第6話
「疲れた~……!」
和は自宅に辿り着くなり玄関に身体を投げ出した。その姿からは疲労以上に無事に帰ってこれた安堵が色濃く滲んでいた。
「こら。服が汚れるから休むならせめてソファーにしなさい」
荷物を両手に持った円が妹に注意する。ただし円本人も疲労の色は隠せておらず、兄という立場がなければ何もかも放り投げこの場で横になっていただろう。
二人は迷宮を脱出した後、既に管理事務所で着替えを済ませていた。円は動きやすい紺のシャツとジーパン姿、和は青いワンピース姿。お気に入りの服が皺になっていることに気づいた和は兄の言葉に「はぁ~い」と答えて身体を起こした。
リビングに入ると円が先ほどスーパーに寄って買ってきた食品を冷蔵庫に入れていた。和は久しぶりの自宅にキョロキョロと部屋の中を見渡し、記憶の中の風景と変化ないことを確認してソファーに腰を下ろす。
家の中に二人の他に人がいる気配はなく、また生活の痕跡もない。TVの横の棚の上にはどこか円たちの面影を感じさせる若い夫婦の遺影が飾られていた。五年前に亡くなった双子の両親だ。
今から約五年前、円たちが10歳の時に一匹の竜がこの多摩地域に現れた。
首都近郊への竜の出現。自衛隊がその迎撃にあたったものの結局手も足も出ずに敗北し、竜は奥多摩の山間部に迷宮を作り棲みついた。この時の竜との戦いの余波で周辺地域には甚大な被害が齎され、自衛隊だけでなく民間人にも多くの使者を出した。円と和の両親もこの時に命を落としている。
後になって、どうせ竜には勝てないのだから戦わなければ余計な被害を出さずに済んだのに、と誰かが言った。
けれど竜の迷宮は周囲の環境を侵食し、汚染する性質を持っていた。そんなものが東京の中心に出来てしまえば地価は暴落し、日本経済が破綻することは目に見えていた。どれほど勝ち目が薄くとも戦わないという選択肢は当時の彼らにはなかったのだ。
結局、奥多摩地域に迷宮が出来たことで西東京の地価は若干下落したものの、今のところそれ以上の混乱はなく日本経済は平常運転を続けている。けれど今の状態は近くにいつ爆発するか分からない爆弾が眠っているようなもの。別の地域に移り住もうとする者もゼロではなかった。ただし、今この世界に本当の意味で安全な場所などなく、移り住んだ先に竜が出現しない保証もない。ほとんどの者は危険から目を逸らし現状維持を選んだ。
今円たちがいる八王子の自宅は両親が遺してくれた一軒家だ。自宅は戦いの被害を免れて奇跡的に無事だった。ローンは団信で返済され、両親が入っていた生命保険もあって二人が成人するまでの生活費と学費ぐらいは手元にある。ただ和の治療費などを考えれば決して金銭的に余裕はなく、二人は普段慎ましやかな生活を心がけていた。
円はスーパーで買ってきた半額の弁当と総菜をレンジで温め、テーブルに並べて妹を呼んだ。
「和、飯~」
「は~い」
普段入院生活で久しぶりの自宅にソワソワしていた和は、移動して兄と向かい合うように席についた。
『いただきます』
死に瀕し見失いそうになった日常を取り戻すように、二人は丁寧に手を合わせた。
二人はつい数時間前、初めての迷宮探索でゴブリンたちの罠にハマり窮地に陥っていた。それはまさしく絶体絶命と呼ぶべきものだったが、突然和が人が変わったように暴れ回りゴブリンたちをなぎ倒してくれたお陰で窮地を切り抜けることができた。
その時の和は人の言葉を発することもできず、まるで獣の霊にでも憑かれたような有様。さらにゴブリンたちを倒した後も和が正気を取り戻すまでたっぷり五分以上かかった。
和の変貌について二人はまだ話ができていない。和が正気を取り戻した段階で何が起きたのか直ぐ話ができれば良かったのだが、そこはまだ危険な迷宮の中。悠長に話をしていてまた魔物に襲われるかもしれないし、発見した宝箱の対応もあった。
結局二人はその話題を一旦棚上げし、宝箱の回収と迷宮からの脱出を優先した。ちなみに宝箱には毒針の罠が仕掛けられていたが、事前に罠や開錠の講習を受けていた円が問題なく解除。中には宝石らしき石がいくつか入っていて、管理事務所の受付で鑑定と買取依頼をかけている。結果については後日連絡がくるとのことだったが、所詮は一層のドロップ品なのであまり期待はしていない。
【Tips】シーカーの主な収入源は迷宮内でのドロップ品で、遺跡管理事務所で買取を行っている。この買取収入は源泉徴収有りの申告分離課税のため、シーカーを専業としている者は基本的に確定申告を行う必要がない。これは死亡率が高いシーカーの納税手続きを簡素化し後でトラブルとならないようにするためでもあるし、そもそもシーカーの大半は社会不適合者で申告手続きが期待できないという事情もあった。
『…………』
食事を終えて二人の間に沈黙が流れた。
円は和の変貌について話をしなければと考えていたが、和の認識次第では聞き方を間違えてショックを与えかねないと危惧し、上手い言葉が出てこなかった。一方和は、
「……駄目か〜」
「どうかしたか?」
首を傾げる円に、和は「ううん」と首を横に振って切り出した。
「えっとね、お兄ちゃん。あの時の私のことについて聞きたいんだよね?」
「……ああ」
妹の身に何か問題が起きているのではとの不安から円は言葉少なだった。和はそんな兄の不安を払しょくするように言った。
「まず分かって欲しいんだけど、あの時の私は私じゃなくて、だけど私の身体に悪いことが起きてたわけじゃないの」
「???」
円の表情に困惑の色が濃くなる。和はどう説明したらいいのか、頭を悩ませながら言った。
「えっと、なんて言ったらいいのかな──」
「いや、待ってくれ。今の口ぶりだと、和はあの時自分に何が起きてたかを把握してるってことでいいのか?」
円は和の目を見て尋ねた。和は一呼吸置いて頷く。
「──うん」
つまり迷宮の影響を受けて突然狂化したとかではないらしい。それを理解した上で円は正面から問題に切り込んだ。
「じゃあ教えてくれ。アレは何だ?」
和はほんの少しだけ自信なさげに答えた。
「アレっていうか、あの子は竜の魂……だと、思う」
「竜?」
円の驚きはそれほど大きくはなかった。あの時の和は普段の彼女とはまるで別人だった。獣にでも憑かれているのではと想像したし、それが竜だと言われれば「そうなのか」と思うしかない。彼の関心はそのことが和にとってどう作用しているのか。
「それはその……竜に身体を乗っ取られてたってことか?」
「ううん、そうじゃないよ」
和は断言した。そして意外そうに目を瞬かせる。
「──っていうか、結構突拍子もないこと言ってる自覚はあるんだけど、信じてくれるの?」
「そりゃあ、いきなり竜だなんて言われたら正気を疑ってただろうけど、実際に和のあんな姿を見せられちゃあな。少なくとも演技や思い込みであんな動きは出来ないだろ」
円の言葉に和は「それもそっか」と納得し、話を元に戻した。
「えっと……乗っ取られてたのか、だったよね? あれは私がお願いしたことで、勝手に身体を使われたわけじゃないよ。あの子──私はタマちゃんって呼んでるんだけど、タマちゃんは私の味方。ずっと私の中にいて私を守ってくれてるの」
「ずっと? 守る?」
「うん。私もよく分かってるわけじゃないんだけど──」
和の説明をまとめるとつまりこういうことだった。
和の中には五年前から「タマ」と呼ばれる竜の魂が宿っている。タマは言葉を話すことはできないが和たちの言葉は理解しており、完全ではないが意思疎通を行うことができた。竜の魂だというのもタマ本人がイメージで伝えてきた情報だ。
だがタマは言葉が喋れないだけでなく精神性が幼いため、和も分かっていることはそれほど多くない。タマがどこからやってきたのか、そして何故和の中に宿っているのかに関してはタマ本人も理解できていないようだった。
確かなことはタマが和たちに好意的であり、和の病の進行を遅らせてくれている、ということだけ。
「──待った待った! 病気の進行を遅らせてる? 初耳だぞ?」
和の病気は赤ん坊の頃に発症し、徐々に身体機能が低下し、成人までに衰弱死するというもの。数百万人に一人の割合で発症する難病で、30年ほど前に発見されてから今日に至るまで原因すら特定できていない。
「私も最近分かったんだよ。それまでは夢の中で遊んでくれる子がいるな~、ってぐらいの認識だったし」
「……だとしても、だ。竜とか得体の知れないものが自分の中にいるって分かったなら何で直ぐ俺に言わなかったんだよ? 五年前ってことは例の赤竜が奥多摩に迷宮を作ったタイミングだろ?」
円が危ぶむ気持ちはもっともだったが、それに関しては和にも言い分があった。
「だっていきなり私がタマちゃんのことを伝えても、お兄ちゃん絶対私の頭がおかしくなったって考えて信じてくれなかったでしょ?」
「…………」
それはそう。長い入院生活で心を病んだと判断していただろう。今和の話を信じているのは実際に暴れ回る和──タマの姿を目にしたからこそだ。タマが病気の進行を遅らせているという和の言葉に関しては何か明確な証拠があるわけではない。
「大丈夫だよ。タマちゃんは本当にいい子だから」
和はあっけらかんとした態度で言うが、そういう問題ではない。
迷宮でのあの様子を見る限り、こちらに害意がないというのは円もそうだと思う。いや思いたい。だが害意がないと害がないのは全く別の話だ。そのタマが宿っていること自体が和に何か悪影響を及ぼす可能性は十分にあるし、実際和の身体を乗っ取って暴れ回っていたのはどうかと思う。そう言うと、
「だから心配し過ぎだって。あの時は私がタマちゃんに助けてってお願いしたから代わりに戦ってくれただけだもん」
「いや、でもな──」
「それに今も試したみたんだけど、タマちゃんが表に出てこれるのは迷宮の中だけみたい。後あんまり長いこと表に出てると眠くなっちゃうみたいだから、身体を乗っ取ったりはできないよ」
「…………」
「あれだけ動いても全然身体が痛くなったりとかないし、むしろ身体は迷宮に入る前より断然調子がいい気がする」
「…………」
和に捲し立てられ円は顔を顰めて黙り込んだ。
妹の身体に得体の知れない何かがいるというのは兄として決して喜べることではない。だが今のところそれが妹に不利益を与えている様子はないし、実際あんな出来事があった後だというのに彼女の顔色は目に見えて良くなっていた。
これをどう判断してよいのか、妹の言葉をどこまで信じていいのか分からず、悩んだ末に結局円は問題を先送りにした。
「……とりあえず、明日病院で診てもらってから考えようか」




