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憎しみが積もりはじめた

それから、幾月かが流れた。


劉邦はほとんど毎日と言ってよいほどしげく戚喜のもとを訪れた。夜ごと離れ屋を訪うのはもちろん、朝になるとしつこく戚喜を放そうとしなかった。眠りから覚めた戚喜が身支度を終えて問安に出ようとすると劉邦がまた寝台へ引き込むのが常だった。そのせいで王后への問安に遅れることがたびたびあった。


戚喜はそれが恐ろしかった。それが戚喜の不忠と映ること、それゆえに呂后の不興を買うことが。


だから戚喜はいっそう身を低くした。問安に遅れた日には誰より深く拝礼し、王后の住まいに誰より遅くまで残ってこまごまとした用を一手に引き受けた。茶を注ぎ、竹簡を整え、呂后が何一つ手ずからすることのないよう傍らで気を配った。一日じゅう王后の住まいに留まって彼女を手厚くお世話した。遅れた分をそれ以上の真心で埋め合わせようとした。


朝はいつも似たように過ぎていった。


たいていは戚喜が先に目を覚ました。劉邦は朝寝坊だった。戚喜は前の晩にあらかじめ汲んでおいた水で顔を洗った。すっかり冷たくなった水が睡魔を一息に追い払った。侍女を呼べばその声で劉邦が目を覚ましかねないので独りで髪を梳き、化粧をした。鏡の前で眉を描くあいだ背後で劉邦が寝返りを打つ音が聞こえると戚喜の手は速くなった。劉邦が目を開ける前に身支度を終えて抜け出そうというのである。


だが、たいていは間に合わなかった。劉邦は目を開けると戚喜をまた寝台へ引き込んだ。拒みようがなかった。情を交わし終え、劉邦が満ち足りた顔で離れ屋を出ると戚喜は彼を見送り、また顔を洗って化粧を直した。そうして、慌ただしく離れ屋を出た。問安の挨拶にわずかなりとも遅れずにすむように。


呂后は側室たちが皆そろうまで席を解かなかった。それが問題だった。戚喜が遅れればほかの夫人たちが皆その場で戚喜を待たねばならない。呂后は(ひろ)やかに待ってくれたが、ほかの夫人たちの胸の内がそうであるはずもなかった。


戚喜への憎しみが積もりはじめた。


とりわけ梁夫人があからさまだった。戚喜が遅れて入ってくるたびに梁夫人は大きな声で叱責した。戚喜はただ頭を下げるばかりだった。言い訳はしなかった。大王のお側仕えをしていて遅れたという言葉だけは決して口にしなかった。そのひと言が寵をひけらかすものと映るのは明らかだったからだ。


だが、その従順な態度がかえって怒りを煽るようだった。言い訳もせず、ただ頭を下げるばかりの戚喜の姿は夫人たちの目には腹のうちの知れぬ傲慢と映ったのかもしれない。梁夫人、苗夫人、宋夫人。三人はいつしか申し合わせて戚喜をいじめはじめた。


梁夫人、梁麗(りょうれい)は函谷関一帯の豪族の娘だった。男児を死産したことがあるという。戚喜が入る前までは最も寵を受ける側室だったというが、戚喜が入って以来劉邦の足がぱたりと絶えるとその憎しみがそっくり戚喜へと向かった。


苗夫人、苗昭昭(びょうしょうしょう)は平民の出で、王府の歌舞の用を一手に引き受けてきた側室だった。戚喜が歌舞に長けているという噂を聞きつけ、自分の座を奪われるのではと警戒しているようだった。


宋夫人、宋美児(そうびじ)は驚いたことに戚喜と同郷の者だった。定陶の人である。その話を初めて聞いたとき戚喜は故郷の話を交わして親しくなれるのではと内心期待していた。だが、宋夫人は三年前に側室として入って以来いまだ子を授からぬ身であり、戚喜が漢王の夜をほとんど独り占めにすると誰より深く憤った。


三人のいじめはある日から始まった。


最初は梁夫人だった。


ある日梁夫人が戚喜を自分の(つぼね)へ呼んだ。戚喜は手ぶらでは行けず、贈り物を心を込めて用意していった。だが、梁夫人の局の前でいくら待っても中へ通してもらえなかった。侍女を通じて人が来たことを知らせても返ってくる言葉はいつも同じだった。


「しばしお待ちをとのことにございます」


一時(いっとき)が過ぎ、また一時が過ぎた。日が中庭を横切って傾いた。戚喜は局の前に立ったまま待った。ついに侍女が一人出てきてつっけんどんに言った。


「梁夫人さまが今日はこれでお引き取りをと仰せにございます」


禾児が後ろでいきり立った。


「そんな、こんな法がどこにありますか! 人を呼びつけておいて何刻も立たせたあげく顔も見せずにお帰りなさいだなんて!」


「禾児」


戚喜が低く禾児を制した。禾児が口をつぐんだ。戚喜は綵瑩に手で合図した。綵瑩が持ってきた贈り物を梁夫人の侍女に差し出した。


「わかりました。贈り物を持ってまいりましたので夫人にお渡しください」


戚喜はそれだけを言い残して踵を返した。離れ屋へ戻る道すがらも表情ひとつ崩さなかった。


翌日は苗夫人だった。


苗夫人が戚喜を招いた。戚夫人は歌舞に長けていると聞いたゆえ一曲聞かせてもらえぬかという誘いだった。断る口実はなかった。戚喜は(きん)を携えて苗夫人の局へ行った。行ってみると三人の夫人がみなそろっていた。梁夫人、宋夫人が苗夫人の傍らに居並んで戚喜を待っていた。


戚喜が席に着き、琴を弾いて歌い出した。調べが澄んで流れた。だが、三人の夫人は歌に耳を傾けなかった。自分たちだけで笑いさざめき、まるで戚喜がその場にいないかのように振る舞った。ある者は身なりを撫でつけ、ある者は茶菓子をつまんだ。戚喜の歌は彼女たちの無駄話のあいだに埋もれた。


歌が終わった。戚喜が琴から手を離し、じっと待った。しばらく経ってようやく苗夫人が横柄に口を開いた。


「たかがこの程度で歌舞に長けているなどと言われていたの? 噂などというものは当てにならぬものね」


宋夫人が傍らで相づちを打った。


「苗夫人の腕前には遠く及びませんわね。定陶の美人という名がもったいないこと」


梁夫人が鼻を鳴らして言い添えた。


「器量とてわたくしの妹分に比べればなんということもないわ。ちっ。もうよい。お引き取りなさい」


戚喜は席を立ち、挨拶をして退いた。口元には薄い笑みを浮かべたまま。局を出ていく戚喜の後ろ姿に向けて三人の夫人の笑い声がもう一度はじけた。


その次は宋夫人だった。


今度は宋夫人がじきじきに戚喜の離れ屋へやってきた。同郷の者だというのに訪ねてきた顔には親しげな色など一つもなかった。宋夫人は笑いながら竹簡を一山置いた。


「戚夫人。一つ頼みがあって参ったの。詩経(しきょう)を一部書き写してほしいのだけれど。竹簡はわたくしがもう十分に用意してきたから。さて……半月もあれば足りるかしら?」


戚喜の顔がこわばった。


書き写しは長くかかる仕事だった。詩経を一部書き写そうとすれば一日じゅうその仕事だけにかかりきりになってもひと月はゆうにかかる。まして戚喜は劉邦のお仕えし、毎日問安に上がり、三人の夫人のこまごまとした使いをこなして目の回るような身の上である。半月のうちに終えられるはずもなかった。


戚喜が困った色を見せると宋夫人の顔が恐ろしげに歪んだ。


「どうしたの、できないというの? 大王の寵を少しばかり受けているからといってこのわたくしを見くびっているのかしら?」


「そのようなことでは……」


戚喜が口ごもりながら言葉を選んだ。


「妾の学識が浅く、夫人のお望みに添えぬのではと案じてのことにございます」


宋夫人が鼻で笑った。


「はっ、もっともらしいこと。戚家の娘が字を知らぬはずもない。さしずめわたくしが軽んじられているのでしょうよ」


宋夫人は口の端をねじり上げて言葉を継いだ。


「大王の寵がどれほど続くと思っているの? 戚夫人、同じ夫人とはいえあなたとわたくしが同じ立場に見えて? わたくしは三年も先に大王にお仕えしてきたのよ。どうしてもと言うなら……是非もない。戚夫人が驕って王府の秩序を乱していると王后さまに申し上げるまでのこと」

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