第4話『世界はまだ続いている』【2】
書店を出て数分。駅前のチェーンのカフェに入る。
昼下がりの店内には穏やかなジャズが流れ、コーヒーの香りが漂っていた。
美夏はカウンターでアイスコーヒーを注文すると、窓際の席に座った。そしてスマートフォンを取り出し、大手書籍販売サイトの検索欄に打ち込む。
『君が消えた世界はまだ続いている 電子書籍』
すぐに販売ページが表示された。これなら紙の本は残らない。部屋を探られても見つからない。購入ボタンを押すと、すぐにダウンロードが始まる。進捗を示す小さなバーが、ゆっくりと伸びていく。美夏は画面を見つめながら、小さく息を吐いた。
このNo.404という人も、業界の闇に葬られた被害者なのかも知れない。
この人を助けなければ。その思いが義憤なのか、打算なのか、自分でも分からない。
電子書籍のダウンロードの完了を告げる通知音が、静かな店内に小さく響く。美夏は画面を開き、最初のページに指を伸ばす。冒頭の一文を読んだ瞬間、美夏の呼吸が止まった。
「君がいなくなっても、世界は何事もなかったように朝を迎えた」
その一文だけで、胸が締めつけられた。
自分と同じだ。そう思った。
物語の主人公は、大切な人を失う。けれど世界は止まらない。時計は進み、電車は走り、人々は笑い、泣き、昨日と同じように生きていく。ただ、一人だけがいなくなった。ただそれだけ。
美夏は無意識に唇を噛んだ。
自分の死後に流れたであろうニュース映像が脳裏をよぎる。
自分の名前。笑顔の宣材写真。画面下には「アイドル殺害事件」の文字。キャスターは沈痛な表情を作り、コメンテーターは「未来ある若者が……」と語る。けれど翌週には、その時間帯は別のニュースで埋まっている。誰も悪くない。ニュースとはそういうものだ。だからこそ、この小説の一文は、あまりにも痛かった。
美夏はふと思う。この人も、同じ景色を見たのだろうか。誰かを失い、それでも続いていく世界を。それとも、作者自身が自分の未来を無意識に書いてしまったのだろうか。
美夏はページを読み進める。文章は驚くほど静かだった。派手な展開はない。涙を誘う台詞もない。それでも、一文一文が胸の奥へ染み込んでくる。美夏はアイスコーヒーに一度も口をつけていなかった。
店内では学生たちが楽しそうに笑っている。会社員がノートパソコンを開き、商談の資料を作っている。窓の外では親子連れが手をつないで歩いていた。誰も知らない。この平和な国のどこかで、一人の作家が、人生を奪われようとしていることを。そして、その数年後には自分もまた、同じように消される運命だったことを。
気づけば窓の外は、茜色に染まり始めていた。
一冊を読み終えた美夏は、薄まったコーヒーを飲み干し、席を立つ。長居した店内を出ると、夕方の駅前は仕事帰りの人々で賑わっていた。信号待ちをする会社員。買い物袋を提げた主婦。制服姿の高校生。誰もがそれぞれの日常を歩いている。
そのとき、駅前広場に設置された巨大な街頭ビジョンから、ニュース番組のジングルが流れた。
『続いてはエンタメニュースです』
何気なく顔を上げると、画面いっぱいに一人の男が映し出されていた。黒いジャケットに身を包み、満面の笑みを浮かべる映画監督──寿志清純。美夏の足が止まる。
『映画監督・寿志清純さんが本日、緊急記者会見を開きました。会見では、現在話題となっている小説『君が消えた世界はまだ続いている』の映画化を正式発表しました』
「……え?」
思わず声が漏れる。画面が切り替わり、記者会見の映像が映る。フラッシュが焚かれる中、寿志はマイクを握り、五十代半ばとは思えないような無邪気な笑顔で語っていた。
『初めて読んだ瞬間、この作品を映像にしなければならないと強く感じました。作者のNo.404先生にも快くご承諾いただき、最高のスタッフと共に映画化へ向けて動き始めています』
画面下には大きくテロップが躍る。『話題作、異例のスピード映画化決定』──通行人の何人かが足を止め、「すごいな」「もう映画化?」と感心したように見上げている。だが、美夏だけは顔から血の気が引いていた。
──違う。こんな未来は知らない。
回帰前の世界では、この作品は映画化されるどころか、盗作騒動によって世間から葬られた。作者のNo.404は寿志に訴えられ、すべてを失った。それが、自分の知る未来だった。なのに、今、寿志は笑っている。まるで原作者を称賛する理解者のように。あるいは、新たなおもちゃを手に入れた無邪気な子供のように。
「どうして……」
夕暮れの雑踏が遠のいていく。
アザゼルの言葉が脳裏によみがえった。
──未来の記憶は武器になるが、その未来は変化する。
美夏はようやくその意味を理解した。
未来はもう、自分の知る未来ではない。
いったい何が原因なのか見当もつかないが、歴史は確かに書き換わり始めていた。




