#01 整いすぎた朝
誘導音が鳴る前に、リンは目を開けていた。
天井を見ている。照明はまだ暗い。六時の光が来るまでの、この数十秒間だけ、部屋の空気が少しだけ重たい。重たいというのは正確ではないかもしれない。ただ、照明が点く前の空気と点いた後の空気は違う。点いた後の空気は軽くて、甘くて、どこまでも均一で、それが一日中続く。点く前の空気には、ほんのわずかだけ輪郭がある。自分の呼吸の音が聞こえる。吐いた息が顔に当たる。それだけのことだが、違うと感じたことを、リンは誰にも言ったことがない。
夢に祖母が出てきた気がする。台所にいた。何か言っていた。声の輪郭だけが耳に残っていて、中身がない。祖母はいつもそうだった。大事なことほど最後まで言わない。言いかけて笑って、お茶を注ぎ足す。リンが何か聞こうとすると、注ぎ足したお茶の湯気の向こうで目を細めて、こちらが自分で考えるのを待っている。答えを教えてもらった記憶がない。何のお茶だったか、それも——
六時の光が来た。
天井から順に、壁、床と、明るさが広がっていく。夢の残りが光に押されて消えた。壁のパネルが点灯した。
〈本日の酸素濃度:適正〉
〈推奨経路:北通路〉
〈体調確認:良好〉
〈ケア窓口勤務開始:八時〇〇分〉
四行。その下には何もなかった。リンは布団を畳みながら、四行しかなかったことにほんの少しだけ息が楽になるのを感じた。楽になるようなことではない。四行が普通なのだ。五行目が出るのは追加の通知があるときだけで、追加の通知がないということは、昨日と同じ朝が始まるということだった。
洗面台の水は手をかざした瞬間に出てきた。冷たくもなく熱くもない。体温とほとんど同じ温度の水が、手をかざしている間だけ流れ続ける。祖母の家の蛇口は違った気がする。ひねると最初だけ冷たい水が出て、指先が冷えるのを待ってからようやく温かくなる、あの数秒間。あれは本当の記憶だろうか。それとも、夢の続きを混ぜてしまっているのか。鏡の中の前髪が跳ねていたので櫛を通した。通し終わる頃には、もう祖母の声は頭のどこにもなかった。
制服に腕を通してボタンを留めていくと、鎖骨のあたりで冷たいものに触れた。ロケットペンダント。小さな楕円形の、銀色の。朝は開かない。開くのは夜、部屋に一人でいるときだけだ。冷たさを肌で確かめて、その上からボタンを重ねた。布の下に隠れると、外からは見えなくなる。
居間に父の湯呑みが残っていた。底に合成茶の薄い輪染み。毎朝これを洗わずに出ていく。配分局は七時始業だから、もう家を出ている。母の寝室のドアが少しだけ開いていて、中から音はしない。起きているのかもしれないし、まだ眠っているのかもしれない。湯呑みの輪染みも、ドアの隙間も、毎朝同じ形でそこにある。リンはそれを横目に見ながら、靴を履いた。
玄関の扉がリンの一歩手前で開いた。音もなく。自分が近づく前に扉のほうが動いている。この精度にはいつも少しだけ驚く。自分の体よりも扉のほうが、自分の次の動きを正確に知っている。
廊下に出ると甘い匂いがした。換気に混ぜてあるもの。研修の初日に説明を受けた。ストレス軽減と安定のために必要な成分。不快ではない。むしろ好きだと思ったこともある。ただ、この匂いを初めて嗅いだときの記憶がない。物心ついた頃にはもうあった。外の空気を知らないリンにとって、空気とはこの甘さのことだった。
足元が歩調に合わせて淡く光る。次の一歩の着地点を、少しだけ先に照らしてくれる。壁の掲示が等間隔で流れていった。
〈深呼吸の推奨:一日三回〉
〈困ったときは窓口へ〉
〈あなたの健康は、みんなの健康〉
読み慣れた言葉だった。毎日同じ場所に同じ文面がある。半年前にフォントが変わったが、内容は変わっていない。
分岐点に差しかかった。
チャイムが鳴らなかった。
いつもここで鳴る。やわらかい短い音。右へ行きなさい、という合図。壁のパネルには矢印が出ていて、「北通路」の表示もある。情報は揃っている。音だけがない。それ以外のすべてが完璧に揃っているから、ない一つが大きかった。食器が一つだけずれているような感覚。全体は正しい。一つだけ正しくない。
足が止まった。止めたのではなく、止まった。
喉の奥が締まった。
息を吸った。甘い空気が肺に入ってきた。落ち着くための匂いだ。おかしいとは思わなかった。思わないことにした。この二つがどれだけ離れているのか、リンには分からなかった。矢印がある。右に曲がればいい。
右に曲がった。北通路に入ると前方から同じ制服の人が来た。襟元の線が二本。配分局だ。「おはようございます」と言った。声が少し高かった気がする。相手は軽く頷いて過ぎた。それだけだった。
ケア局の白い壁が見えてきた。ガラスの自動扉が開いて、中の空気が一瞬だけ外に漏れた。廊下より少しだけ温度が高い。受付の表示が切り替わった。
〈本日の担当:リン・アマクサ〉
〈勤務時間:八時〇〇分〜十七時〇〇分〉
〈本日の予定件数:七件〉
端末の前に座ってログインした。昨日の案件がすべて処理済みで並んでいる。すべて「完了」。すべて「問題なし」。新規は三件。ケアフラグの初期分類が二件と経過観察が一件。深刻なものはなかった。
画面の右下に家族配分の数値が小さく出ていた。連携窓口の端末には、業務画面と並んで担当者自身の家族情報が常時表示されている。昨日と同じ数値。平均より少し低い。母のことがあった頃からずっとこの位置にある。低い理由は開示されていない。朝の湯呑みの輪染みと同じだ。そこにあることは知っている。触れない。
窓口が開くまであと十二分。端末の脇に置かれた書類を手に取った。今日の確認事項と声かけ例文。あらかじめ用意されたもので、リンはこれを読み上げるのが業務の大半だ。
八時のチャイムが鳴った。こちらは鳴った。やわらかい音が正しい場所から届いて、窓口が開いた。リンは立ち上がって、息を吸って、吐いて、口角を上げた。
「おはようございます。本日はどのようなご用件でしょうか」
来訪者はまだいない。空の窓口に向かって声を出した。練習だった。声はいつも通りだった。笑顔もいつも通りだった。そうやって窓口を開けてきた。毎日、同じように。
喉の奥の詰まりは残っていた。分岐点で足が止まったときからずっと、そこにある。仕事を始めれば消える。いつもそうだ。いつもそうなのだが、「いつも」チャイムが鳴らないことがあったかどうか、リンには思い出せなかった。




