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Stoicmotionage(ストイック・モーション・エイジ)  作者: 乾心


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#03 ゴウとの接触

 午後の業務が終わった。


 七件。すべて定型処理だった。ケアフラグの初期分類が三件、経過観察の継続が二件、書類確認が二件。対応時間は平均十二分。問題のある案件はなかった。端末に「業務完了」を入力して、ログアウトした。


 帰路についた。誘導音が鳴っている。北通路を戻って、居住区への連絡区画に入る。この時間帯は人の流れが緩やかになる。昼間は同じ制服の人たちが一定の間隔で行き交っているが、十七時を過ぎると廊下は静かになる。足元の光だけがリンの歩調に合わせて点いては消えていく。壁の掲示が流れた。〈お疲れさまでした〉〈明日もよい一日を〉。


 分岐点が来た。右に曲がれば居住区。朝と同じ矢印が出ている。今度はチャイムも鳴った。やわらかい音。正しい方向。右に曲がればいい。


 右に曲がった。


 三歩歩いて、振り返った。


 なぜ振り返ったのか分からなかった。分からないまま、左の通路を見ていた。外縁方向に続く連絡区画。足元の光が点いていない。推奨経路ではないからだ。照明は最低限で、壁の掲示もなく、薄暗い通路がまっすぐ奥に伸びていた。天井の配管が低い位置にむき出しになっている。居住区の通路とは質感が違った。空調の音も、ここだけ少し低い。


 その通路に人がいた。


 灰色のコート。くすんだ色で、袖口がほつれている。壁に手を触れながら歩いていた。指先を壁の継ぎ目に沿わせるような動作。ゆっくりとした歩幅で、しかし迷いなく。足元の光はない。光のない道を、光が必要ない人間のように歩いていた。


 リンは見ていた。推奨経路の明るい通路に立ったまま、暗い通路を歩く人間を見ていた。


 男がリンのほうに近づいてきた。通り過ぎるつもりらしかった。リンの横に来たとき、男は視線を向けずに言った。


 「邪魔だ」


 低い声だった。感情がないのではなく、余分なものを全部削った声だった。リンは反射的に半歩下がった。男はリンの横を抜けて、暗い通路の奥へ歩いていった。


 擦り切れたコートの裾が揺れた。背は高くもなく低くもない。歩幅は一定。足音はあるが、推奨通路を歩く人たちの靴音とは違う音がした。床の素材が違うのか、靴が違うのか。男の手が壁の継ぎ目から離れて、天井の配管を一瞥した。何かを確認するような動きだった。それから別の方向へ曲がろうとしている。


 「あの」


 リンは声を出していた。出すつもりはなかった。出してから驚いた。


 男は立ち止まらなかった。角を曲がりかけて、肩越しにリンを見た。疲労の影のある顔。無精髭。乾いた唇。リンの窓口に来る人たちとは違う顔だった。窓口に来る人たちは整っている。髪が整い、服が整い、表情が整っている。この男には整えた形跡がなかった。


 「帰れ」


 それだけ言って、男は角を曲がった。


 リンは立っていた。暗い通路の先に、もう男の姿はなかった。足元の光もなく、誘導音もなく、掲示もなかった。ただ通路があるだけだった。配管が天井を走っている。壁に継ぎ目がある。それだけの空間。


 「帰れ」という言葉が、耳ではなく喉のあたりに残っていた。


 窓口で聞く言葉とは違っていた。「お気をつけてお帰りください」「お疲れさまでした」「またいつでもお越しください」。そういう言葉とは何かが違う。何が違うのか、リンには説明できなかった。二文字。ただの二文字。それなのに重さが違った。窓口の言葉はどれも丁寧で、やわらかくて、正しい。しかし正しさの奥に何があるのかは分からない。あの男の「帰れ」には、丁寧さもやわらかさもなかった。何のためでもない言葉だった。整えられていなかった。


 祖母を思い出した。祖母の言葉もそうだった。「食べなさい」「寝なさい」「行きなさい」。理由がない。説明がない。ただそれだけの言葉。短くて、荒くて、でもどこか温かかった。いや、温かいのとも違う。温かさを演出していないだけだ。あの男の「帰れ」も、同じ手触りだった。


 右手がペンダントの位置に触れた。鎖骨のやや下。制服の上から、硬い楕円形の感触を確かめた。まだここにある。


 誘導音が鳴っていた。居住区の方向。足元の光が、リンの立っている場所から先へ伸びている。正しい方向。正しい道。


 リンは振り返って、光のある道を歩き始めた。


 あの男が誰なのかは分からなかった。なぜあの通路にいたのかも分からなかった。足元に光がないのに迷いなく歩く人間を、リンは見たことがなかった。壁の継ぎ目に指を沿わせながら歩く人間も。天井の配管を確認する仕草も。すべてが、この通路の日常にはないものだった。


 居住区の扉が先読みで開いた。甘い匂いが戻ってきた。いつもの空気。いつもの廊下。


 なぜ振り返ったのかは、まだ分からなかった。

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