封を切るために、渡すもの
【前回までの人物】
・カイ:港の運び屋。港口の作業控えを受け取り、浮標の基準板を直したあとの値を、その前と分けて記した。
・セナ:負傷して療養中の星図研究者。救い出された原資料の箱は、まだ開封や引渡しの調整が続いている。
・ミレイ:カイの艇を点検する機関士。港の記録と艇の不調を、同じ原因と決めず比較している。
ミレイは、港口の作業控えを見て、最初に袖をまくり直した。
「これ、直す前の高さじゃないね」
「ああ。板を締め直したあと。向こうで、取付けも見てきた」
カイが図の端を示すと、彼女は、その横へ自分の鉛筆を置いた。
新しい取付けの位置。増し締めを終えた時刻。もう一方は、この紙だけでは、基準をどう確かめたか分からない。
台には、艇の機関から外した部品が残っていた。
港の記録が増えても、こちらの蓋が、勝手に閉まるわけではなかった。
「片方は、今の位置からなら比べられる。事故の日へ、そのまま線を伸ばすのは、やめとこう」
「空白を持って帰る仕事、増えたな」
「埋まってない穴へ、足を入れずに済んだと思えば?」
彼女は笑い、紙へ重しを載せた。
その時、工房の入口で、車輪の止まる音がした。
港の保管係が、薄い書類入れを抱えて来ている。
箱は、載っていなかった。
「ルーヴェさんへ、午後の照合の返事です。施療所で、短い面会なら出来ると返答がありました。出資側の代理人も来ます」
カイは、自分の上着の内側を押さえた。
前に会った時、相手は、箱だけでなくセナの移動まで急いだ。船を失い、器材を失い、その後を待つ船員がいるとも言っていた。
その理由があることと、箱を全部渡してよいことは、同じではない。
「本人へ、俺も行くと伝わってますか」
「はい。届け人として、回収時の状態を聞きたいと。中身の権利を決める方としてではありません」
「そこなら、話せます」
ミレイがカイへ、写しを一組戻した。
自分は艇の点検を続けるという。夕方までの仕事もある。
「本人が欲しい頁と、こっちの観測の話を、一緒に全部済ませようとしないでよ」
「紙を増やして、また寝る時間を削らせる顔はしない」
「顔より、時間ね」
言い返され、カイは笑った。
だが、書類入れを受け取る手へは、少し力が入った。
*
施療所の窓は、風の入る幅だけ開いていた。
セナは寝台の背へ支えられ、右足を下へ下ろしていなかった。青みのある黒髪が肩から前へ流れ、腕の包帯へ触れそうになる。
彼女はそれを避けるように首を動かし、入口のカイを見た。
「港の紙、手に入った?」
「手に入った分と、まだない分。あとで、分けて置く」
セナの目が、彼の脇の筒へ動く。
だが、先に机へ載ったのは、代理人の出した目録だった。
濃い色の書類鞄。きちんと閉じた留め金。
相手は椅子へ座る前に、セナへ会釈した。
「お時間をいただきます。今日は、移動をお願いする話ではありません。こちらが記録を求める範囲を、先に分けてきました」
前より、紙が少なかった。
航海日誌。積載器材の記録。出資を受けた航海で測った分。
セナが乗船前から持っていた原図については、同じ行へ、所有を決める印が付いていない。
「この原図三枚は、航海のために描き直した物ではありません。古い観測の写しと、私が後から足した測定です」
「船内でも、その紙を使っていたのは、間違いありませんか」
「使いました。でも、使った日に、それより前の部分まで、航海の成果へ変わったわけではありません」
声の最後が、少し細くなった。
カイは間へ入って代わりに答えず、水の器を、彼女が届く所へ寄せた。
代理人の指が、鞄の留め金へ触れた。
「そこは、今日、全部を決めなくてよいと思っています。ただ、航海の最後にどの値を見たかは、船員へも返す必要がある」
セナは紙を見たまま、頷いた。
原図の行へ添えていた指を、日誌の方へ動かす。カイには、さっきまで一緒に握られていた二つが、そこで初めて離れたように見えた。
*
保管係は、二人の目録の間へ、白い紙を置いた。
「箱の外側の札では、薄い原図袋と、綴じた日誌は分かれています。封を開けて照合することに、お二人とも同意できますか。引渡しは、別の返事として残します」
代理人は、はい、と答えた。
セナも頷き、次に、保管係の顔を見た。
「私も、開けた所を見たいです。いまは、港へ行けません」
施療師が、寝台の横へ来た。
人の話が長くなる前に、机の位置を少し寄せる。
「立って見に行くのは、今日はしないでください。この位置で、短い時間なら。疲れたら、途中でも止めます」
「では、こちらへ一時搬送する方法で。港の保管として、私が立ち会い、終わったら戻します。持ち出せる頁は、今日この場では決めません」
カイは箱の大きさを思い浮かべた。
救難艇から下ろした時は、濡れた木が手へ重かった。今、同じように腕で抱えて走る必要はない。
「荷車なら、裏の段差を通せます。俺、あそこは見てきます。箱の下へ入れる板も、港の物を使えるか」
「お願いします。持ち上げる人は、こちらで用意します。レイヴァンさん一人で運ばないでください」
彼は頷いた。
セナが、紙から顔を上げる。
「カイ。急がなくていい。封が違ったかどうか、分かるように来てほしい」
「ああ。今日は、箱が見える速さで運ぶ」
彼女の口元が、わずかに動いた。
笑いかけたのだと分かり、カイは、ようやく肩の力を抜いた。
*
裏口の段差は、板一枚を置けば消える高さではなかった。
セナが横になって待つ間に、カイは車輪を止める場所を先に確かめ、通路の桶を、施療所の人に断って脇へ寄せた。
港からの車は、二人で押して来た。箱の下に乾いた板を敷き、横の紐が角へ食い込まないよう布が当てられている。
保管係が、出す前の封と外板の傷を、カイにも見せた。
彼は、回収時に見えていた角の欠けを指す。
新しく割れた所のようには見えない。だが、濡れていた時に見なかった裏まで、覚えているとは言わなかった。
裏口の手前で車を止め、港員二人が箱を持ち上げた。カイは戸を開け、敷居と机の前を空ける。
箱は、寝台の上ではなく、隣の低い机へ下ろされた。
セナが体をひねらずに見られる向きだった。
紐が緩む音が、部屋の中でやけに大きく聞こえた。
保管係が、封の状態を読んで残す。
代理人とセナが、それぞれ確かめる。
蓋が、ようやく上がった。
箱の片側の布には、塩の白い跡が残っていた。保管係は、それを紙へ擦り付けず、乾いた板の上へよけた。
カイが救い出した時、どれだけ濡れていたかを尋ねられる。窓の足元にあったことと、上から水が入っていたことは話せた。中まで濡れたと見たわけではない、とも添える。
保管係は包みの外側を確かめ、少なくとも今、袋の口から水が出る状態ではないと伝えた。彼は、その返事で初めて、握っていた上着の裾を離した。
運んで帰れたあとも、箱の中で失われた物があるかもしれないと、ずっと気になっていた。
中から、乾いた紙と、まだ少し潮を含む布の匂いがした。
セナの手が、膝の上で止まった。
カイも、息を止めていたのに気づいた。
助け出してから、ずっと開けられなかった箱の中に、紙は、ちゃんと残っていた。
「灰色の袋。紐の下に、小さい折り目があります」
保管係が袋を持ち上げ、正面を向ける。
彼女は、触る前に、見える範囲で答えた。
「それです。三枚、別の薄紙を挟んでいます。日誌は、茶色の表紙の方」
代理人は灰色の袋へ先に手を出さず、表紙の文字を見た。
「日誌の形は、こちらの控えと合っています。まだ、中まで同じとは言いません」
その短い言い直しに、カイは少し驚いた。
相手も、今日ここで、箱を取り返した顔をするつもりではないらしい。
*
原図の一枚目には、三つの点があった。
セナが、病室の紙へ記憶で描いた物より、ずっと細かい線が走っている。
目印にした地上の建物。見る位置。観測した日。
カイは点より先に、その日付を見た。
事故の起きた日の、前だった。
「この時から、測ってたのか」
「うん。ここは、私が乗る前。こっちの小さい字が、その後に足した分」
彼女の指は、紙へ触れなかった。
包帯の腕を机へ伸ばす代わりに、カイへ、紙の上の位置を指してもらう。
「下の印から、二行目。そこ」
「赤い線が入ってる」
「見える角度を、書き直した所。最初の値も、消さずに残した。そこを飛ばすと、前からずっと、同じ速さで下がっていたように見える」
早くなりかけた言葉が、一度止まった。
彼女は胸の前で息を整える。
カイは、すぐ次の頁へ進めなかった。
見つけた物がある時の彼女は、言える分より先へ、声が行こうとする。
「今日は、その三枚が残ってるとこまででいい。続きを、誰に写してもらう?」
「保管の方へ。訂正した前の数字も、入れて。地上の目印の方も、一緒に」
保管係が、必要な範囲を紙へ書く。
代理人は、自分の目録へ別の印を付けた。
「日誌の最後の二頁は、こちらも照合したい。原図の権利を今日決めない条件で、その写しを求めることに、同意はいただけますか」
セナは、日誌の端を見てから答えた。
「はい。私も、最後に書いた時刻を見たいです。両方へ、同じ写しを」
「分かりました。船員への説明に使う時、未確認の値を、確定した原因としては出しません」
約束は、そこで初めて紙へなった。
出資側の損失が消えたわけでも、セナの申告が全部通ったわけでもない。
それでも、彼女の原図を渡さなければ、日誌も誰にも見せない、という一つの塊ではなくなった。
*
施療師が机の横へ立った時、セナは、まだ二枚目へ目を向けていた。
「今日は、ここで終えましょう。続きは、写しが出来てからに」
彼女は、少しだけ唇を結んだ。
自分から、もう一枚、と言いかけたのが分かった。
だが、最後には、はい、と答えた。
カイは紙の位置を動かさず、保管係へ戻す順を任せる。
薄紙、原図袋、綴じた日誌。
入れる所が違っていないことをセナにも見せ、箱は閉じられた。
新しい封の印が、最初の封を記した紙へ並ぶ。
箱は、港の保管室へ戻る。
原図そのものを、カイが上着へ入れて持ち帰ることにはならなかった。
彼の手元へ来たのは、見た物と、求めた写しの範囲が書かれた控えだった。
代理人は椅子を戻し、セナへ頭を下げた。
「待っている者へ、少なくとも、照合を始めたとは伝えられます。引渡しの続きは、写しを見てからにします」
セナも、短く頷く。
相手が部屋を出たあとで、彼女は寝台の背へ体を預けた。
髪の編み目が、布へ小さな跡を付ける。
「あった」
小さな声だった。
さっきまで何度も、三枚、日付、訂正、と言っていた人が、最後に、ただそれだけを口にした。
「ああ。ちゃんと、あった」
カイも、そう答えた。
あの時、船から救い出したのは、箱の形だけではなかった。
その中身を、本人の目へ、今日、ようやく戻せた。
*
港の資料を広げるのは、次の短い面会で、と決めた。
いま、彼女の前へ全部を積み上げるつもりにはならない。
カイは、二つの観測場所の候補が見つかったことと、一方の地上の基準は直したあとだということだけを伝えた。
セナは目を閉じ、少し考えた。
「別の所から、同じ時刻に見てもらいたい。続きは、次に聞いてくれる?」
「分かった。今日は、ここへ置いていく」
「うん。……窓、もう少し、開けてもいい?」
カイは施療師の目を見てから、窓を少し広げた。
港の音が、薄い布の向こうから入ってくる。
車輪と、人の声と、遠い旗の鳴る音。
セナは、寝台から空を見上げるために起き直さず、その音へ顔を向けた。
「外で、まだ、動いてるんだね」
「ああ。箱も、帰りの車を待ってる」
彼女が、わずかに笑った。
カイは控えをしまい、裏の荷車へ向かった。
段差を越す時には、港員へ声を掛け、一緒に車輪を支える。
箱を運ぶ仕事の帰りに、紙一枚分だけ、彼の持つ物が増えていた。
まだ、星がいつ墜ちるかは分からない。
艇も、飛べる状態には戻っていない。
だが、もう、セナの記憶だけを頼りに、空へ線を引くわけではなかった。
訂正の残る三枚の原図が、港にある。
その続きを、別の目で測るための道が、ようやく開いた。




