第3話『誰も私を見ていない』【1】
ステージを包む照明が、何本もの白い光となって客席を薙いでいく。
天井近くではムービングライトがゆっくりと回転し、巨大なLEDスクリーンにはライブのロゴが映し出されていた。スピーカーから流れる重低音が床を震わせ、その振動が靴底から身体へ伝わってくる。客席を埋め尽くす何千本ものペンライトは、色とりどりの光の海となって揺れていた。しかし、その光はWhite Noiseに向けられたものではない。
観客たちは、このあと登場する人気グループを待っている。推しの名前が書かれたタオルを肩に掛ける者。うちわを胸に抱える者。まだ始まったばかりだというのに、隣の席と談笑する者。ステージには視線を向けながらも、その瞳は「早く本番にならないかな」と語っていた。
White Noiseは今日の主役ではない。ライブを円滑に進めるための、ほんの十数分のゲスト出演。新人グループの紹介という名目で設けられた、時間潰しに過ぎなかった。
それでもステージ袖ではスタッフが慌ただしく走り回っている。カメラマンは秒単位で立ち位置を変え、音響スタッフはフェーダーに指を添えている。芸能界にとっては、これもまた一つの「仕事」だった。だが、星凪美夏にとっては、当たり前の仕事ではなかった。二年前の美夏は、この数十分こそが人生を変えるチャンスだと信じていた。
無数のスポットライトが降り注ぎ、熱気が肌を刺す。耳を震わせる重低音。開演を告げるSE。舞台袖から押し出されるように、美夏はステージに飛び出した。
(……え)
反射的に身体が動く。右へ二歩。ターン。何も考えていないのに、積み重ねたレッスンが勝手に身体を動かしていた。
視界の端で、朝霧舞白がセンターポジションに立つ。
純白の衣装。まぶしいほど作り込まれた笑顔。
──そうだ。
美夏は思い出す。これはデビューライブだ。White Noiseのお披露目ステージ。正確には単独ライブではない。人気アイドルグループのライブに客演として出演する、新人紹介の数十分。客席のほとんどは、お目当てのグループを見に来ている。White Noiseなど、前座にも等しい存在だった。
音楽が始まる。舞白の第一声が会場に響く。客席から拍手が起きる。だが、その拍手は歓迎ではない。ただ、ライブが始まったから。それだけのものでしかない。
美夏は客席を見た。ペンライトはほとんど点いていない。スマートフォンを見ている人。隣と話している人。飲み物を買いに席を立つ人。誰も、自分たちを見ていない。その光景を見た瞬間、胸の奥で何かが疼いた。
──知ってる。
二年前の自分は、この景色に耐えられなかった。お願い、こっちを見て──そう願いながら歌っていた。
もっと大きく踊れば。もっと笑えば。もっと目立てば。一人でも観客の視線を奪える。そんな焦りだけで身体を動かしていた。
フォーメーションを崩しかけたこともある。カメラを奪うように前へ出たこともある。舞白に嫌味を言われても、「私は負けない」と自分に言い聞かせていた。
──でも、違う。
美夏は静かに息を吐く。
あれほど欲しかった観客の視線が、今はひどく遠く感じた。
たとえ今日、一人でも、自分を見てくれる人がいたとして。その人は、二年後のあの日、自分を助けてくれただろうか。このステージから一年の間、美夏の名前はテレビで流れ、写真はニュースサイトに並び、SNSや動画投稿サイトで話題になった。しかし何も変わらなかった。テレビ局の控え室で大物タレントの寿志清純から性的暴行を受けそうになったとき、その場に居合わせたスタッフは誰一人として美夏を助けようとはしなかった。自力で身を守っても、大物を敵に回せば芸能界を干されて終わる。美夏の存在は忘れ去られ、廃遊園地に監禁されても、誰も助けに来なかった。
──有名になることと、幸せになることは違う。
そんな当たり前のことを、美夏はようやく知った。
曲がサビに入る。舞白がセンターで手を伸ばす。照明が一斉に彼女に集まる。
美夏は決められた位置で、決められた振り付けを丁寧になぞった。無理に前に出ない。センターを食わない。目立とうとしない。ただ、一つひとつの動きを、誰よりも美しく。ただそれだけを意識した。
◇
客席の中ほどで、暁文蓮は腕を組んだままステージを眺めていた。
スーツ姿のまま会場に来たのは、勤務先の上司から「今どきのアイドルを見てこい」と半ば命令されたから。仕事だから来ただけだ。アイドルにも、ライブにも、歓声を上げる観客にも、彼は興味を持てなかった。ペンライトの波をぼんやりと眺めながら、早く終わらないものだろうか、そんなことを考えていた。
舞台の上では、新人グループが懸命に歌っている。センターの少女は眩しいほどの笑顔を浮かべ、左右のメンバーもそれに負けない笑顔を振りまいていた。
(……まあ、何がネタに化けるか分からないものだからな。折角だから見ておくか)
そう自分を納得させてステージを観察していた暁文の視線がふと止まる。彼の意識が、後列にいる一人の少女に吸い寄せられる。
皆が笑っている中で、彼女だけが笑っていない。不機嫌そうなわけではない。手を抜いているわけでもない。振り付けは誰よりも丁寧で、歌声も乱れない。ただ、その表情だけが違った。どこか憂いを帯びた顔。何かを見失い、同時に何かを見据えているような瞳。そして、観客へ媚びることなく真正面を射抜く、挑発的ですらある眼差し。
彼女は作られた笑顔を浮かべているわけではない。
だからといって悲しんでいるわけでもない。
あれは、自分のすべてを歌に注ぎ込む人間の顔だ──暁文はそう思った。
周囲から歓声が上がる。隣の観客は「センターかわいい!」と声を弾ませている。暁文は、その熱狂をどこか他人事のように聞いている。昔から、「笑顔は素晴らしい」という言葉に共感できなかった。笑顔とは、本当に嬉しいときに零れるものではないのか。しかし現実は違う。職場では上司に気を遣って笑う。取引先には愛想笑いを浮かべる。面白くもない冗談にも笑わなければならない。場の空気を壊さないために、人は笑う。ちっぽけなテリトリーを守る獣のように、牙を剥く。彼自身も、その一人だった。
だから、アイドルの完璧な笑顔を見ても、心は動かない。
だが、笑わない彼女だけは違った。彼女は愛されるためではなく、世界を敵に回す覚悟でステージに立っている。そんな錯覚を覚えた。
それは一人の創作者が一人の表現者に心を奪われた瞬間だった。




