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呂后に会う

母屋への道は長くなかった。


綵瑩が半歩前で道を案内しながら低く言葉を継いだ。


「夫人。王后さまは温厚で慈愛深いお方です。下の者をむやみに扱われず、夫人がたの(いさか)いも公平に裁かれます。ですから、あまり気負われずともよろしいかと」


戚喜は上の空でうなずいた。呂后が温厚で慈愛深いだと? 自分の知る呂后は一人の女の手足を切り、両の目をえぐり、耳と舌を切り取って豚小屋へ放り込んだ女だ。その恐ろしい所業をやってのけ、あろうことか自分の息子にその様をわざと見せつけさえした。よほどの温厚と慈愛がなければそんな真似はできまいに。戚喜は腹の中で皮肉った。


「王后さまは大王が漢王に封ぜられるずっと以前から連れ添うてこられたお方です。大王が沛県の亭長であられた頃からその傍らをお守りになってきました。太子の母君でもあられます。ゆえに、大王も王后さまをことのほか重んじておられます」


綵瑩の声が低くなった。


「先ごろある側室が王后さまに無礼を働いたことがございました。王后さまの御前で寵愛をひけらかし、下剋上(げこくじょう)を働いたのです。大王はそれを知るとその側室を厳しく罰し、廃されました。ですから夫人も王后さまの御前ではおのれを低くなさらねばなりません。王后さまは規律を何より重んじられますゆえ礼法に背くことのなきよう……」


綵瑩の言葉は続いていったが、戚喜の耳にはその声がしだいに遠く聞こえていった。


呂后に会う。


その思いが戚喜の頭の中を埋め尽くした。自分を人彘に変える女。厠の上から自分を見下ろし、嘲笑う呂后の姿が思い浮かんだ。あの女にいままさに相見(あいまみ)える。


神経が張りつめた。頭が冷たく冴えていった。背筋を冷や汗が一筋つたった。耳の奥で細い耳鳴りが鳴りはじめた。綵瑩の声がその耳鳴りの向こうでぼうっとくぐもった。


母屋に近づくほどその症状はひどくなった。足取りが重くなった。一歩また一歩と運ぶたびに脚が自分のものでないかのように鈍くなる。指先が冷たかった。口の中がからからに乾いた。


それでも、歩かねばならなかった。側室が正室にする初の問安(もんあん)を抜かすわけにはいかない。不敬と見なされるだろう。戚喜は歯を食いしばって歩を進めた。


やがて母屋に着いた。


綵瑩が戸の前で中へ取り次ぎを頼んだ。しばらくして入るようにとの返事が来た。綵瑩が戸を開けてくれた。戚喜は一度深く息を吸い込んで中へ足を踏み入れた。


王后の住まいは離れ屋とはずいぶん違っていた。新床(にいどこ)をしつらえた離れ屋よりもなお質素だった。値の張る飾りや調度は目につかず、何もかもがきちんと所定の場に収まっていた。


上座(かみざ)に一人の女が座していた。


視線がその女に届いた瞬間、戚喜の心の臓が一度大きく跳ねた。


あの人が呂后だ。


女は三十代の半ばほどに見えた。華やかに装ってはいなかったが、きちんと梳き上げた髪とまっすぐな姿勢に王后の威厳がにじんでいた。顔は丸くも鋭くもなく、表情は落ち着いていた。たいした美人ではなかった。どこででも出くわしそうなありふれた顔だった。漫画で見た、赤い唇をにいっと裂いて笑うあの毒々しい顔とはどこにも似たところがなかった。


呂后の両脇には夫人がたが列をなして座していた。綵瑩が朝に読み上げたあの十人の側室である。魏夫人、梁夫人、苗夫人。誰が誰かは見当もつかなかった。ただその視線が一斉に自分へ注がれるのだけははっきりと感じ取れた。新しく入った十一人目の側室を値踏みする眼差しだった。物珍しさと警戒とかすかな敵意の入り混じった視線。


戚喜はその列の端に立った。拝礼せねばならなかった。膝を折ろうとして脚がわなないた。冷や汗がもう一筋つたった。耳鳴りがいっそう大きくなった。戚喜はかろうじて拝礼を終え、身を起こした。


立ち上がった途端、体が一度ぐらりと傾いだ。


からくも重心を立て直した。だが、その瞬間、頭の中が真っ白になった。


挨拶の言葉が浮かんでこない。


綵瑩がたしかに教えてくれていたはずだった。新しい側室が正室にする初の挨拶の作法があったはずだった。だが、耳鳴りと冷や汗と張りつめた神経のなかでその格式は頭の中にかけらも残っていなかった。


戚喜はその場で凍りついた。


口を開かねばならなかった。何なりと言わねばならなかった。だが、口が開かない。頭の中が空っぽで、何一つ浮かんでこない。顔が青ざめていった。


沈黙が流れた。


夫人がたの視線が戚喜に突き刺さった。誰かの口元に薄ら笑いがよぎるのが視界の端にとらえられた。戚喜の背筋を冷や汗がまた一筋つたった。気を取り直そうとするほど頭の中はいっそう白く、(から)になっていった。


そのとき上座から柔らかな声が聞こえてきた。


「戚の姓に喜と申したか」


戚喜が顔を上げた。呂后が自分を見ていた。その顔に怒りも不興もなかった。むしろ幼い新参の側室の緊張を汲み取るような眼差しだった。


「遠い道を来て疲れたであろう。挨拶が難しければこう申せばよい。『妾、喜が王后にお目にかかります』とな」


呂后が自ら挨拶の言葉を教えてくれた。まるで幼い妹に礼法を教えるようにゆっくりと、柔らかに。


戚喜は慌てて再び頭を下げた。


「妾、喜が……王后にお目にかかります」


声が震えた。挨拶を済ませてからようやくがくりと力が抜けた。出だしから無作法をしでかしてしまった。汗が顎を伝い、床に落ちて丸い跡を残した。


「面を上げよ」


呂后が短く笑って言った。その笑いが思いがけず温かかった。戚喜の頭の中の毒々しい呂后といま聞いた笑い声とがもう一度食い違った。


戚喜はゆっくりと顔を上げた。


「そう怯えることはない。こちらから魏夫人、梁夫人、苗夫人じゃ」


呂后は(いつく)しみ深い笑みを浮かべたまま両脇の夫人がたを順に引き合わせた。夫人がたが戚喜に向かって軽い会釈を送った。戚喜にはそれを一つひとつ受け返すだけの余裕がなかった。ただ名と顔をぼんやりと突き合わせながら一人ひとりに頭を下げた。


引き合わせが終わると呂后が戚喜に向かって言った。


「難儀であったろうにこうして挨拶に来てくれたな。そこへお掛け」


呂后が末席(まっせき)を勧めた。戚喜はもう一度頭を下げてその席に着いた。


席に落ち着いてからようやく耳鳴りがおさまった。冷や汗も引いた。だが、頭の中は依然として乱れていた。


自分があれほど恐れた女が初対面の場で凍りついた自分に自ら挨拶の言葉を教えてくれた。嘲りも侮りもなかった。その柔らかな笑みには残忍なところなどどこにも見当たらなかった。


この人が本当に自分の知る呂后なのか。


戚喜は末席に座り、上座の呂后をちらりと見上げた。呂后はほかの夫人がたと落ち着いて言葉を交わしていた。穏やかな顔だった。


「お嬢様、どうしてこんなに汗を……」


禾児がささやきながらこめかみを手ぬぐいで拭ってくれた。別の侍女が茶を運んできた。戚喜はそれを受け取り、ひと口飲んだ。胸の内が少し鎮まった。


呂后はほどなく席をお開きにした。


「今日はこれくらいでよかろう。皆下がって休むがよい」


夫人がたが順に立ち上がって拝礼し、退いていった。魏夫人、梁夫人、苗夫人。誰が誰かいまだ見当のつかない顔が戚喜の脇をかすめて過ぎていった。そのうち幾人かは戚喜をちらりとうかがって去り、幾人かはまるで目もくれなかった。戚喜も続いて立ち上がろうとすると呂后が軽く手を上げた。


「戚夫人はしばし残りなさい。折り入って話したいことがあるゆえ」


胸がひやりと沈んだ。背筋がもう一度ひやりとした。

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