、乾いていた。
それを確かめた時だけ、彼女の息が長くなる。
ガロは椅子の後ろから離れず、左の義手の留めを自分で調整していた。
カイが目を向けると、彼は首を少し振る。
「新しくやられた所は、いまのところない。後で、外して見直す。お前の艇と同じで、帰ったから全部済んだことにはしない」
「ああ」
カイは、彼の盾の塗りが剥げた所を見た。
借用艇の傷と、護衛が引き受けた負荷を、同じ欄へまとめたくなかった。
セナは、自分の描いた線を、全部は差し出さなかった。
近海で何を見たか。その時、記録を求められたこと。鞄を持ったまま渡さないと答えたこと。
その順で話してから、記録係へ、見せる範囲を示した。
「これは、いま写してよい部分です。ただ、普通の燃料結晶と違う形だと思った、までです。何のための線かは、まだ分かっていません」
「役所の資料と同じ形だ、と断定されたわけではないのですね」
「はい。比べるための記録です」
記録係は頷いた。
カイはその横で、自分の描いた歪んだ杭の位置を見つけた。
行きと帰りで、見える水の高さが違った所だ。
「そっちは、俺がここから見た。高さの数は測れてない」
「線は、私が描き直していません。カイが見たものとして残しています」
セナが答える。
下手な線は、そのままだった。
それでも、自分が戻してきた情報だった。
昼を過ぎてから、ミレイが戻った。
彼女は借用艇の点検の控えを記録係へ渡し、そのあと、自分の工具袋から、別の紙を出した。
「これは、あなたの艇の方」
カイの前へ向けられた紙には、三つの物と、二つの日が書かれていた。
調整部の継ぎ手。そこを固定する留め具。外側を開け直した時に替える保護材。
「部品が揃うとして、作業と検査に二日。明日から二日で、必ず飛べるって約束じゃない。部品待ちの日と、手を動かす日を分けて」
ミレイは、最初の日付の欄を指した。
「いま、港で手配を聞ける分の部品が三銀。作業と、動かした後の検査で二銀。合わせて五銀の概算。開いた先の傷みが違ったら、その場で止めて、先に言う」
カイは、五銀という数字へ目を置いた。
自艇で仕事をするには、その艇をまず戻さなくてはならない。
分かっていたことでも、名前のある部品と並ぶと、財布の底へ近づく。
「今日、全部払って始める話じゃ、ないな」
「違う。いまは、この範囲ならいくらで何日掛かるか。あなたが次に飛ぶ日を勝手に決める前に、これを持っておいて」
カイは、その紙を受け取った。
借用艇の外板と旗索は、別の紙にある。
機関士の今日の対価と、ガロの護衛の対価。借用料。セナの移動と施療。
自艇の五銀へ、全部をまとめてはいけなかった。
「旅費から出すと決めた分は、私の方でも控えを見たい」
セナが、卓の端へ指を置いた。
カイは、三つの費用の紙を彼女へ向ける。
「分かってる。こっちの艇は、俺のだから。修理を全部お前の紙に載せる気はない」
「私も、何もかも持てるとは言ってない。ただ、外へ行く相談は、四人でした。借りた艇に何が起きたかを聞かずに、あなた一人が全部払うと決めるのも、待って」
カイは、返しかけた言葉を止めた。
自分が引き受けると言えば、話が早く終わる。
その終わらせ方を、さっきも、艇を降りる時にしそうになった。
「じゃあ、損傷の見積もりが出てから。借りる前に決めた分と、増えた分を分けて、話す」
「うん。私も、分からない額へ先に印はつけない」
ミレイが、自艇の見積もりの隅へ日付を入れた。
「それでいい。私も、まだ受け取ってない分を、受け取ったことにしない」
ガロが、椅子の後ろから低く言った。
「俺の分も、今日やった仕事を確かめてからだ。お前一人で、額まで決めるな」
カイは、その言葉へ、少しだけ笑った。
「帰るより、こっちの方が難しいな」
「なら、覚えろ。次も、帰った後がある」
記録係は、控えを二組揃えた。
相手の雇い主は、空欄のままだった。追手の名も、まだない。
星の中の線にも、まだ名前は付いていない。
それでも、誰が何を見て戻り、何を言われたかは、港へ残った。
カイは、鞄へ二つの紙を入れた。
五銀の概算と、二日分の作業。
借りた艇に残った傷の確認。
どちらも、次に何を選ぶかを重くする紙だった。重いから、誰にも見せずに抱えればよい物ではなかった。
セナが、椅子の上で窓へ顔を向ける。
「港の中からでも、あの星は見えるね」
カイも見た。
昼の空には、まだ薄く、星の骸が浮かんでいた。
「今日は、ここから見る」
「うん。今日は、ここから」
彼女はそう返し、乾いた図を膝の板へ広げた。
痛みのある足を動かさず、できる仕事が、そこに残っていた。
カイは、彼女の鉛筆が届く所へ、自分の歪んだ線を置いた。
戻ってきた四人の仕事は、もう一度、地上から続いた。




