#05 境界線の匂い
昼食を終えて廊下を歩いていた。午後の勤務まで二十分ある。
いつもなら休憩スペースに寄って、端末で家族配分の数値を確認する。毎日同じ時間に。昨日と同じかどうかだけ見て、画面を閉じる。変わっていなければ安心する。安心するという言い方は正確ではない。「まだ動いていない」ことを確認しているだけだ。動いていなければ、まだ大丈夫。
窓際の通路を選んだ。外が見える場所。といっても見えるのはドームの内壁だけだ。灰色の曲面が、遠くまで曲がりながら続いている。空は見えない。空という言葉を使うことはあるが、それはドームの天蓋のことで、本当の空を知っているわけではない。祖母は空を知っていたのだろうか。エッジから来た人だ。ドームの外には空があるのかもしれない。灰が降っているとは聞いているが、灰の向こうには何があるのか、リンは考えたことがなかった。考えないようにしていた、のかもしれない。
休憩スペースの手前で足が止まった。自動販売機が並んでいる場所。普段は素通りする。飲み物は食堂で済ませていた。
誰かがいた。
自動販売機の陰。灰色のコート。壁にもたれて天井を見上げている。
昨日の男だった。
リンの胸の奥が跳ねた。息を止めた。男はリンを見ていなかった。天井を見上げたまま、何かを待っているのか、ただそこにいるだけなのか分からなかった。灰色のコートは昨日と同じもので、同じ袖口のほつれがあった。男の手がそのほつれた糸に触れている。つまんでいるのではなく、指先で確かめるように触れているだけだった。
声をかけるべきか。通り過ぎるべきか。昨日は「帰れ」と言われた。関わるなという意味だったのかもしれない。
男の視線が下りてきた。リンを捉えた。
「また会ったな」
低い声。昨日と同じ温度。やわらかくもなく冷たくもない。窓口の声とは違う。同僚の声とも違う。温度が一定で、余計なものがない。
「すみません、通りかかっただけで」
「謝るな」
リンは口を閉じた。
「謝る理由がない」
男は壁から背を離した。リンのほうに向き直った。三メートルほどの距離。顔がはっきり見えた。疲労の影。無精髭。乾いた唇。目は暗いが、鈍くはなかった。何かを見ている目だった。リンを見ているが、リンの奥の何かも同時に見ているような。
「ケア局か」
「はい。連携窓口です」
男は頷いた。何かを確認したような頷きだった。値踏みでもなく、興味でもなく、ただ、ある情報が揃ったという頷き。
「名前は」
「リン・アマクサです」
言ってから、なぜ答えたのか分からなかった。見知らぬ人に名前を教える理由はない。窓口でなら名乗る。業務中だから。しかし今は昼休憩で、ここは廊下で、この男は来訪者ではない。なのに聞かれたから答えた。男の声がそういう種類の声だったからかもしれない。余分な飾りがないぶん、問いの形がはっきりしていた。
男は名乗らなかった。
沈黙が落ちた。廊下の空調音だけが聞こえていた。一定のリズム。穏やかな音。でもリンの耳にはいつもより遠く感じた。何かが欠けているような感覚。いや、欠けているのではない。この男が立っている場所だけ、空気の質が違う気がした。甘い匂いが薄い。気のせいかもしれない。自動販売機の排熱のせいかもしれない。
「息が浅い」
男が言った。
「え」
「お前。息が浅くなってる」
リンは自分の呼吸に意識を向けた。確かに浅かった。胸の上のほうだけで呼吸していた。深く吸えていない。いつからそうなっていたのか分からなかった。男の前に立ってからか。それとも、もっと前からか。
男は一歩近づいた。二メートル半。リンは後ろに下がらなかった。
「昨日、なぜ振り返った」
「分岐点で。右に曲がってから、振り返っただろう」
リンは覚えていた。帰路の分岐点。右に曲がって三歩歩いて、振り返った。暗い通路を見た。この男が壁に指を沿わせて歩いていた。
「分かりません。なぜ振り返ったのか、自分でも」
男は数秒黙った。その数秒間、リンは男の呼吸を聞いた。深くて、ゆっくりで、リンの呼吸とはリズムが違った。
「それでいい」
「え」
「分からないなら、分からないでいい。無理に理由をつけるな」
リンは男の顔を見た。分からないでいい、と言われたのは初めてだった。ケア局では、すべてに理由がある。案件には分類があり、対応にはテンプレートがあり、報告には理由コードがある。「分かりません」は「まだ調べていません」と同義であって、「分からないままでいい」という状態は存在しない。
「あなたは、誰ですか」
男は答えなかった。廊下の先に視線を向けた。人が歩いてくる気配があった。足音が二つ。
「午後の勤務。遅れるぞ」
端末を確認した。十三時五十二分。勤務開始まで八分。休憩スペースで配分の数値を確認する時間はなくなっていた。
顔を上げると、男は歩き出していた。リンとは反対方向。外縁へ向かう通路。昨日と同じ方向だった。壁の継ぎ目に指を触れながら歩いている。天井の配管を一瞥して、迷いなく角を曲がろうとしている。
「待って」
言ってから、何を待ってほしいのか分からなかった。聞きたいことがあったわけではない。言いたいことがあったわけでもない。ただ、このまま終わりたくなかった。
男が立ち止まった。振り返らないまま言った。
「お前の息が浅いのは、この空気のせいだ」
男は廊下の換気口を一瞥した。壁の上方にある細い開口部。そこから甘い匂いが流れている。リンが毎朝吸っている空気が出てくる場所。
「考えろ。ただし、口には出すな」
それだけ言って、男は角を曲がった。灰色のコートの裾が揺れて、消えた。
リンは一人で立っていた。足音が近づいてきた。すれ違う人がいた。「お疲れさまです」と声をかけられた。「お疲れさまです」と返した。甘い匂いが廊下に満ちていた。いつもと同じ匂い。いつもと同じ空気。
ただ、男が換気口を見上げたときの目が、頭に残っていた。あの目は換気口を「見た」のではなく、「知っている」という目だった。
勤務に戻った。窓口を開けた。笑顔を作った。「本日はどのようなご用件でしょうか」と言った。いつもの声。いつもの言葉。
息はまだ浅いままだった。




