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Stoicmotionage(ストイック・モーション・エイジ)  作者: 乾心


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#06 記録の手触り

 夜になって、リンは自室の端末の前に座っていた。


 制服は脱いでいる。部屋着に着替えて、ペンダントを制服から外して首にかけた。鎖骨の下で揺れている。冷たい。布の上からではなく、肌に直接触れている。夜だけの感触。


 端末を開いた。業務用ではなく、生活用の端末。家族配分の数値を確認した。昼に見られなかった分を、ここで確認する。数値は朝と同じだった。平均より少し低い。動いていない。まだ動いていない。


 画面をスクロールした。自分の行動記録が並んでいた。ケア局への出勤時刻。退勤時刻。窓口の対応件数。移動経路。すべてが数字と時刻で記録されている。昨日も今日も、ほぼ同じ並びだった。同じ時間に出勤し、同じ数の案件を処理し、同じ経路で帰宅している。規則正しい。整っている。問題がない。


 〈行動記録確認結果:適正〉


 この一行が画面の下部に出ていた。適正。問題なし。リンの行動はシステムから見て「適正」と判定されている。


 安心した。


 安心して、それからすぐに、安心したことが少し怖かった。


 「適正」と表示されることに安心している。つまり、「適正でない」と表示される可能性を、どこかで感じているということだ。感じていなければ、安心する理由がない。当たり前のことに安心するのは、当たり前でなくなる可能性を認識しているからだ。


 画面をもう一度見た。行動記録の一覧。時刻と場所と行動が、縦に整然と並んでいる。リンはその一覧を上から下まで目で追った。


 一箇所だけ、空欄があった。


 昼休憩の時間帯。十二時四十五分から十三時五十二分まで。その間の移動記録が、通常より短い。食堂から休憩スペースへの経路は記録されているが、休憩スペースでの滞在記録が入っていなかった。空欄ではなく、「—」の表示。データがないのか、記録対象外なのか、リンには判断できなかった。


 あの男と話していた時間だ。


 自動販売機の陰。灰色のコート。「息が浅い」「この空気のせいだ」「考えろ。口には出すな」。あの会話は記録されているのだろうか。されていないのだろうか。発話記録は「プライバシー保護の観点から直接記録の対象外」と研修で教わった。ただし、「周囲の行動パターンに変化が生じた場合、環境的揺らぎとして間接的に記録される可能性があります」とも。


 リンは「—」の表示を見つめた。この記号が何を意味するのか分からなかった。何も意味しないのかもしれない。システムの処理上の空白。それだけかもしれない。


 画面を閉じた。


 部屋は静かだった。空調の低い音だけが聞こえている。照明は夜間モードになっていて、壁がわずかに暗い。日中の均一な明るさとは違って、夜の照明には少しだけ影がある。ベッドの脇の壁に、小さな傷があった。いつからあるのか分からない。引っ越してきたときからあったのか、住んでいるうちについたのか。小さな傷。爪でひっかいたような、細い線。リンは今まで気づいていなかった。


 ノートを出した。紙のノート。デジタルではない。引き出しの奥にしまってある。ペンを取って、開いた。最後に書いたのは三日前だった。祖母の昔話。水の底で歌を歌う魚の話。途中まで書いて止まっている。続きが思い出せなかったからだ。魚は何を歌っていたのか。祖母は何と言っていたか。声の感触は覚えている。低くて、乾いていて、でも怖くない声。内容は消えている。


 ペンを持ったまま、宙を見た。


 今日あったことを書くべきだろうか。あの男のこと。「息が浅い」と言われたこと。「この空気のせいだ」と言われたこと。しかし、このノートに書くということは、記録するということだ。紙の記録はデジタルに残らないが、物理的には存在し続ける。誰かに見つかる可能性はゼロではない。


 書かなかった。


 ノートを閉じて、引き出しにしまった。ペンダントを握った。金属の温度が掌に移っていく。冷たさが体温で少しずつ消えていく。消えるまでの時間が、いつもと同じかどうか、リンには分からなかった。


 端末の画面が暗くなっていた。スリープモード。画面の中央に時刻だけが表示されている。二十二時十三分。その下に小さく一行。


 〈本日の行動記録確認結果:適正〉


 問題なし。


 問題はなかった。リンの一日は適正だった。記録のうえでは。


 ベッドに入った。照明が呼吸に合わせて暗くなっていく。明日の六時に、また光が来る。パネルが四行を並べる。チャイムが鳴って、足元が光って、甘い空気を吸って、窓口を開ける。いつもと同じ朝。


 目を閉じた。


 「—」の記号が、まぶたの裏にまだ残っていた。

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