運ばれる先を、自分で選ぶ
【前回までの人物】
・カイ:自由港カレドの運び屋。陸の観測候補を歩き、見える空と帰る道を図へ残した。自分の艇は点検中。
・セナ:救助された星図の研究者。右足首を痛めて休みながら、預けられた原図の写しを待っている。
・ミレイ:カイの艇を点検する機関士。未確認の異音を残したまま出航することは認めていない。
封の上には、まだ、港の印があった。
翌朝、カイは施療所の戸口で、包みを持ち替えた。
昨日の箱とは比べものにならない軽さだ。だが、その軽さのまま、ただセナへ渡して帰るだけでは済まない気がしていた。
港の保管担当から受け取った、原図の写し。
原本は保管場所に残り、包みには、渡された写しの頁数と範囲が付いている。箱の調査権について、全部の話が片付いた札ではなかった。
カイは外の控えだけ確かめた。
中を先に開いて、何を思うべきかまで決めて運ぶのは、自分の仕事ではない。
面会の時刻を確かめ、部屋へ入る。
セナは寝台へ足を載せ、上半身を起こしていた。青みのある黒髪を一本へ編み、紙を置く小さな台の隅へ逃がしている。
顔を上げるのが、カイの挨拶より先だった。
「来た?」
「紙の方も、俺の方も」
言いながら包みを台へ置くと、セナの口元が、ほんの少し緩んだ。
すぐ、封と頁数へ目が戻る。
待っていた人の速さだった。
カイは自分の足場図を、その包みへ重ねず脇に置いた。
「昨日の道も、持ってきた。そっちを見てからでいい」
「うん。先に、これを開けたい」
彼女が、自分で封を切った。
*
一枚目を開いた所で、セナの手が止まった。
カイは、何か足りないのかと思い、顔を寄せかけた。
その前に、彼女が、細く息を吐く。
「母の直した所も、写ってる」
紙の端に、線を継いだ痕があった。
カイには、図の一部にしか見えない。
セナは、そこへ爪を当てず、少し離した指でなぞった。
「元の紙が欠けていたの。字が無かった所を勝手に埋めずに、裏から支えた。その境目」
「中身だけ、写すんじゃないんだな」
「何が読めて、何が無かったかも、要るから」
声は、図へ近づくほど少し速くなった。
父の残した観測と、母の直した紙。
ただ一つの秘密を知っている人の宝物ではなく、別々の手が、次に読む人へ渡してきた物なのだと分かった。
カイは、昨日、屋根に隠れた空へ引いた線を思い出した。
見えない所を、見えたことにしない。
その小さな空白なら、自分の図にも残せていた。
セナは頁数を数え、台の上を二つに分けた。
港へ返す包みの紙と、今読む写し。
原本が自分の手元へ戻ったように扱わず、渡された範囲を確かめている。
カイは、彼女が開き終えるまで待った。
包みを運んだ役目の先で、初めて聞ける話がある気がした。
*
施療士が来ると、セナは図を閉じた。
研究の話を急ぎたい顔のまま、足を診てもらう方へ向き直る。
カイは椅子を引き、邪魔にならない位置へ退いた。
「昨日から、痛み方が変わった所はありますか」
「何もしていない時は、少し楽です。下へ下ろすと、まだ脈を打つように痛みます」
施療士は頷き、足首と、腕の傷の周りを順に見た。
包帯が外れる間、セナの指が台の縁を押さえる。研究の話をしていた時より、息が短くなった。
カイは、大丈夫か、と何度も声を重ねるのをやめた。
本人が答える先は、今、施療士の問いだった。
「右足へ、体重を掛けないことは続けてください。楽になった分を、歩ける分と同じには数えないで」
「船に座って行くのも、まだ駄目?」
施療士の手が止まる。
カイも、セナを見た。
彼女はカイへ先に許可を求めるのでなく、自分の移動の話として、施療士へ向かっていた。
「どの船へ、どう乗って、何をする予定でしょう」
「それを、これから、カイと相談します。まだ、乗る日時は決めていません」
「では、今ここで、行けるという返事には出来ません。足を下へ垂らす時間、乗り移る時の支え、揺れ。座る以外の動作も、聞かせてもらう必要があります」
セナは少し唇を結び、頷いた。
拒まれたから黙るのではなく、次に必要な言葉を探している顔だった。
「私が、座ったままでも出来ることを、先に決める。それを、また持ってきます」
「はい。途中で痛くなった時に、やめると言えることも。その時に、帰れる方法も」
カイは、自分の紙へ目を落とした。
帰る方法なら、昨日、道に描いた。
だが、今日ここで必要なのは、自分が歩ける道の続きだけではない。
*
施療士が次の部屋へ行ったあと、セナはすぐ図を開かなかった。
足の位置を自分で確かめ、呼吸を戻す。
カイも、待つための椅子へ腰を下ろした。
「行きたい所、もう、あるのか」
「近海の、残骸を見られる所。前に比べた線を、もう一度、近くから確かめたい」
彼女が写しの一部を開く。
港で照合した記録と、角度を書いた控え。カイには既に見た線もあったが、写しの方には、その線を引く前に置いた小さな印が残っていた。
「この二つの値、同じ場所から見た物としては、合わない。でも、どちらかが間違いだと捨てるには、ここが足りない」
「足場の高さか」
「それも。低い方で何に隠れたかと、その時、何を目印にしたか」
カイは昨日の図を横へ置いた。
倉庫の屋根の線。見えた空と、隠れた所。
セナが、自分の紙を持ったまま、顔を近づける。
「ここからは、下が見えない」
「ああ。俺は、全部見えるつもりで行った。立ってみたら、この屋根が掛かった」
「なら、ここと港内で同じ時刻に見ても、低い方の違いは残る。上の点だけなら比べられるけど、今、知りたい所が抜ける」
指が、紙の下へ伸びた。
カイは、風で使わなかった通路を示す。
昨日の監視担当の判断と、自分が見た旗を、時刻を分けて話した。
セナは、短い道なら行ける、と線を伸ばさなかった。
「近い方でも、昨日は使えなかったんだね」
「使うなら、今の風で、また返事をもらう。昨日、迂回出来たから、今日、外へ出せる話にはならない」
彼女は頷き、原図の一つの印へ戻った。
*
カイが海側から見た足場の形を描くと、セナは、そこへ三つの目印を仮に置いた。
ひとつは、港側から見える物。
もうひとつは、観測する位置を揃えるための物。
最後は、写しと実際の見え方を比べたい、低い側の範囲だった。
星が落ちる日を決める図ではない。
自分たちが何を見たと呼べるかを、揃えるための図だった。
「俺が向こうで、同じ所を指せば足りる?」
「たぶん、最初の照合は出来る。でも、線の続きが違って見えた時、どの印から取り直すかを、私も、その場で見たい」
セナは、カイの顔へ目を上げた。
「紙を運んでもらって、答えが違うたびに戻って来てもらうより、私が判断出来る所は、私が行きたい」
カイは、すぐ分かったと頷かなかった。
痛む足を見たばかりだった。舟の端を越える時、揺れた時、膝へ置いた台が動いた時。
運ぶ側の頭には、身体を支える場所が、いくつも先に浮かぶ。
セナは、その沈黙を、返事として諦めなかった。
「カイが、出来ない所を言って。行きたいから、出来ると言ってほしいんじゃない」
彼は、ようやく息を吐いた。
「乗り移る所は、一人で足を使わずには難しい。今の艇は、そもそも出せない。直っても、俺一人で、操船とあんたの支えを、ずっと同時には出来ない」
「うん」
「あと、俺が、音で止まるかもしれない。昨日、一回、止まった」
最後は、言う前から、喉が狭くなった。
セナは、図へ目を逃がさなかった。
*
四年前のことを、全部、説明したわけではない。
カイは、昨日の綱の音と、アベルの声と、内側へ回った道を話した。
監視担当が見た風と、自分の怖さを、同じ異常の証拠にしないことも。
セナは、手に持つ紙を台へ下ろした。
「その時、私は、何をしたらいい?」
大丈夫、と言って彼を先へ押す声ではなかった。
カイは一度、考えた。
研究の判断まで、恐怖を隠した操船者の顔へ預けられたくはない。反対に、乗る人が、自分の顔色だけを見続ける旅にもしたくなかった。
「返事がなくなったら、同じ問いを、短く、もう一度。俺が戻るまで、先へ行く合図を出さないでほしい。操る方を代われる人が要るかは、ミレイとも相談する」
「私の方が、痛くて続けられなくなった時は?」
「その時も、先へは行かない。帰る。見たい所が、あと一つでも」
彼女は右足へ目を落とした。
断念を言い渡された人の顔ではなかった。自分がやめると決めた時、その返事が通るかを確かめる顔だった。
「それなら、私が、行きたいって言う分も残して」
カイは頷いた。
身体を運ぶ前に、その人の希望まで安全な所へ置き去りにする必要はない。
彼は図の余白に、セナ自身の言葉で、近くから確かめたい、と書いた。
同意の欄を、カイが代わりに埋めたわけではない。
行ける条件を揃える相談を、ここから始めるための一行だった。
*
その日の午前、ミレイも施療所へ来た。
先に面会出来る時間を確認し、油を落とした手で扉を叩く。赤銅色の髪をまとめる布は、工房の物から替わっていた。
「紙は届いたんだね。こっちの機関より、先に」
「紙に、先を越された」
「追い付くために、蓋だけ閉めるのは、なしだよ」
カイは笑いかけたが、セナの方が先に、分かっています、と真顔で頷いた。
ミレイは、その顔を見て、冗談だけで済ませず、椅子を引く。
セナは、自分から、観測したい場所と、座って見る範囲を話した。
ミレイは、図の三つの印より先に、乗る所と帰る所を見た。
「艇の上で座れる台を置くなら、通路が減る。抱えて乗せたら終わり、じゃない。降ろす時も、同じ人と道具が要るね」
「はい。私が途中でやめたい時も、戻れるようにしたい」
「それは、いい。あとは、こっちが終わってから。機関はまだ、出せる状態にしてない。試す順も、飛ばさない」
カイは、昨日からの紙へ、新しい条件を一つずつ置いた。
機関の試験。
港への相談。
乗り移る方法と、支える人。
外の仕事をするなら、護衛も、前の契約の続きだと勝手には呼べない。
ガロへ頼むかどうかから、日時と対価を聞き直す必要がある。
ミレイは、そこへ勝手な金額を入れなかった。
「船が直る値段と、今回の人を乗せる費用も、分けて。あとで、紙一枚のはずだった、と言わないように」
「言いそうだった?」
「紙一枚だと思った時の、あんたの顔は見たことある」
セナが、口元へ手を寄せた。
笑いを堪えるような動きだった。
カイも、分かったよ、と笑った。
*
笑ったあと、セナは図を自分の方へ戻した。
全ての条件を、二人が代わりに決めてくれるのを待つ姿にはならなかった。
「私が、船上で使う物を減らす。写しは全部持ち出さず、見る範囲だけ。紙を押さえる台と、目印。それで何分座るかも、施療士さんへ見せたい」
「手が足りない時、どれを置けるかもね。大事な図が飛んだからって、足を下ろして追わないように」
「それは……先に、紐で留めます」
彼女の答えが、少しだけ遅れた。
カイは、その一拍へ、図を追うセナの姿が本当に浮かんでしまった。
研究が好きなことと、船に慣れていることは違う。その違いを、本人も笑って認められる席だった。
「俺が留める所を描く。結ぶ紐を、足の前へ垂らさない方で」
「お願い。私も、何を留めるかを、今日、選ぶ」
ミレイが、短く頷いた。
ここで決まったのは、出航の時刻ではない。
本人が行きたいと言い、そのために、自分が揃える物を引き受けたことだった。
面会の終わりには、セナの声が、少し疲れていた。
彼女はそれを隠して次の頁を開かず、紙を閉じた。
「今日は、ここまでにする。続きは、休んでから」
「ああ。俺は工房へ戻る。艇が、紙に負けたままだから」
「競わせない。紙を積んでも、機関は勝手に直らないよ」
セナが今度は、声を出して笑った。
足はまだ、寝台の上にある。
艇も、港へ出ていない。
それでも、運ばれる箱を待つだけだった昨日より、彼女が選んだ次の場所は、はっきりしていた。
部屋を出る前、カイは、写しへ添えた台の位置をもう一度見た。
原図の余白に残る、欠けた紙の境目。
自分の図へ残した、屋根で隠れた空。
分からない所を消さずに持ち寄ると、行く理由も、止まる理由も、同じ机へ置けるのかもしれない。
戸を閉じると、廊下から潮の匂いが来た。
カイは空いた手を一度開き、工房へ持ち帰る控えを、上着の内側へ入れた。
今度運ぶのは、誰かが決めた行先だけではなかった。




