引き返すための、風を読む
【前回までの人物】
・カイ:港の運び屋。救い出した箱をセナに見せ、原図の写しを頼んで港へ戻した。
・アベル:カイの元親方。脚に障害が残り、杖を使って港で暮らしている。
・ミレイ:カイの艇を点検する機関士。港の記録と艇の不調を、同じ原因と決めず調べている。
箱を港へ戻すと、カイの手には、紙の控えだけが残った。
車輪を支えた掌へ、木の縁の感触がまだある。救い出した物を、本人の目に見せられた。そのあと、また自分の物ではない所へ返す。
それでよかった。
そう思って歩いた帰り道で、風が変わった。
桟橋の先で、緩んだ綱が金具を叩く。
二つ、短い音。
次に、低く伸びる音。
カイの足が、先へ出なかった。
四年前にも、こんな音がした。
そう思った途端、今の港の幅が、急に狭くなる。
自分の艇は工房にある。目の前の足場は、濡れてもいない。頭では分かっているのに、右の指が、上着の縁を探して固くなった。
「カイ。そこ、荷が通る」
杖の先が、足元の板を二度鳴らした。
カイは顔を上げた。
低い荷箱の横に、アベルが立っている。元親方の短い髪へ、港の風が当たっていた。片方の脚へ重さを掛けきらず、杖を先に据えている。
「……ああ。悪い」
横へ一歩動くと、背後の荷車が通った。
車輪の音は、いつもの港の音だった。カイは、それを追うように息を吐いた。
「箱は、帰ったか」
「帰った。中の図も、残ってた。今は、写しを頼んでる」
「お前は、どこへ帰る途中だ」
「工房。……の前に、外の観測場所を、陸から見ておきたい」
カイは、控えを上着の内側へ入れた。
セナが最後に言った、別の所から同じ時刻に、という頼みが残っている。今日、観測を全部済ませる約束をしたわけではない。それでも、今の明るさのうちに足場は見られると思っていた。
アベルは、綱の端を荷箱へ載せた。
「俺の戻る方だ。途中まで行く。急ぐなら、一人で先へ行け」
「急がない。俺も、今は」
後ろの三文字だけ、少し遅れた。
アベルは、それを言い直させなかった。
*
陸の通路からでも、外の水面は見えた。
艇を出せば、もっと近くまで行ける。そう考えるのは、カイには、歩く道を考えるのと同じくらい自然だった。
だが、今日の艇は、ミレイが機関を点検している最中だ。
直っていない物を、調べるために動かしてよい艇へ、頭の中で変えてはいけない。
カイは桟橋から陸側へ寄り、段差の低い道を選んだ。
アベルも、そこを歩く。
「ここなら、次の角まで、段はない」
「知ってる。俺の脚より先に、お前の目で見ろ。角の向こう」
カイは顔を戻した。
荷を引く人が、通路を空けるよう合図していた。彼は手を上げ、先に通ってもらう。
親方の脚を気にしているつもりで、自分が止まっている場所を見ていなかった。
アベルが、杖を一つ、前へ置く。
その音を聞きながら、カイも歩いた。
外縁へ続く短い通路に、柵があった。
その先なら、倉庫の屋根を外して空を見られる。道も近い。
しかし、柵の向こうの細い旗が、さっきと違う方へ裏返った。
カイは、その動きを見て止まった。
綱が鳴る。
同じ、短い音が来る。
四年前の船べりを、指が思い出した。
握った縄はあった。連絡の声も、戻るための手順もあった。
それでも、当時の観測では捉えられなかった風が来た。
誰かが、ふざけて一歩を踏み出した事故ではない。
カイが一つの決まりを守れば、全員を元の船へ戻せた話でもない。
何度、頭の中で順を並べ直しても、失った人の顔だけが、最後に残った。
「ここでは、どっちを見る」
アベルの声が、今の板へ戻ってきた。
カイは、口を開いた。
喉が、うまく動かなかった。
「旗。あと、通路の先の綱」
「ああ」
「……音が、似てる」
ようやく、それだけを言えた。
アベルの目が、旗へ動いた。
何の音と似ているかを、長く訊かなかった。
*
港の監視担当が、内側の台から下りてきた。
旗の留めを確かめ、二人の前で足を止める。
「そっちから、外へ出るつもりか」
「観測に使える足場を、陸から見たい。今日は、まだ、場所だけです」
「今の風なら、この先は、見送ってくれ。通路の端へ、横から当たる。内側の倉庫を回れば、同じ所の手前までは見られる」
担当は、目の前の旗を指した。
低い方の布が、先に返る。少し離れた高い旗は、まだ別の向きへ引かれていた。
カイは二つを見比べた。
「上下で、違う」
「ここで、今、そうなってる。だから、あの狭い所へ出す返事はしない。さっきまでの値と、同じ一行には書くなよ」
カイは頷いた。
四年前と同じ風だ、とは言われていない。
今見えている旗と、通路の幅と、迂回する道の話だ。
似た音がすることを、同じ事故の始まりだと決める必要はない。その反対に、違う日だから平気だ、と自分へ言い聞かせて通る必要もなかった。
彼は、息を一つ、長く吐いた。
「内側を回ります。あそこを使うかどうかも、今日は決めない」
「それでいい。ここを離れた時刻は、そっちにも残して。次の担当へ、風の向きは渡す」
担当が台の方へ戻る。
カイは、もう一度、旗を見た。
次に、柵の手前へ置いた自分の足を見た。
足は、動かせた。
「アベル。遠い方で、いいか」
「それを、お前が歩ける速さでな」
カイは、今度は、ちゃんと顔を上げて頷いた。
*
倉庫の裏は、風の音が少し低くなった。
乾いた木の匂いと、積まれた縄の藁に似た匂いがする。二人は荷の脇で、車が通り過ぎるのを待った。
アベルは、低い石の縁へ腰を下ろした。杖を手の届く所へ置く。カイも立ったまま先を急がず、壁から離れた所へ座った。
手を開くと、上着を握った指の跡が、掌へ残っていた。
「四年前にも、今みたいに戻ればよかったと、考える」
自分の声が、倉庫の板へ近く響いた。
アベルは、すぐこちらを向かなかった。
通路の先を見たまま、低く返す。
「あの日の風を、今の旗で見てたわけじゃねえ」
「分かってる。けど、考える」
「ああ」
短い返事のあと、アベルが、足の置き方を変えた。
脚の具合を、自分で確かめている動きだった。
カイは、俺のせいじゃないと言ってくれ、と頼みたいのか、少し考えた。
言ってもらっても、明日、また同じ音に止まるかもしれない。
過去の港へ戻り、そこに今の旗を立て直すことは、出来なかった。
「今の風を、怖い音の方へ、全部寄せたくはない」
アベルが、ようやく彼を見た。
「でも、何も感じない顔で、通るのも無理だった。さっき」
「なら、感じたまま、別の物も見ろ。旗と道と、今日、一緒に帰る奴」
言い終えると、アベルは杖を手前へ寄せた。
名言を渡した人のように、返事を待つ顔ではなかった。
立つ前に、カイへ、道が空いたかと顎で訊く。
彼は通路を見た。
荷車は、もう向こうの角へ入っていた。
「空いた。次の縁までは、段が二つ。俺、先に見てくる」
「見たら、戻ってこい。呼ぶだけだと、段の手前で待つことになる」
分かった、と言って、カイは歩いた。
自分の怖さを、親方の歩く脚へ預けきるつもりにはならなかった。
*
候補の場所へは、回り道で行けた。
陸の広い石敷きから、外の空が見える。だが、低い方には倉庫の屋根が掛かり、港口を一度に見渡せるわけではなかった。
カイは、前に控えた図を開く。
ここなら全部見えるはずだ、と思っていた線を、短くした。
見えない所は、実際に立たなければ分からない。
それは、怖くなったせいで増えた空白ではなかった。
「ここからだと、低い方が屋根に隠れる。別の場所と同じ物を見るには、向こうで、対象を先に決めないと」
「あの娘の紙、もう来てるのか」
「まだ。だから今日は、見える範囲まで。これを持って、次に、本人へ聞く」
アベルは、そうか、と頷いた。
カイは石敷きの端を確かめ、足を置ける幅と、荷が通る方を図へ残す。誰かをここへ連れて来るなら、測る人が立つ所だけ描いても足りない。
控えの端に、監視担当と別れた時刻から、ここへ着くまでを短く書く。途中、石の縁で休んだ分には、別の線を付けた。
同じ道でも、明日、荷を持って歩けば、この時間では戻れない。足場の図へ一つ数字を書いたら、誰にでも同じ時間が渡せると思うのは違った。
「アベル。ここを戻る時、さっきの段、下る方がきついか」
「俺はな。上る時と同じ調子で先へ行くなよ」
カイは段の印へ、下り、と足す。誰かの脚を、自分の歩幅で分かったつもりにしないための字だった。
倉庫の戸が開き、風へ流れ出した木屑が、低く足元を走った。カイは紙を閉じ、戸の前を空ける。外の旗へ目を戻すと、さっきとは違う間隔で、布が細く鳴っていた。
来る道と、戻る道。
杖で歩く人の速さで回った分も、今日、自分が知った道だった。
「遠い方でも、途中で休める。風が変わったら、倉庫の内側へ戻れる」
「そいつは、艇の図にも欲しいな」
「ミレイに言ったら、先に機関を直せって」
「言うだろうな」
アベルが、少しだけ笑った。
カイも笑い、風の向きを、さっきの時刻と分けて記した。
空の三つの点の行は、まだ空けておく。
今夜、無理に値を揃えれば、明日の話を早く出来る気がしていた。でも、何を見たかが違う数字を並べても、セナの原図の続きにはならない。
彼は筆をしまった。
今日は、ここまでを持って帰る。
*
工房へ戻ると、ミレイは機関の蓋を、まだ閉じていなかった。
赤銅色の髪を後ろへ寄せ、手の油を布で拭く。カイが入ると、道具ではなく、先に彼の顔へ目が来た。
「遠い方を回った?」
「ああ。外の短い通路は、風で使わなかった。監視の人にも見てもらった」
「紙、こっち。部品の上へ置かないで」
彼女が、台の端を空けた。
カイは控えを広げ、旗の向きと時刻を示す。
次に、屋根に隠れた所。迂回して戻る道。
ミレイは、途中で、うん、と一度だけ返した。
「それと、俺が、一度止まった。綱の音で、昔の方へ持っていかれた」
彼女の手が、布を畳む所で止まった。
カイは、図へ同じ印を付けず、言葉で分けた。
「風の値は、担当が見た分。俺が怖かったのは、俺の分。混ぜて、同じ異常があったことにはしないでほしい」
「分かった。でも、次の行き方を決める時には、そっちも捨てないよ。声が出なくなるなら、誰へ渡すかを、先に決められる」
彼女は、紙の余白へ、連絡、と小さく書いた。
壊れた部品へ付ける印とは、違う字だった。
カイは、少しだけ肩を下ろした。
止まった自分を、次に乗せないための話ではない。次も帰って来る方へ入れる話になっていた。
「写しが来て、セナが休めたら、対象を聞く。そのあとで、二つの場所から同じ時刻に。今日は、値を取ったことにしない」
「そうして。こっちも、今日閉じたことにして出せる機関じゃないから」
ミレイが、外した蓋を一度見た。
それから、夕飯までに家へ戻る分の片付けを始める。
カイは、使った台を拭いた。紙を見せに戻ってきた人にも、今、自分で出来る手の仕事があった。
*
帰り道でアベルと別れた時、カイは、倉庫を回る所で待っていてくれた礼を言っていた。
親方は、今日は俺もあっちへ用があった、とだけ返した。
その用事まで、自分を支えるために生まれた物へ変える必要はなかった。
杖の音が、いつもの道へ遠ざかっていく。
カイは、少し聞いてから、自分の艇へ目を戻した。
四年前のことを、今日、話した。
話しても、失った人は戻らない。次に似た音がした時、もう止まらないとも言えない。
けれど、止まったあとに、誰の声を聞き、何を見て戻ったかは残った。
空の異常を調べる紙へ、自分の恐怖を証拠として押し込まずに済んだ。
同時に、それを無かったことにせず、次の連絡の所へ置けた。
工房の外で、旗が、また一度鳴った。
カイは指を開き、今の風を見る。
低い布と、高い布。
まだ開いている機関の蓋と、帰る道の残る港。
今日は、艇を出さなかった。
それでも、次に誰かを乗せて帰ってくるための仕事を、一つ進められたと思った。




