彼を知り己を知れば百戦百勝
ほかの夫人がたが退いていくあいだ戚喜は末席に座ったまま両手を重ねて待った。夫人がたが皆出ていき、住まいの中には呂后と戚喜、それに侍女が数人だけ残った。
「これへ近う寄りなさい。奥で茶でも一服しよう」
呂后が席を立ち、奥の内室へ向かった。戚喜は禾児と綵瑩にしばし外で待つよう目配せをして呂后に従った。
奥の間は外よりもなお質素だった。書案が一つに、褥が幾つか、そして片側の壁にきちんと並べられた竹簡があるばかりだった。私的な飾りといえるものはほとんどなかった。呂后が上座に着き、戚喜がその向かいに座を占めた。侍女が茶と茶菓子を運んできた。ほのかな香を立てる茶碗と品よく切った餅が幾切れか二人のあいだに置かれた。
呂后が手ずから戚喜の杯に茶を注いでくれた。
「飲むがよい。遠くから来て難儀であったろうに」
戚喜は両手で杯を受け、ひと口飲んだ。温かい茶が喉をつたって下りていった。呂后は自分の杯にも茶を注ぐとゆっくりと口を開いた。
「名乗りが遅れたな。本宮は呂の姓に雉、字を娥姁という」
戚喜は杯を置き、頭を下げた。
「戚の姓に喜にございます」
「そうか、喜か。喜びの喜の字を使うのか」
「はい、さようにございます。妾の父が付けてくれた名にございます」
「よい名だ。父御が娘をよほど慈しんだとみえる」
呂后が軽く笑った。その笑いに棘はなかった。呂后は卓の上から戚喜の手を取って言った。
「幼い年で王府に上がり、難儀も多かろう。だが、そなたが漢王府に上がった以上心得ておくべきことがいくつかある。難しく聞くことはない。ただ胸に刻んでおけばよい」
「はい、王后さま」
「大王にお仕えすることは軽い務めではない。大王は今天下を争うておられる。項羽との戦がどこへ転ぶかは誰にもわからぬ。そのなかで大王の御心を乱さず、安らかにお休みいただけるよう助けること――それが我らのような者の本分だ」
呂后の声は落ち着いて柔らかかった。戚喜はじっと耳を傾けた。
「王府の内には位階がある。上には本宮がおり、その下に夫人たちがいる。位階があってこそ家内が乱れぬというもの。本宮は夫人たちを分け隔てせぬ。素性も大王の寵も問わぬ。本宮の前では皆ひとしく夫人にすぎぬ。諍いが起きれば片方に肩入れせず、両方の言い分を聞く。だからそなたもほかの夫人たちと争わず、睦まじく過ごすがよい」
「肝に銘じます」
「夫人たちのあいだのことは本宮が見守るゆえ理不尽なことがあれば本宮のところへ来て申せばよい。ただし……」
呂后がしばし言葉を切った。茶碗を口元へ運び、ひと口飲んだ。そのわずかな間に戚喜は呂后の口ぶりにかすかな変化が生じるのを感じ取った。
「ただし、位階を乱すことだけは許さぬ」
呂后が戚喜の手をぐっと握った。
「寵をたのんで分をわきまえぬ側室が時おりおる。大王の寵を受けているからといってほかの夫人たちの上に君臨しようとする者たちだ。わかるか」
戚喜の指先がまた冷たくなった。明白な警告だった。
戚喜は深く頭を下げた。
「妾は分を知り、それを守ります。位階を乱すようなことは決していたしませぬ」
本心だった。戚喜が望むのはまさにそれだった。目につかぬよう、分を守り、静かに。
呂后は戚喜の顔をしばし覗き込むとやがてまた柔らかく笑って手を放してくれた。
「うむ。そなたの気立ては素直なようだ、安心したぞ」
呂后が茶菓子を勧めた。戚喜が餅を一切れ手に取った。
「大王によくお仕えせよ。そして、後嗣をもうけることに心を尽くしなさい。それが側室の最も大きな務めだ。そなたは若く健やかゆえよい知らせがあろう」
戚喜の餅を持つ手が止まった。
後嗣。側室の務め。よい知らせ。
すでに太子を産んだ王后の自信のあらわれだろうか。それとも、ただの社交辞令にすぎぬのか。どちらにせよ後嗣をもうけることは戚喜が最も避けたいことだった。子を産み、その子が太子と座をめぐって争うことになった瞬間戚喜の運命は一つに収斂する。
人彘。
「妾、力を尽くしまする」
だが、ただ頭を下げてそう答えるよりほかになかった。
呂后が満足げにうなずいた。
「今日はこれくらいでよかろう。これからはたびたび訪ねてまいれ。同じ夫に仕える身ではないか」
「はい、王后さま。たびたび問安に上がりまする」
戚喜は座から立ち上がり、深く拝礼した。呂后が軽く手を上げて応えた。戚喜は後ずさりに奥の間を出た。戸を出る間際、もう一度振り返ると、呂后の顔は依然として穏やかだった。
離れ屋へ戻る道すがら戚喜はひと言も口をきかなかった。禾児が傍らで何やらしゃべっていたが、耳に入ってこなかった。綵瑩はそんな戚喜を一度うかがうと口をつぐんだ。
住まいへ戻ると戚喜は二人の侍女を下がらせた。
「少し独りでいたいの。お前たちは外しておくれ」
禾児が案じ顔で何か言いかけたが、綵瑩がその袖を引いて連れ出した。戸が閉まった。戚喜は絹の褥の上に独り座った。
頭の中が乱れていた。
呂后に会った。自分があれほど恐れた女。自分を人彘に変える女。だが彼女は初対面の場で凍りついた幼い側室に自ら挨拶の言葉を教えてくれた。質素な奥の間で手ずから茶を注いでくれた。字を教え、名の意味を尋ねた。夫人たちを分け隔てせぬと言い、理不尽なことがあれば来て申せと言った。
むろん警告もあった。位階を乱すなというひと言。だが、その警告にすら毒々しいところはなかった。正室として当然口にするであろう戒めだった。
あの女が――あの、ありふれた、もしかすると善い人であるかもしれない女がいつの日か自分の手足を切り、豚小屋へ放り込む女なのだ。
戚喜は両手で顔を覆った。
二つがどうしても重ならなかった。漫画の中で豚小屋を覗き込んで嘲笑っていた呂后と、たった今茶を注ぎながらよい知らせがあろうと言祝いだ王后とが同じ人間だという事実が信じられなかった。
もしかすると、と戚喜は思った。もしかすると人彘の故事は誇張されたものではないか。もしかするとあの恐ろしい話は後世に膨らまされたもので、実際の呂后はただ平凡に生きて死んだのかもしれない。だとすれば自分が恐れることなどないではないか。
だが、戚喜はすぐにかぶりを振った。
そう信じ込んでしまうことこそ最も危うかった。平凡に見えるからといって油断すること。善い人のようだからと気を緩めること。今の呂后がどういう人間かさえ戚喜は知り尽くしてはいない。それなのに、十数年後の呂后が、権力を握った呂后がどういう人間かなど見当のつくはずもなかった。
戚喜は顔から手を離し、ゆっくりと姿勢を正した。
わからない。今のところはわからない。あの女が本当にどういう人間なのか、どう変わっていく人間なのか。そして、わからないのであれば自分の手で知っていくよりほかになかった。
遠くから恐れて震えているだけでは何も変わらない。あの女を避けて隠れたところで同じ屋根の下に暮らす身では生涯避けつづけることもできない。それならばいっそ近づくほうがよかった。近くからあの女を見定め、あの女の心を読み、あの女が何を恐れ、何を望むのかを突き止めること。
彼を知り己を知れば百戦百勝という。
自分の最も大きな敵を知らねばならなかった。敵を知ってこそその敵から生き延びる道も見えてこよう。呂后がたびたび訪ねよと言ったのだから口実もちょうどよい。毎日問安を口実に出入りしてあの女を観察するのだ。
そして、彼女と良い間柄を築くこと。自分が彼女の権威に刃向かう気など絶対にないと証し立てること。生きる道は多く用意しておくほどよかった。静かに劉邦の目を避けて影の薄い側室として暮らすだけでは足りない。いつかの夜にふいに子を宿してしまうかもしれない。ならばたとえ子ができたとしても自分は呂后の敵ではないのだということを今のうちから彼女の頭の中に刻みつけておかねばならなかった。
戚喜は長く息を吐いた。
「禾児、綵瑩」
戚喜が二人の侍女を呼んだ。戸が開き、二人が入ってきた。
「明日の朝も王后さまに問安に上がる。支度をしておくれ」
禾児が首をかしげた。
「今日ご挨拶なさったのに明日もですか?」
「ええ。明日だけでなく、毎日行くつもりよ。王后さまがたびたび訪ねよと仰せだもの。たびたび伺わなければ」
綵瑩がその言葉に一瞬戚喜をうかがった。それから、頭を下げた。
「さよういたします、夫人」
戚喜は窓の外へ視線を移した。沛県の春の陽が庭いっぱいに降り注いでいた。
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