燃やすには、整いすぎた線
【前回までの人物】
・カイ:自由港カレドの運び屋。自分の艇は点検中。セナが観測したい地点へ行くため、乗降と帰路の方法を相談している。
・セナ:救助された星図の研究者。原図の写しを受け取り、自分で近海を観測したいと望む。右足首は体重を掛けられない。
・ミレイ:カイの知り合いの機関士。機関と乗る人の条件を、別々に確かめている。
・ガロ:以前、地上での護衛を受けた獣人の元兵士。その契約は既に終了している。
「割れる前から、線があった」
セナは、海へ張り出した黒い塊を見て言った。
カイには、最初、どこも割れ目にしか見えなかった。
波が引くと、濡れた面が朝の光を返す。黒の中へ、細い銀色の筋が三本、枝を分けて伸びていた。
彼女は指で触ろうとはしなかった。
膝の台へ紙を留め、いま見ている所を、先に描いた。
*
ここへ来るまでに、一晩掛かった。
昨日、施療所を出たカイは、ミレイと工房へ戻った。
点検台の小型機関は、覆いが開いたままだった。取付部の響きは減っている。だが、間隔の変わる揺れは、それだけでは消えていない。
「これへ、四人と、足を支える台まで入れようとした?」
ミレイが、自分の工具を置いて訊いた。
「一瞬。考えた所で、もう、通路がなかった」
「なら、一瞬で終えて。人を乗せてから、荷を減らす話には出来ないよ」
赤銅色の髪をまとめた布へ、木の粉が一つ付いていた。
カイは頷いた。
自分の艇が直るのを待つことと、調査へ行く方法を、この一艇へ全部押し込むことは違う。
彼は港の貸出し台帳から、中型の作業艇を一枠借りられないか調べた。
人と道具を載せて近海を回る艇だ。渡り板を使える幅があり、座る場所を取っても、操船の通路が残る。
船主にはアベルから取り次いでもらい、カイ自身が、航路と帰港の予定を伝えた。
借りるのは、朝から昼まで。
風が変われば、その前に戻る。
自分の艇が、出せる状態へ戻ったと記録したわけではなかった。
ミレイは、借りる艇の点検記録を読み、現物も見た。
どの艇にも異常がないと、港中へ札を貼るためではない。今回の道で、誰が、何を見ながら運ぶかを決めるためだった。
「私も乗る。機関の方は、私が見る。ただし、工房の作業料の続きに、黙って入れないで」
「別の見積もりを、頼む。セナにも、読んでもらう」
「そう。あの子の図だけ乗せて、あの子の返事を置いて行かない」
カイは紙を受け取り、もう一件、護衛の連絡先へ向かった。
*
ガロは、前の契約の札を出さなかった。
色褪せた外套を椅子へ掛け、左の義手を机の端へ置く。新しい紙へ、行く場所と、帰る時刻を先に書いた。
「地上で半日、の続きじゃない。乗るなら、船上の仕事だ」
「ああ。見てほしいのは、周りと、乗り降り。俺が操る間、セナの足元も、一人には出来ない」
「俺がずっと足を抱えていたら、周りは見られない」
低い声が、カイの描いた人の位置へ落ちる。
カイは紙の椅子を一つ、動かした。
ミレイにも見せ、支える台の位置と、荷の数を変えた。
人を増やせば、ひとり分ずつ全部が楽になるとは限らない。増えた人の通る幅も要る。
ガロは、最後の図を自分の方へ引いた。
「これなら、引き受ける。昼までに、内側の桟橋へ戻る。長くするなら、その場で、先に言え」
「勝手に、もう一箇所は、足さない」
「その一箇所で、帰る飯が冷める」
少しだけ、口元が動いた。
カイは笑い、時刻の下へ線を引いた。
家へ帰る人に頼んでいる仕事だと、その短い言葉で、もう一度分かった。
船代と、護衛と、機関の仕事。
三つの見積もりは、夕方のセナへ渡した。
彼女は観測する紙だけでなく、費用の合計も自分で読んだ。手元の旅費と見比べ、今回の調査費として、自分が払うと答えた。
船主も、二人の職人も、帰港時に精算する条件を認めた。
まだ、払ったことにはしない。
カイの未収の運賃を、今ある金へ足したわけでもない。
「帰る時に、ここへ書いた分を。増やすなら、私にも、先に聞いて」
セナは紙を折り、自分の控えへ挟んだ。
その指は、図を読む時と同じ速さではなかった。
行きたい場所へ行くことに、値段も付いていると知った人の手つきだった。
*
港の記録係は、近海の保全図を開いてくれた。
今度の残骸は、セナを乗せて墜落した調査船ではない。もっと前に落ち、海辺へ残っている星の塊だ。
立ち入る場所と、調べてよい範囲が、図に分けてあった。
「見ることと、持ち帰ることは、別です。今回は、外からの観察と記録だけ。新しく割ったり、切り出したりする申請ではありません」
「見えない所は、そのままにします。近づけなかった場合も、控えへ」
カイが答えると、係は、図の一角を指した。
「こちらは、以前の作業足場です。今も使える、という意味で印を残してはいません。艇から見るなら、係留の担当と、朝の状態を確かめてください」
都合のいい桟橋まで、紙から生えてくるわけではなかった。
カイは、セナが陸の屋根へ引いた、見えない側の線を思い出す。
今回は、足を着けずに、見える所まで。
その範囲を、本人へも戻して伝えた。
*
翌朝の施療所で、セナは、昨日より早く、足を下ろそうとはしなかった。
紙の台を膝へ置き、施療士の問いへ、自分で答える。
夜の痛みと、足を低くした時の感じ。
腕の傷の、突っ張る所。
カイは用意した乗降の図を、本人が話し終えてから広げた。
施療士は、艇へ乗る所と、座る所、戻る時刻を見た。
「今日は、右へ体重を掛けない移動で、短い外出を。途中で痛みや疲れが増したら、予定より早く戻ってください。上陸して歩く許可ではありません」
「はい。艇から、見える範囲だけにします」
「帰ってきたら、足と腕を、もう一度見せてください」
セナは頷いた。
行けるという返事を貰った嬉しさで、診てもらう時間まで飛ばさなかった。
持って行く写しは、必要な範囲だけだった。原図の本体は、港の保管場所に残っている。
腕に重い束を抱えず、紙は留められる台へ。
昨日、選んだ物を、一つずつ、本人が確かめた。
乗る時、カイは艇の縁へ足を置いて待った。
ガロと二人で、セナの右足へ重さが掛からない移動を支える。
ミレイは、その間、艇と渡り板の動きを見た。
「今、急がなくていい。潮が、こっちを待ってるふりしてるから」
「ふり、なんですね」
セナの声が、少しだけ明るくなる。
「本気で待ってるなら、私たち、こんなに綱を使わないよ」
ミレイが笑い、固定を確かめた。
セナが座り、右足を支えへ置いてから、カイは自分の場所へ戻った。
まだ、出ていない。
乗せたことを、着いたことへ急いで変えないよう、岸と四人の間を、もう一度見た。
*
港の中を離れる時、機関が低く響いた。
カイの指が、舵へ少し強く掛かる。
あの日と同じ音だと決める前に、今の音を聞く。
ミレイが、計器から目を上げた。
「いまの揺れ、計器にも出た。固定は、こちらは変わってない」
「分かった。こっちは、舵の返りを見てる」
自分の声が出たことを、自分の耳で確かめた。
怖さがなくなったわけではない。
代わりに、全ての音へ一人で答えを付ける必要もなくなっていた。
セナは、カイの顔だけを見続けず、自分の紙へ戻った。
ガロは周囲へ目を向け、短く、右から作業艇、と告げた。
こちらを追う船ではない。向こうにも、朝の荷を運ぶ道があった。
カイは互いの進路を空け、沿岸の低い道へ入った。
港の屋根が低くなると、海の匂いが、機関の熱より強く届いた。
陸で見た時には、屋根の陰だった所が、艇の向こうへ開く。
セナが、少し身を起こした。
「ここなら、下の線も見える」
台の端を見たミレイが、指を一本立てた。
「台から、先へは出ないでよ」
「出ません。……見えたので、ちょっと、前へ行きたくなりました」
自分で言い、彼女は座る位置を戻した。
青みのある黒髪の編み目が、肩の前で揺れる。
嬉しくなってから、戻る位置を自分で決める。
カイには、それも、一緒に乗っている人の強さに見えた。
*
保全区域の手前で、カイは艇を落ち着かせた。
港から指示された係留点は、朝の確認でも使える状態だった。そこへ留め、見え方が変わる分を、セナへ知らせる。
黒い塊は、思っていたより、整っていなかった。
波に削られた窪みへ白い泡が入り、横には、古い切出しの跡もあった。燃料として、取れる所から取った痕なのだろう。
ミレイが、細い計測板を手にする。
艇から届かない所へ腕を伸ばさず、見える縁だけを指した。
「あっちの割れ方。うちで使う欠片と、同じ所もある」
「じゃあ、全部、燃料の残りか」
カイが訊くと、セナの筆が止まった。
「同じ所があることと、全部が同じことは、別かもしれない」
彼女は、持ってきた写しの一角を開いた。
古い図の線が、黒い面の筋と、似た所で枝を分けている。
けれど、重ねて置けばぴったり合うという物ではない。欠けた側も、図へない側もあった。
彼女はそこを消さず、今の面を、別の紙へ描いた。
「カイ。あの三本、波が引いた時、下まで続いて見える?」
カイは、舵を離さず、顔の向きを変えた。
水が引く。
筋の一つは途中で切れ、もう一つは、削られた面の裏へ隠れた。
「右は、途中まで。左は、先が見えない。真ん中は、そこから、もう一つ分かれてる」
「ありがとう。私も、そこまで見える」
同じ物を見た返事が、風の中へ、短く揃った。
*
セナが、そこで、割れる前から線があった、と言ったのだった。
ミレイは顔を寄せた。
「割れ目へ、あとから色が入ったんじゃなく?」
「その可能性も、最初、考えました。でも、こっちの削った面で、線だけが、同じ幅で残っています。割れた所へ染みた物なら、外の割れ方に沿うはずなのに」
言葉が速くなり、彼女は一度、紙を押さえ直した。
カイにも見えるよう、描いた方を向ける。
太さの揃った三本が、同じ角度で枝を分けている。
周りの黒い面は欠けているのに、分かれ方の方は、欠けた縁とは別の決まりで並んでいた。
「道みたいだな」
カイの言葉へ、セナはすぐ頷かなかった。
「何かが通った道かは、まだ。でも、元から、分かれる形が作られていたのかもしれない」
ミレイは、自分の燃料の控えを取り出した。
「普段、砕いて使う分は、ここまで揃って見えない。粉にしたあとじゃ、そもそも比べられないね」
「燃やしたら、線も、なくなる」
セナは、黒い塊へ視線を戻した。
その声には、責める相手を見つけた熱はなかった。
ここに何かあるのに、今まで、何を使っていたのか。
問いの方が先に大きくなって、まだ、名前が追い付かない響きだった。
カイは、港の湯の車を思い出した。
燃料の桶と、温かい物を待つ人たち。
今、燃やすなと言えば、次の鍋が煮えるまで待ってくれない暮らしがある。
それでも、この線を知らなかったことへ戻す理由にはならない。
「取って帰るか、とは訊かない方だったな」
「今日は、描いて帰る。触って、何が変わったか分からなくするより、今、見えている方を持ちたい」
セナは、自分で、次の紙へ手を移した。
カイも、艇の向きと、波の高さを控えた。
図に詳しくなくても、次に同じ物を見たい時へ渡せる仕事はあった。
*
やがて、セナが筆を止めた。
「足が、下へ引かれる感じ。少し、強くなった」
カイはすぐ、残りの紙の枚数を数えるのをやめた。
「戻ろう。見た所は、描けた?」
「うん。見えない側は、そのまま。まだ、少し悔しいけど」
「その分は、帰ってから、俺の図の下手な所へ言ってくれ」
「そこは、別に言う」
短い返事で、ミレイまで笑った。
彼女が台を留め直し、ガロが、離れる側の水面を見た。
カイは時刻を確かめる。
昼までの枠には、まだ余裕がある。その余裕を、もう一箇所へ使う気にはならなかった。
セナがやめると言った時、帰れる。
昨日、紙へ書いたことを、今、舵を動かして返す番だった。
係留を解く前に、ガロの声が変わった。
「カイ。港口と、逆から一艇」
低く、短い声だった。
カイは顔を上げた。
遠い水面の上を、小さな艇の影が動いていた。朝、すれ違った荷の船より速い。
誰の艇かまでは、まだ見えなかった。
ガロは武器を振り回さず、荷と人の間へ身体を移した。
ミレイの指が、機関の方へ戻る。
セナは描いた紙を閉じ、右足を動かさずに台を押さえた。
カイも、まだ、追手だと決めて舵を切らなかった。
帰る道と、近づく影を、同じ視野へ入れる。
燃やすには整いすぎた線が、鞄の中にあった。
まずは、それを見た四人で、港へ帰る。
カイは、声を出して、その行先をもう一度伝えた。




