#02 小さな逸脱
昼の配給窓口は静かに混んでいた。
リンは列の後ろについた。前に五人。誰も話していない。端末を見ている人が一人、正面を向いて待っている人が四人。後ろにもすぐに二人が並んだ。食堂の天井から柔らかい音楽が流れている。リラクゼーション用の周波数。消化を助けるため、と研修で教わった。壁の上を文字が流れている。
〈本日の推奨食:Bセット〉
〈栄養バランス:最適〉
〈待ち時間目安:四分〉
列が進んだ。窓口の担当者が同じ言葉を繰り返していた。「Bセットでよろしいですか」「ありがとうございます。次の方」。同じ声。同じ間隔。同じ笑顔。リンの前が三人になったとき、先頭の女性が口を開いた。
「あの、Aセットはないんですか」
三十代くらいの女性だった。髪を後ろで束ねている。私服だった。声は小さかった。窓口の担当者が端末を確認した。四十代の男性。穏やかな表情のまま。
「申し訳ありません。本日のAセットは、配分調整により提供を見合わせております」
「調整」
女性が繰り返した。
「はい。栄養バランスの最適化のため、本日はBセットを推奨しております」
「でも、昨日はあったんです」
「はい。本日は調整日となっております」
「調整日って、いつ決まったんですか」
空気が変わった。
リンは気づいた。列に並んでいた人たちの視線が動いたことに。誰も女性を見ていない。誰も担当者を見ていない。ただ、視線の先が少しだけずれた。壁の掲示へ。床へ。自分の手元へ。端末を見ていた人が、端末を見ているふりをしたまま指が止まっている。正面を向いていた人が、ほんのわずかに肩を内側に向けた。声は一つも上がらなかった。表情も変わらなかった。ただ、空気の密度が少しだけ上がった。
担当者は笑顔のまま答えた。
「調整は、適宜実施されております。ご不便をおかけして申し訳ありません」
「適宜って」
「必要に応じて、という意味です」
「それは分かります。いつ、誰が決めたのかを聞いているんです」
女性の声がほんの少しだけ大きくなった。担当者の笑顔は崩れなかった。笑顔のまま、同じトーンで、同じ穏やかさで。
「ご質問ありがとうございます。詳細につきましては、案内窓口でご確認いただけます。本日のご利用は、Bセットでよろしいでしょうか」
女性は口を開きかけて、閉じた。
リンは見ていた。女性の肩が下がるのを。首が少しだけ前に傾くのを。手が、カウンターの縁を握ってからゆっくり離れるのを。
「……Bセットで」
「ありがとうございます」
トレイが渡された。女性はそれを受け取って列を離れた。足取りは普通だった。表情も普通だった。何も起きなかったように窓口の前を去っていった。
列が動いた。
後ろで、小さな音がした。足を揃える音。衣服が擦れる音。振り返らなくても分かった。列の間隔が均等になったのだ。誰も合図していない。誰も命じていない。担当者が何か言ったわけでもない。ただ、並んでいた人たちが、自然に、同時に、間を詰めた。
壁の掲示が目に入った。
〈ご質問は案内窓口へ〉
〈スムーズな配給にご協力ください〉
〈あなたの協力が、みんなの快適につながります〉
リンの番が来た。
「Bセットでよろしいですか」
担当者が言った。同じ笑顔。同じ声。
「はい」
トレイを受け取った。席について、箸を手に取った。野菜を口に運んで、噛んで、飲み込んだ。味はいつも通りだった。
食堂の隅に、さっきの女性が一人で座っていた。Bセットのトレイが前にある。箸の動きは遅かったが、食べていた。その隣のテーブルは空いている。もう一つ隣にも誰もいない。女性の周囲だけ、席が空いていた。誰かが避けたのではない。ただ、自然にそうなっていた。
リンは別の席で食べ終えた。箸を置くとき、一瞬だけ箸が止まった。
さっきの女性は何も悪いことをしていない。Aセットがあるかどうか聞いた。いつ決まったのか聞いた。それだけだ。質問しただけだ。担当者は怒らなかった。女性は罰されなかった。何も起きなかった。
何も起きなかったのに、列は整った。何も起きなかったのに、女性の周囲の席は空いていた。
喉の奥に、また詰まりを感じた。今朝の分岐点でチャイムが鳴らなかったときと、同じ感覚だった。
女性がトレイを持って立ち上がった。返却口に向かう背中を、誰も見ていなかった。リンだけが見ていた。女性は返却口にトレイを置き、食堂を出ていった。
〈ご利用ありがとうございました〉
〈本日も快適な一日を〉
リンは残りを食べ終えて、トレイを返した。並んでいた人が二人。リンは三人目になった。前の人がトレイを置いた。次の人がトレイを置いた。リンもトレイを置いた。
廊下に出ると誘導音が鳴った。今度はちゃんと鳴った。ケア局の方向。午後の勤務。
歩き出した。足元の光が点いては消える。正しい道。正しい方向。
喉の詰まりは、昼食を終えても消えなかった。




