#04 疑問の作法
翌朝、誘導音は正常に鳴った。
六時の光。パネルの四行。洗面台の適温の水。制服のボタン。ペンダントの冷たさ。居間の湯呑みの輪染み。母のドアの隙間。すべていつも通りだった。分岐点ではチャイムが鳴り、足元の光が正しい方向を示し、リンは右に曲がって北通路を歩いた。
昨日のことを考えていた。配給窓口の女性のこと。列が整ったこと。誰も何も言っていないのに整ったこと。あの喉の詰まり。それから、あの通路の男。灰色のコート。「帰れ」。
考えていたが、考えていないふりをしていた。甘い空気を吸いながら、足元の光を踏みながら、壁の掲示を流しながら、何も考えていない朝のように歩いた。ケア局に着いた。自動扉が開いた。端末にログインした。
窓口が開いて、最初の来訪者が来た。
三十代の女性。軽度のケアフラグがついている案件だった。端末に表示された来訪理由は「生活改善推奨に関する確認」。リンは推奨対応のテンプレートを開いた。
「おはようございます。本日はどのようなご用件でしょうか」
女性は少し間を置いてから言った。
「生活改善推奨という通知が来たんですけど、適切な範囲って、どこからどこまでですか」
リンは端末を確認した。通知の内容は出ていた。「行動記録確認の結果、生活改善推奨の対象となりました」という定型文。しかし「適切な範囲」の具体的な定義は画面のどこにもなかった。推奨対応のテンプレートを見た。
〈ご不安な場合は、専門窓口をご案内ください〉
「ご不安であれば、専門窓口でより詳しいご説明を受けていただけます。ご案内いたしましょうか」
女性はリンの顔を見た。数秒間。何かを探すような目だった。リンはその視線を受け止めた。受け止めて、微笑んだ。窓口の微笑み。来訪者を安心させるための、適切な角度の口角。
「お願いします」と女性は言った。
リンは専門窓口の連絡先を印刷して渡した。「こちらでより詳しいご説明を受けていただけます。お気軽にお問い合わせください」。テンプレート通りの言葉。女性は紙を受け取って、頭を下げて帰った。
端末に「対応完了」を入力した。対応時間、八分。問題なし。
問題はなかった。テンプレートに沿った対応で、来訪者は納得して帰り、記録には「完了」が入った。それでいい。それが業務だ。
ただ、リンにも答えは分からなかった。「適切な範囲って、どこからどこまでですか」。この問いに対する答えを、リンは持っていなかった。テンプレートには答えの代わりに、案内先が書いてあった。専門窓口に行けば答えがあるのだろうか。それとも、そこでもまた別の窓口を案内されるのだろうか。
二人目が来た。書類の確認だけで三分で終わった。三人目はキャンセル。四人目は経過観察の継続。状態は前回から変わっていない。「問題なし」の記録を入力した。「次回も同じ時期にいらしてください」と言った。
昼前に同僚のシラネが声をかけてきた。隣の窓口の女性。リンより二つ年上で、声が落ち着いていて、対応が正確で、上司からの評価が高い。リンはシラネの対応を手本にしていた。
「さっきの人、生活改善推奨の範囲を聞いてきた?」
「はい」
「あるよね、ああいうの。気にしすぎなんだよね、きっと。専門窓口に回した?」
「はい」
「それでいいと思う。うちで答えられる範囲じゃないし」
シラネは自分の端末に戻っていった。リンも端末に視線を戻した。
答えられる範囲ではない。それはそうだ。リンの窓口は初期分類と連携が業務で、個別の基準を説明する権限はない。専門窓口に回すのが正しい。テンプレートにもそう書いてある。シラネもそう言っている。
「気にしすぎなんだよね、きっと」
シラネの声が頭に残った。リンも頷いた。頷いたが、あとから考えた。あの「気にしすぎ」は、来訪者の女性のことだったのだろうか。それとも、気にすること自体が問題だ、という意味だったのだろうか。気にしている人がいる。その人を、気にしすぎだと片づける。片づけたあとに何が残るのか。
午後の案件が三件残っていた。窓口を開けた。
最初の来訪者が来た。「本日はどのようなご用件でしょうか」。いつもの声。いつもの言葉。来訪者が話し始めた。リンはテンプレートを開いて、対応を始めた。
午後の三件を処理して、十七時になった。窓口が閉まった。集計が出た。対応件数、六件。処理時間、平均十一分。問題のある案件、なし。
リンはログアウトしながら、朝の女性のことをもう一度考えた。答えを持っていなかった自分のこと。テンプレートに答えの代わりに案内先が書いてあったこと。答えがないまま「完了」を押したこと。
記録には残らない。リンが答えを持っていなかったことは、どこにも記録されない。




