第1話『人生最期の契約』【3】
時間の感覚が失われていた。どれほど経ったのか分からない。窓のない薄暗い部屋に美夏は監禁されていた。湿ったコンクリートと血や汚物の臭いがする。男たちの笑い声が聞こえる。美夏は床に横たわったまま、ぼんやりと天井を見上げようとした。だが、視界が霞んでいる。輪郭が溶けていく。光も影も区別できない。まぶたを何度も動かすが、何も変わらなかった。
視力が失われつつある中で、耳だけが妙に冴えていた。どこかで扉の閉まる音がした。誰かの足音、笑い声、何かを引きずる音がした。そのたびに体が勝手に震えた。ここでは人の気配は、暴力の気配でしかなかった。
(……私は、ここで終わる)
美夏は他人事のように思った。
テレビもファンも警察も、誰も助けには来ない。いや、仮に助けが来ても、これまでのようには生きられない。ステージに立っても笑えない。誰のことも信用できない。有名人になることに価値を見いだせない。今まで信じていたものを全て失った。自分はこのまま消えていく。それが一番マシなのだろう。そう思った瞬間、どこからともなく声が聞こえた。
「私と契約すれば、復讐の機会を与えよう」
低く、穏やかな声だった。その言葉だけで、世界の音がすべて遠ざかる。
いつからそこにいたのだろう。黒い外套をまとった青年が、美夏の傍らに立っていた。夜よりも深い黒髪。宝石のように静かな赤い瞳。人間とは思えないほど整った顔立ち。風など吹いていないのに、長い髪と外套が舞うように揺れている。霞んだ視界の中で、彼の姿だけはどこまでも明瞭だった。目ではなく脳で直接見ているような感覚がある。
この世の者ではないのだと美夏は確信する。
青年は静かに膝をつき、美夏に右手を差し伸べた。
「私と契約すれば、君を二年前に戻そう」
美夏は震える唇で尋ねる。
「……あなたは」
「私は高次元生命体、名はアザゼル。もっとも、この名は君たちの次元に合わせて用意したものに過ぎない。本来の私に名前はない。私の生きる次元では、過去、現在、未来を区別する必要がないのでね」
美夏は掠れた息を漏らした。アザゼルの話は理解できない。これはきっと夢か幻覚なのだろう。復讐の機会、二年前に戻る、そんな言葉にも惹かれるものはない。今はただ、一刻も早くこの苦痛から解放してほしかった。こんな記憶を抱えたまま、二年前から人生をやり直すのも嫌だった。
それでも美夏はアザゼルの手を取りたいと思った。
彼に手を伸ばそうとして、既に手足を失っていることを思い出した。
「……契約、します」
美夏は瞼を閉じ、小声で呟いた。
その一言を口にした瞬間、横から乱暴な衝撃が走った。
「てめぇ。何をぶつぶつ言ってんだ!」
誰かの怒鳴り声が聞こえた。
蹴られた勢いで、美夏の体が床を転がる。再び強烈な衝撃が走り、彼女の意識はそこで途絶えた。




