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まだ時ではないの

「……夫人、どうかお鎮まりを。妾が軽はずみでございました。半月のうちに書き写してお持ちいたします」


宋夫人がまた笑った。


「初めからそうすればよいのよ! では、半月のちに会いましょう」


宋夫人が帰ると禾児が不満をぶちまけた。


「どうしてお引き受けになったんですか? お嬢様がどれほどお忙しいか半月で終わるはずがありません!」


「お嬢様ではなく、夫人とお呼び」


戚喜が竹簡を整えながら禾児の呼び方を直してやった。


「眠りを削ればできるはず。どうにかやり遂げればいいのよ」


その言葉に禾児が口をとがらせた。綵瑩も気がかりそうな顔で戚喜を見つめた。


その日から戚喜の夜が消えた。


昼はいつもと変わらず、劉邦を見送り、問安に上がり、使いをこなした。そして夜になって劉邦が寝入ると戚喜は音もなく床から起き出した。薄暗い灯火(ともしび)を一つ灯し、書案の前に座って筆を取った。一字一字竹簡に詩経を書き写した。目がかすみ、手首が痺れるまで。


そうして半月。戚喜はとうとう書き写しを終えた。半月のあいだ眠れなかったせいで体は痩せ、目の下が黒ずんだ。白粉を塗っても痛々しく見えた。


戚喜は書き上げた竹簡を抱えて宋夫人の局を訪ねた。


「夫人。仰せの書き写しを終えてまいりました」


宋夫人は竹簡をちらりと見ると気のない様子で口を開いた。


「ああ、それ。もうよいわ。要らなくなったの」


戚喜がたじろいだ。


「要らなく……なられたとは?」


「気が変わったの。詩経なんて見たくもないわ」


宋夫人が傍らの侍女を振り返って顎でしゃくった。


「持っていって焼いておしまい」


侍女が戚喜の腕から竹簡を受け取った。それを抱えて中庭の片隅へ持っていった。戚喜はその場に立ったまま自分が夜を徹して書いた文字が火の中へ投げ込まれるのを見つめた。炎が竹簡を舐めた。一字一字が煙となって消えていった。


「どうして突っ立っているの? 用が済んだのならお帰りなさい」


宋夫人が手を振った。戚喜は深く頭を下げて踵を返した。


住まいへ戻った戚喜は崩れるように床に横たわった。半月のあいだ積もった疲れが一度に押し寄せてきた。


見るに見かねた禾児がとうとう泣き出した。


「お嬢様、どうしてこんなことを! 半月もまる徹夜でお書きになったものを焼いてしまうなんて。これが人のすることですか? わたしが行って文句を言ってきます!」


「お嬢様ではなく、夫人……。よいの。禾児」


戚喜が目を閉じたまま禾児を制した。頭がずきずきと痛んできた。顔をしかめてこめかみを押さえると禾児が腹立ちをおさえきれずに足を踏み鳴らした。


綵瑩が口を開いた。


「夫人。此度(こたび)のことは度を越しております。王后さまに申し上げなさいませ。王后さまは夫人がたの諍いを公平にお裁きになると仰せでした。これほどのことなら王后さまとてお見過ごしにはなりますまい」


戚喜はしばし口を閉ざした。ゆっくりと目を開けた。


「綵瑩。お前は聡いからわかるでしょう。わたしが今王后さまのもとへ駆け込んであの者たちを言いつけたら王后さまはわたしをどうご覧になるか」


綵瑩が口をつぐんだ。


「一度なら王后さまも仲裁してくださるかもしれない。でも、こんなことが二度三度と続いたら? 王后さまにとってわたしは面倒を起こす側室になるのよ」


「……ことを起こしているのは三人の夫人がたではございませんか」


「そう。でも、あの者たちがすなおにそれを認めるかしら。そうなれば王后さまはそのつど是非を裁かねばならない。そんな煩わしいことを誰が好むものですか。宋夫人の言うとおりよ。あの者たちはわたしより長く大王にお仕えしてきた。結局は新しく入った側室が寵をたのんでほかの夫人がたを侮っていると映ることになる」


禾児がふくれっ面で言い返した。


「だからといって、いつまでもこんなふうにはできません。もうお体がずいぶん弱っておられるのに……」


戚喜が天井を見上げて低く言った。


「まだ時ではないの」


「え?」


「今は耐える時。時が是非を分けてくれる。だから、こらえて待たねばならないの」


禾児はその言葉が腑に落ちぬのかなおも口をとがらせていた。綵瑩はしばし戚喜をじっと見つめると何か思い当たることがあるようにゆっくりと頭を下げた。


「……さようなさいませ、夫人」


戚喜はふたたび目を閉じた。


いじめは日を追うごとにひどくなった。


三人の夫人はかわるがわる、時には申し合わせたように一度に、戚喜を呼びつけた。口実もさまざまだった。歌舞を所望するという口実、書を頼むという口実、茶でも一杯という口実。だが、いざ局に入ってみればまともな頼みごとなど一つもなかった。ただ戚喜を半日も立たせておくか、こまごまとした使いをさせるか、聞こえよがしに陰口をたたくか、するばかりだった。


戚喜はその一切を受け止めた。呼べば行き、言いつければやり、陰口をたたかれれば聞こえぬふりをした。表情ひとつ崩さなかった。


だが、体のほうが先に蝕まれはじめた。宋夫人の書き写しで半月をまる徹夜してからというもの一度傷んだ体がなかなか元に戻らなかった。そこへ昼ごとに三人の夫人の局を回り、夜ごとに劉邦のお相手をし、朝ごとに問安へ上がるのだから休む間もない。頬がこけ、目の下が黒ずんだ。手首が細って腕輪が緩んだ。白粉を塗っても顔色は冴えなかった。


禾児はその様子を見るに見かねてたびたび涙ぐんだ。綵瑩は黙って戚喜の食事を調え、薬を煎じた。だが、戚喜の体はみるみる痩せていくばかりだった。


梁夫人がいちばん(むご)かった。


彼女はほかの二人の夫人とは違っていた。苗夫人は歌舞で戚喜を貶めようとし、宋夫人は仕事で苦しめた。それなりの口実というものがあった。だが梁夫人はしだいに口実もなしに戚喜を自分の下女のようにこき使いはじめた。


ひっきりなしに人を寄こして呼びつけては髪を整えよ、着付けをせよ、按摩をせよと騒ぎ立てた。戚喜は黙々と梁夫人の肩を揉み、扇であおぎ、衣を整えた。そのあいだじゅう梁夫人は戚喜を侮辱した。定陶の美人と聞いたが、近くで見ればたいしたことはないだの、漢王の目も曇ったものだだの、生家が振るわぬゆえ側室として売られてきたのだだの。


戚喜はひと言も言い返さなかった。ただ頭を下げて言いつけられた仕事をするばかりだった。


そんなある日梁夫人がまた戚喜を呼んだ。


戚喜が局に入ると梁夫人は寝台に斜めにもたれ、横たわっていた。その下には(あかがね)の盥が置かれていた。湯が湯気を立ちのぼらせていた。


「来たか。足がだるくてたまらないのよ。戚夫人、ちょっと洗っておくれ」


梁夫人が盥の上へ両足を差し出した。戚喜はしばしその足を見下ろしてから黙って膝を折った。梁夫人の足を両手で支え、盥に浸した。湯をふくませ、足の甲をゆっくりとさすった。梁夫人が満足げな声をもらした。


「そう、そう。上手なものね。大王が一番にかわいがる側室だけあって足を洗う手つきも麗しいこと」


戚喜は答えなかった。足の指のあいだを拭い、踵をさすり、足首を支え持った。片方の足を抜き、もう片方の足を取ろうとしたその瞬間だった。梁夫人が盥の縁をとんと蹴った。


銅の盥がぐらりと傾いで横に倒れた。湯が一度にぶちまけられた。湯の筋が床を濡らし、梁夫人の裾に跳ねた。戚喜の膝と袖もともに濡れた。


梁夫人が足を引っ込めながら金切り声で叫んだ。


「まあ、何ということを! 湯をこんなにこぼして着物をすっかり濡らすなんて!」


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