12
一人きりの寮の部屋に足を踏み入れても、一向に心は晴れなかった。
デスクの上に置かれた、最近すっかり書かなくなってしまった両親への手紙。棚に乱雑に並ぶ、擦り切れるほど読み込んでぼろぼろになった魔導書の数々。そして、畳んでくれる者もいないまま、椅子の上に雑に放置された服。
暗がりの中、窓の隙間から微かに吹き込んでくる風が、頬を刺すように冷たい。その凍てつくような冷気は、まるで絶望と不安で冷え切った今の僕の内心をそのまま映し出しているかのようだった。僕は耐えかねて、静かに窓を閉めた。
部屋の温度は少しずつ戻っていったが、胸の奥底の冷たさは消えてくれない。
暗闇の中で、積もり重なっていくのは重い焦燥感と恐怖だけだった。
セレスは、無事なのだろうか。
あの爆発は、一体何だったのか。
彼女もまた、これまで被害に遭った生徒たちのように、腕を折られ、ボロボロに傷つけられた姿で惨破されてしまうのだろうか――。
僕にとって、初めてできた友達。
僕という人間を平民としてではなく、ただの「スピネル」として知ろうとしてくれた、かけがえのない存在。
僕は重い身体を引きずるようにして、制服の上着を脱ごうとした。ブレザーのボタンを外す指先すら、億劫でたまらない。
その時、ポケットからコロンと音を立てて、例の澄んだ水色の結晶――あの魔法石が床へ落ちた。
床に転がる石を見つめながら、僕は思考の渦へと沈んでいく。
(この魔法石は、一体何なのだろうか。なぜ、あんな場所に落ちていた?……待てよ。よく見ると、透明な結晶の奥深くに、微細な魔法陣のようなものが刻まれている……? 魔法陣? 物理的な不純物ではない。だが、魔法石の内部に魔法陣が存在するなど、あり得ないはずだ)
思考が加速し、脳内で疑問が激しく交錯する。
(どういうことだ。自然界の魔法石の中に魔法陣が存在し、しかも洞窟でもない学院の廊下に落ちていた。誰かが意図的に持ち込んだとしか思えない。これほどの魔力密度を誇る品を、誰が、何のために? あの爆発は……この石が引き起こしたのか? だが、爆発の起点となったにしては、この石自体には傷一つついていない。複数個存在していたのか? あるいは、意図的に設置された罠? 魔法石に魔法の術式を埋め込み、時限式で爆発させるように加工されていたと仮定するなら、なぜこの一個だけが未発動のまま残っていた?……いや、そもそもおかしい。僕はこれまで何十冊もの魔導書を読み込んできたが、魔法石の中に魔法を『埋め込む』なんて技術は聞いたことがない。現在の魔導技術では、魔法の付与は手で触れられる表面にしか施せず、内部へ浸透させること自体が不可能なはずだ。なら、どうして――?)
答えの出ない問いが頭をぐるぐると駆け巡る。
「……わからない。明日、図書室へ行って調べてみるか」
僕は憑かれたように部屋の明かりを点け、室内に積み上がっていた本の中から、魔法石や魔導鉱物に関する文献を片っ端からかき集めた。
ページを激しくめくり、がむしゃらに文章を目で追う。気になるところにはペンで印をつけ、ノートに細かく書き写して思考を整理した。
何度も、何度も、何度も、何度も読み返した。
しかし、夜が更けても、手掛かりとなりそうな記述は一つとして見つからなかった。
「どういうことなんだ……? 意味が分からない。これは、そもそも魔法石ではないのか……? いや、それはない。この濃密な魔力の質は間違いなく高濃度の地脈で生成される魔法石のそれだ。誰かがどこかから運んできたとしか考えられない……」
頭を抱え、掠れた声が漏れる。
足りない。僕の知識も、力も、何かもかもが決定的に足りないのだ。
セレスが今どこでどんな目にあっているのかも、この不気味な石が何を意味しているのかも、何一つ突き止められない。
ふと気づくと、カーテンの隙間から東の空の白い光が差し込み始めていた。鏡に映った自分の顔を見れば、目の周りには濃い隈が浮かび上がり、ひどく煤けている。眩しい朝の光を浴びて、僕はただ虚しく朝が来たことを理解した。
* * *
重い足取りで学院へ登校すると、今日もまた校庭の隅で生徒が縄で縛られ、血まみれで倒れていたという噂が校内を駆け巡っていた。
(セレス……!? セレスなのか……!?)
心臓が跳ね上がり、僕はなりふり構わず現場へと走った。人だかりを押し分け、倒れている生徒の姿を目に焼き付ける。
そこにいたのは――見覚えのない、他学年の男子生徒だった。全身を酷い傷で覆われ、意識を失って打ち捨てられている。
(セレスじゃ、ない……)
その瞬間、胸の奥からすっと安堵の息が漏れた。
誰かが惨い暴行を受け、深く傷ついているというのに、被害者がセレスではなかったという理由だけで胸を撫で下ろしている自分がいた。
(……僕は、もう駄目だな。なんて汚くて、最低な人間なんだ……)
「一人にしないでね」と泣きそうな顔で言っていた彼女の顔が浮かぶ。自分自身の醜さに吐き気が込み上げ、惨めさで視界が歪んだ。精神は完全に限界を迎えていた。
今僕を一人にしているのは君じゃないか
その日の授業は、まともに頭に入ってこなかった。いつもなら先生の発言を一言一句逃さずびっしりと書き込むノートも、開かれたまま真っ白な余白を晒している。ただぼんやりと虚空を見つめていると、不意に視界が遮られた。
「おい!」
「おい、聞いてんのか平民!!」
ハッと顔を上げると、苛立ちを隠そうともしないヘマタイトが目の前に立っていた。荒い息を吐き、蔑むような目で僕を見下ろしている。
(……なんだ、ヘマタイトか。……これが、セレスだったら良かったのに)
そんな投げやりな考えが脳裏をよぎる。
「……なんですか」
「っ! 俺はお前のせいで、昨日どれだけ恥をかいたと思っているんだ! なのに……なのにその気呑みな態度はなんだ!」
「っ!?」
不意に激しい衝撃が頬を走った。
痛い。殴られたのだと理解する間もなく、彼は取り憑かれたように拳を振るい、蹴りを繰り出してきた。日頃の鬱憤と、格下であるはずの僕に対する蔑視が暴走しているのだろう。僕は防戦一方のまま、冷たい床に転がった。周囲の騒ぎに気づいた教師が飛んでくるまで、その暴行は終わらなかった。
立ち上がることも不自由なまま、僕は職員室へと呼び出された。
「……その傷、一体何があったんだい?」
応接用の椅子に座るサーラン先生もまた、心身ともに疲れ果てている様子だった。連日の事件対応と生徒の失踪により、その目元には深い隈が刻まれている。
「……転んだんです。その時に、あちこち酷くぶつけてしまって」
あからさまな嘘を吐く僕に対し、先生は険しい表情を浮かべた。
「そんなわけがあるか!……っ、チッ」
言っても無駄だと悟ったのだろう。先生はそれ以上追及するのをやめ、重い溜息を吐いた。理不尽ないじめの構図を理解しながらも、今の混乱下では介入しきれない現実への苦渋が窺えた。
「先生、僕は大丈夫ですから。……それと、これを見てください」
僕は制服のポケットから、あの水色の結晶を取り出し、教卓の上に静かに置いた。
「これは……魔法石かい? なんだこの異常な魔力密度は……一体どこでこんなものを拾ってきたんだ?」
「昨日、セレスが拐われたあの現場です」
「っ!……そうか。分かった、これは私が責任を持って預かっておこう。それと……精神的にも辛い時期だろうが、何か抱えきれないことがあったら、いつでも言いなさい」
「……お心配、ありがとうございます」
それだけ告げると、僕は深々と頭を下げて職員室を後にした。
引き止める声を背に受けながら、僕は傷む身体を押し殺し、一刻も早く真相へ辿り着くため、急ぎ足で図書室へと向かった。




